第三話 謝霊が自身について語ること

 そこへインド人の警察官がやって来て、私たちの話は一度中断された。彼はなぜか私と謝霊の分だけを一式並べると、レスター警部には小さな紙切れを渡して何やら耳打ちした。

 するとレスター警部は老犬のような顔に驚愕を浮かべ、李舵とインド人の部下をも引き連れて大急ぎで部屋を出てしまったのだ。

「悪いな。すぐ戻るから待っててくれ」

 警部は去り際にそう言うと、扉をガチャリと閉めてしまった。

 私は首を巡らせて三人の様子を眺めた——大勢の警察官が所狭しと行き交う中を突っ切ってレスター警部が歩いていく。李舵はその半歩後ろにしっかりとくっつき、一方のインド人は警部に何やら言いつけられて別の方向へと行く先を転じた。

「何があったんでしょう」

 私が何ともなしに呟くと、謝霊は「さあ」と言って小机の茶器に手を伸ばした。

「彼らも忙しいですから。ただあの人は戻ると言ったら戻る方なので、気楽に待つとしましょう」

 謝霊は犬と遊んでいる辮髪の子どもが描かれたカップを少しばかり鑑賞してから茶を一口すすった——彼らが用意したのは当然のように紅茶だった。私はインド人の警察官が置いていった砂糖の容器からふた匙たっぷり掬って入れ、よくかき混ぜてからカップに口をつけた。

「……そんなに入れるんですか」

 謝霊が眼鏡の奥で目を丸くする。私はため息とともにカップを置いて言い返した。

「癖なんですよ。モリソン商会に雇われた頃……当時は先代のサー・エドワードが一切を取り仕切っていたんですが、砂糖と乳をたっぷり入れた紅茶をよく作ってくれたんです。私はサー・レイフとも歳が近いから、上海での子どもができたようなものだったんでしょう。乳を入れるのはあまり好きではないのですが、砂糖はどうしても入れてしまう」

「成る程。するとモリソン家に雇われて長いんですね」

「ええ、まあ。八つで家を出てからなので二十年は経ちます」

 話しているとノックの音がして、例のインド人警察官が戻ってきた——彼は今度は焼き菓子の小皿を持っていた。

「警部、もうちょっと戻れないです。待っててください」

 彼はたどたどしい英語でそう告げると、小皿を置いて去っていった。私たちは各々焼き菓子を口に放り込み、黙々と咀嚼してから紅茶をもう一口飲んだ。

「……ところで、謝霊兄」

 私はカップを置いて一息つくと、川辺からずっと考えていたことを口に出した。

「謝霊兄のというのは、どんな感じがするんですか?」

 そこらを彷徨く鬼(他の国でいうところの「幽霊」である)の気配が分かるというのは、私にはどうもおっかないように思える。事実、私は呼び出されたものを一度見ただけでひどく体調を崩したのだ。やはり寒気とか、薄気味悪さとか、ある種の不安や恐怖心が芽生えるのか——そう思って尋ねた私だったが、謝霊の答えは予想だにしないものだった。

 謝霊は目線を伏せて少し考えると、

「懐かしさ、でしょうか」

 と呟いた。

「たとえば、母親の胸に抱かれて子守唄を歌ってもらっているような。あるいは郷愁——遠く離れた故郷の訛りで話す人間と偶然巡り会ったような、そんな感じがします。彼らが近くにいると不思議と気分が落ち着いて、離れたくないと思うんです」

 ふと、私の中で何かが噛み合った音がした。この「勘」を否定された謝霊が見せた寂しげな表情、それは彼自身の安寧を否定される悲しみだったのだ。

「私は生まれてすぐに捨てられて、死にかけていたところを父に拾われたそうなんです。それも彼が術を使って生き返らせたんだとか」

 謝霊は遠くを見るような目付きで紅茶を見つめている。呟く声も淡々として、まるで赤の他人の半生を語っているようだ。

「そのせいもあってか、私が鬼の気配が分かると言うと、家族は皆してそんなことはない、気のせいだと言いました。まともに取り合ってくれたのは父だけでした……私は方術の才能があり、おまけにこの奇妙なのおかげで鬼の存在をじかに感じることもできる、願ってもない弟子だったのだと思います。だから父だけは私の話を否定もせず、全て聞いてくれたのでしょう。そんな人、父以外では後にも先にも慧明兄だけですよ」

 謝霊はそう言ってふっと笑みを浮かべた。私は曖昧に頷いて、冷めてきた紅茶を一口飲んだ。

「でも、郷愁なら慧明兄も分かるんじゃないですか? どうも江南の人ではないようだから」

 そう言った謝霊に、続けて二口目を飲みかけていた私は思わず咳き込んだ。

「どうして分かったんです?」

「話し方のクセですよ。始めのうちはそういう喋り方のように思ったのですが、注意して聞いていると北の訛りだと分かったので。北京の方かと思うのですが、どうでしょう」

 そう言うと、謝霊は紅茶を一息に飲み干した。一方の私は唖然としたまま、一体どこに訛りが残っているのかと思案せずにはいられなかった。上海に移り住んで二十年、私は上海語も英語も使いこなし、標準語にまで南方の訛りが染み込んで、この奇妙な街にすっかり溶け込んでいる自負があったのだ。むしろ今故郷の発音を使った方がおかしな喋り方になるような気さえする——楊阿姨に少しぐらい同郷の者に会ったらどうだと言われるほどには私は故郷と距離を置いていたからだ。

「気にすることはないと思いますよ。私だってすぐには分からなかったんですから」

「そうですか……」

 私は釈然としないまま相槌を打った。郷愁と聞いて分からないことはないが、北京の人間と会っても謝霊の言うような感情は湧いてこないというのが私の実感だった。我らの国土でありながら世界中から人々が集まって別世界のていを成している上海という場所は、郷里を忘れていたい私にとっては格好の棲家だったからだ。

 とにかく、ここで私自身のことを事細かに語ろうという気はない。私はそれきり黙り込むと、紅茶を飲んで外の警察官たちを見るともなく眺めた。

 すると、その只中にレスター警部が姿を現した。彼は行き交う部下を押し退けるようにこちらに歩いてくると、扉を開けて早口に言った。

「二人ともすぐ来てくれ。謝霊、また君の勘が当たったようだぞ」

 私たちはぱっと顔を見合わせた——謝霊は得意気に口角を上げると、空のカップを置いてさっと立ち上がった。

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