第四話 謝霊と水死体が語らうこと
レスター警部に連れられた先は遺体を安置しておく部屋だった。整然と並べられた縦長の台は上の遺体ごと布で覆われているものもあればそうでないものもある。
李舵が私たちの到着を待っていたおかげで例の水死体の場所はすぐに分かった——レスター警部は李舵のいる台に向かって一直線に歩いていくと、水死体を挟んで私たちと向かい合った。
「死体を見る前に、まずはこれを見てくれ」
警部はそう言うと、無機質な銀色の皿を差し出した。中にはひどく値の張りそうな指輪や耳飾りがどろどろに汚れたまま無造作に並べられている。水草や土にまみれ、川底の臭気をまとってはいたが、それでもなお私たちにはとても手が届きそうにない代物だと断言できるほどには凝った意匠が施され、電球の光を受けて宝石が輝いている。
「こいつがホトケから出てきたんだが、盗品である可能性が高くてな。今調べてるところなんだが、先週ロシア人の宝石店で起きた窃盗事件で盗まれたものなんじゃないかと睨んでいる」
レスター警部が言った。俄然きな臭くなった状況に私が眉をひそめる横で、謝霊が警部に尋ねる。
「これは遺体のどこから出てきたのですか?」
「肌着の下に麻袋を隠し持っていた。引き揚げたときからやけに重いと思っていたんだが、袋の中から指輪やらネックレスやらがジャラジャラ出てきたんだよ」
レスター警部はそう答えると、「それから……」と呟きながら手帳をぱらぱらとめくった。
「死んでから三、四日は経っているな。死因は溺死に違いないんだが、ホトケの体に殴られた痕がある。まだ水難事故の可能性が濃厚だが、それにしても死ぬ前に誰かと一緒にいたことは確かだろう」
レスター警部はここで布を取り払い、水死体を私たちの眼前に晒した。
服を脱がされた水死体はとても見栄えが良いとは言えず、顔や脇腹に残された痣がそれに拍車をかけていた。私は今度は喉元までせり上がってきた酸味を無理やり飲み込んで咳払いでごまかすと、謝霊の方に目をやった。
謝霊は腰を屈めて水死体の顔をまじまじと観察し、両手を代わるがわる握り込んでは自分の顔や水死体の顔に近付けたり離したりしていた。どうすれば同じ痣ができるか考えているようだ。水死体は左の頬と左目の上に痣があり、眉山のあたりに切り傷までできていた。これだけの傷を自分でつけるというのはたしかに難しそうだ。
「名前は分かったのですか?」
謝霊がレスター警部に尋ねると、警部の代わりに李舵が一枚の書きつけを読み上げた。
「ちゃんと割り出してあります。名前は
「……だそうだ」
警部は不満げに謝霊を一瞥すると、どことなく得意げな空気感をかもし出す李舵をじっとりと睨みつけた。
「李、お前な、そういうことは誰よりもまず直属の上司である私に言えとずっと言っとるだろう。ましてや謝霊は扱いとしては部外者なんだぞ」
「優先順位の高い部外者といったところでしょうね。あくまでも警部たちにとってはですが」
謝霊が面白そうに口を挟むと、警部はむむむと唸るような声を出した。私は以前謝霊と工部警察を訪れたときのことを思い出していた——あのときはひどくぞんざいに扱われたが、もしも応対をしてくれたのが李舵だったら、今のように丁重に扱ってもらえたのだろう。
「それはともかく、名前が分かっているのであれば本人から直接話を聞けます」
謝霊はそう言うと、ぱっと右手を一振りして一枚の呪符を取り出した。
「ファンジョウ……もしかして黒無常・范無救の『范』と『救』ですか?」
私たちに水死体から遠ざかるよう合図しながら、謝霊は李舵に確認した。李舵が頷くと、謝霊は目を細めて「面白い」と呟く。謝霊は続けて私を見ると、
「先日お渡しした首飾りは持っていますね?」
と尋ねた。
「……ええ。持っています」
私は答えながら首元に手を伸ばした——謝霊がくれた銅銭を繋いだ首飾りを、私はいつも服の下につけている。何か効果があるとも思えないものの、身に着けている方が良いような気がするのだ。
謝霊は「それは重畳」と満足げに笑った。
「では、この范救に語ってもらうとしましょう。なぜ呉淞江に浮いていたのか」
そう言った次の瞬間、謝霊は笑みを消して范救という名の水死体に集中した。レスター警部が李舵に目配せして後方に退き、私も謝霊の背後に数本下がる。
謝霊は呪符を二本の指で挟んで顔の前で掲げ持つと、深呼吸をして例の呪文を唱え始めた。
「東岳泰山に眠りし魂、范救に告ぐ。汝、我が声に応え、醒めて
電球が不規則に点滅し、部屋が急に薄ら寒くなる。謝霊は二回、三回と呪文を復唱し、最後に呪符を飛ばして范救の額に貼り付けた。
現れた范救は髪を短く刈り込んだ、精悍な顔つきの三十絡みの男だった。真面目そうな目元は盗品を持って溺死するような男だとはとても見えず、人は見かけによらないのだと思わざるを得ない。寝起きのようにぼんやりと周囲を眺めていた范救だったが、謝霊に声をかけられると緩慢に彼の方を向いた。
「范救先生。私の声が聞こえますか」
相手が同じ上海の人間と分かっているからだろう、謝霊は第一声から上海語を喋り、対する范救も上海語で言葉を返した。
「聞こえているが……あんたは、誰だ」
蜃気楼のようにゆらめく范救越しに、レスター警部が片眉を持ち上げて李舵を窺うのが見えた。李舵が警部に顔を寄せて何やらささやくと、警部は合点がいったように頷いている。
「私は謝霊と言います。訳あってあなたの霊魂を呼び出しました」
謝霊は警部たちのやり取りは目に入っていないらしい。范救の顔をじっと見据え、彼との会話にのみ注意を払っている。
「まずお聞きしますが、あなたは自分が死んでいることにはお気づきですか?」
范救は首を少し傾げ、それから思い出したように緩慢に頷いた——謝霊の言葉を聞いて幾分奇妙な問いだと思った私だったが、范救のこの反応を見て合点がいった。彼はマダム・クリスティン・フォスターのように自身の死をはっきり自覚していないように謝霊には見えたのだろう。
その後も謝霊がいくつか質問したが、范救の答えはどれも曖昧だった。まるでもやを掴もうとするかのようで、聞いているこちらも手応えがまるでない。ところが、自身が死んだときの状況を聞かれたときは、范救ははっきりと「言えない」と答えた。
「約束した。俺たちのことは誰にも言わない、泰山府君にさえも言わないと」
「それは誰とですか?」
「……言えない。言わないと約束した」
范救は頑なに答えると、未だぼんやりした目で謝霊を見つめた。
「ですが、どんな状況にせよ、ご自分が溺れて死んだことは覚えていますよね」
謝霊が念を押すように尋ねると、范救はそれにはこくりと頷いた。
「それは呉淞江でしたか? それとも川以外の場所でしたか?」
「言えない。言わないと約束した」
謝霊は「分かりました」と答えると、考え込むように少し黙ってから次の質問に移った。
「では、質問を変えましょうか。次はあなたの傷について教えてください。あなたは溺れて死ぬ前に、誰かに殴られましたか?」
これについても范救は素直に頷いた。しかし、次に謝霊が誰に殴られたのか聞き出そうとすると、范救はまた「言えない」の一点張りに戻ってしまった。一緒に揚げられた盗品についても范救の答えは同じ——「言えない、言わないと約束した」だ。
その後も何を聞いても必ずどこかで「言えない、言わないと約束した」に行き当たり、謝霊はそのたびに質問を変えなければならなかった。謝霊の質問は范救の家の周辺のこと、仕事のこと、家族の有無やその他の人間関係、毎日の習慣から直近の外出、さらには今までに関係を持った男女にまで及んだが、結局聞き出せたのは節約のために商いの仲間と生活を共にしているということだけだった——そして范救は、この相手について踏み込んだことを聞かれるたびに返答を拒否するのだった。
そういうわけで、謝霊が范救を解放したときには、私たちは風邪や病気とは別種の頭痛に見舞われていた。
レスター警部は手巾を取り出して額を拭うと、ため息をついて言った。
「しかしまあ、驚くほど語らん幽霊だったな。お前たちの言葉は分からんが、それでも同じことが何回も聞こえてきたぞ。あのセリフだけなら今すぐにでも話せそうだよ」
「仕方ありません。范救がしたという約束の効力がまだ切れていないのでしょう。ただ、ここまで拘束力が強いとなると、呪術の類であることを念頭に置いた方が良いかもしれませんが」
謝霊はそう言うと、范救の額から呪符を剥がして一瞬のうちに消し炭にした。
「ですが推測できることもあります。范救が『言えない』と答えた質問から考えるに、一緒に住んでいたという商売仲間がその約束の相手でしょう」
謝霊はそう言うと、私の方をくるりと振り向いた。丸眼鏡の奥では双眸が愉しげに光っている。
「ときに慧明兄、明日のご予定はおありですか?」
「……明日は休日です」
嫌な予感を覚えつつも私は答えた。謝霊はそれを聞いてますます笑顔になり、では、と嬉しそうな声を上げた。
「一緒に虹口に行きましょう。范救の同居人に話を聞きに」
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