クラブにて

 二月十五日。午後十時過ぎ。

 K市中心部、私鉄N駅の裏手に広がる繁華街の一角、三階建ての雑居ビルの一階にあるクラブ『ブルー・ベルベット』。その控え室。

 きらびやかに着飾ったホステスたちがひっきりなしに出入りし、休憩がてら菓子片手におしゃべりしたりしているその部屋の壁際に置かれた姿見の前に村上綾乃は座っていた。化粧を直すためだ。

 この時間ともなれば、クラブの忙しさはピークを超えていくらか落ち着いている。しかし悠長なことはしていられない。いつなんどき呼び出しがかかるかわからないからだ。

 綾乃は鏡に写る顔を観察し化粧が崩れている部分をチェックした。口紅がいくらか落ちていた。綾乃は仕事用のプラダのハンドバッグ――二年ほど前に客からプレゼントされたもの――から資生堂のワインレッドの口紅を取り出し唇に沈んだ赤色を乗せた。ワインレッドの口紅はクールでセクシィな雰囲気を引き立てる。それから綾乃はファンデーションをちょっと塗り直したりアイシャドウを少し足したりした、

 一通り化粧直しを済ませた綾乃は鏡を見つめた。

 胸元の開いた青いドレスを着た、ウェーブのかかった栗色の髪のほっそりした体つきの女。

 それが自分だ。

 涼しげな切れ長の目。

 鮮やかな赤に彩られた唇。

 ほんのりと紅の乗った頬。

 見慣れた姿。

 もう十数年もの間、鏡越しに見てきた姿。

 いかにもな水商売の女。

 それが自分だ。

 綾乃はため息をつく。

 まあ、三三歳にしては若々しい顔つきではないかと思う。まだ肌の張りも艶も十分だし、これといったシミもソバカスも見当たらない。

 しかしよく見れば目尻にはうっすらカラスの足跡のようなシワが広がりはじめているし口許にも陰りがある。連日の労働の疲れのせいで目の下には隈が薄く影を落とし、白目には薄く血管が赤い網を張っている。

 もう若くないと綾乃は思う。

 いつまでこの仕事を続けられるだろうか。

 綾乃は昼間はK市内の小さな個人病院の看護師として働いている。経営者の医師は七十近いじいさんで、人はよく腕も悪くないのだが綾乃の目から見ても商売があまりうまくなかった。そのせいで綾乃の給料は決してよいとは言えなかった。月の手取りは二十万ちょっとだ。

 にも関わらず、金はどんどん飛んでいく。食費、光熱費、通信費、保険料、各種税金。それに娘の将来のための金を取り分けておく必要だってある。高校と大学の学費など、諸々考え合わせれば一千万円以上。余裕も考えればせめてそれくらいは必要だ。

 だから綾乃は、ホステスの仕事も掛け持ちして必死に働きできる限り無駄を切り詰めて貯金してきた。

 それでも思うように金は貯まらなかった。

 そこへもってきて、いじめのせいで娘が引きこもりになってしまった。

 学校には相談したものの、どうにも学校当局の態度は煮えきらず、できれば問題をこのままうやむやにしたいという態度が見え透いていた。しかし綾乃には余力がなかった。とてもじゃないが弁護士を雇うどころか学校当局と時間をかけて話し合う余裕すらない。

 どうしようもなかった。

 ひとつ確かなことは、この先さらに多くの金が必要なのに、稼ぎは今後よくなる見込みがほとんどないということだ。


 どうしてこんなことになっちゃうんだろう。


 綾乃はぼんやりと宙に視線をさまよわせた。

 不意に昔のことを思い出した。


 ***** 


 綾乃はもともとK市の住民ではない。北関東のG県のとある町に、高校一年まで住んでいた。

 綾乃の父の幸作こうさくは、小さな町工場を営んでいた。経営は常に苦しかった。それに、幸作の妻であり綾乃の母である由紀恵は身体が弱く、病気で伏せりがちだった。そういうこともあって幸作は、いつも資金繰りに東奔西走していた。そのせいで強いストレスにさらされ続けた幸作は、地元商工会の仲間に誘われ、いつしか賭博にハマるようになっていた。

 そしてあるとき、賭博の敗けがこみ、切羽詰まった幸作は胴元の口車に乗せられ、とうとう闇金融に手を出した。

 あとはよくあるお決まりのコースだ。

 幸作はたちどころに、膨れ上がる借金の返済で首も回らぬ有様となった。

 そこで、賭博の胴元や闇金融の背後にいたヤクザたち――関東有数の勢力を誇る広域指定暴力団、穂積ほづみ会の連中は、幸作に取引を持ちかけた。

 工場や土地の権利を自分たちに譲らないかと言うのだ。

 幸作は拒否しようとした。いくら小さくみすぼらしいと言っても、自分の父親から引き継いだ、大切な城なのだ。そう簡単に首を縦に振れるはずがなかった。

 すると穂積会の連中は、あの手この手の嫌がらせをはじめた。

 家に脅迫電話がかかってきたり、近所に中傷のビラがばらまかれたり。工場に組員がやってきて長時間居座って脅しすかしをしたり。それどころか連中は学校帰りの綾乃にちょっかいをかけたりもした。

 警察には相談しようがなかった。違法の博打に手を出していた幸作は、警察に介入されるわけにはいかなかった。

 日に日に追い込まれ憔悴していく父親を、綾乃は見ていられなかった。

 そうこうしているうちに、由紀恵があっけなく死んだ。

 借金返済に苦しんでいる村上家は満足な葬式を出してやることができなかった。

 しんと静まり返った家で、喪服を着たまま小さな骨壺を抱いて声を殺して泣いている父親に綾乃は言った。


 父さん、わたし、高校やめて働くよ。


 それを聞いた幸作は真っ青になった。そんなことはいけない、ちゃんと学校に行かなきゃだめだと必死に綾乃を説得しようとした。

 綾乃の決意は固かった。

 父親がこれ以上苦しむのを見ていられなかった。

 綾乃は高校を中退して働きはじめた。

 しかし、高校中退の、これといった技術も何もない17歳の小娘に、そんなにいい仕事があるわけがない。

 綾乃は困り果てた。

 そんなとき、声をかけてきたのが、穂積会の連中だった。

 

 嬢ちゃんなかなか感心だな。あのダメオヤジもできた娘を持ったもんだ……そんなあんたに、いい稼ぎになる仕事を紹介してやろうじゃねえか。オヤジさんの借金返済の助けにもなるだろうぜ。

 

 それで綾乃は、もといた町から遠く離れた、太平洋に面したS県のとある街にある、穂積会系の組織が経営するソープランドで働くことになった。もちろん年齢を偽ってだ。


 そしてそこで、綾乃は茜を産んだのだった。

 

 *****


 それから十四年にもなる。

 十四年。

 その間、大変なことがたくさんあり、綾乃は苦労しながら女手一つで娘を育ててきた。

 後悔はない。

 しかし、いよいよ限界かもしれない。

 ではどうするべきか?

 いい考えは何も思いつかなかった。

 綾乃は、傍らに置いたカバンからラッキーストライクの箱を取り出しそこから一本取ると、ルージュを引いた唇にくわえ、使い捨てライターで火をつけた。トーストのように香ばしく甘味の強い煙をゆっくりと味わう。やがてニコチンが効いてきて、指先がかすかにしびれるのを綾乃は感じた。気分がいくらか落ち着く。

 所詮は現実逃避だし、吸えば吸うほど身体にもよくない上に容色を損なうと分かっていたが、それでも綾乃はタバコをやらずにはおれなかった。茜の前ではできる限り吸わないようにするのが精一杯だった。

 しばらくタバコをふかしてから、綾乃は携帯灰皿にタバコを突っ込んでもみ消した。深いため息をつく。

 そのときだった。

 アヤちゃ~ん、ご指名~。

 店のママである皐月さつきだった。

 皐月の顔を見た綾乃は、何か違和感を覚えた。綾乃は尋ねた。どうかしたんですか?

 すると皐月は着物の襟元から伸びた白く細い首をちょっと傾げて、難しい顔つきになって言った。

 ……んー、ええっとね。アヤちゃん、こんなこと聞くのあれなんだけどね……アヤちゃん、ヤクザの知り合いっている?

 それを聞いたとき、綾乃の心の奥深いところで、何かが嫌な音を立てて軋んだ。

 それを噛み殺して、綾乃は尋ねた。ヤクザなんですか、その客。

 ……まあね。見りゃ分かるわよ。あの人たちは普通のお客さんと雰囲気が違うからねえ。

 そこで皐月は綾乃をじっと見つめた。まあ、それはどうでもいいけど。アヤちゃん、心当たりってある?


 ……ないことはない、です。


 その様子で皐月は了解したらしかった。

 オッケ。分かった。それ以上話さなくていい。――行ってくれる、アヤちゃん?

 綾乃は無言で頷いた。

 断る理由も選択肢もなかった。


 綾乃は指名客のいる席に向かった。

 さして広くはないが、品よくシックに調ととのえられた店内に響くのは、客とホステスの笑いさんざめく声、そしてボビー・ヴィントンの歌う『ブルー・ベルベット』の甘くムーディーなメロディ。店の名前と同じ名前の曲。皐月ママの好きな曲でもあった。

 指名客のいる席は、店の奥まった一画にあった。背の低い壁で隔てられた薄暗いブースだった。

 その席に男が一人座っていた。中肉中背で目立たないブラウンの背広を着ていた。顔はよく見えない。マスクをつけている上、うつむいているからだ。一見して普通の勤め人に見えなくもなかったが、確かにその男の雰囲気は他の客といくらか違うように綾乃には思えた。

 しかし今さら怖じ気づくわけにもいかない。

 席に着いた綾乃は、ご指名ありがとうございますとその男に言った。アヤと申します。よろしくお願いします。

 男は無言で頷いた。

 綾乃は、その仕草に何となく見覚えがあるような気がした。

 しかし、この男はこの店に来るのははじめてのはずだ。

 なのにどうしてだろう?

 綾乃は少し身を乗り出して、男に話しかけた。

 ところで、お客様のお名前を聞かせていただいてもよろしいですか? 名前がわからないんじゃどう話しかけていいのかわからないので……。

 すると男が言った。

 ……わかんねえか。やっぱり。もう十年以上にもなるもんな。仕方ねえよな。

 男は、すっと顔を上げ、マスクを外した。

 その顔に綾乃は見覚えがあった。

 いや、あるどころではなかった。

 何せその男とは、かつて身体を重ねたことがあるのだから。

 

 そうだよ。俺だよ。石丸。石丸隆史。――久しぶりだな、綾乃。


 呆然として固まっている綾乃に、男――石丸はぎこちなく笑いかけた。


 石丸隆史は、茜の父親にあたる男だった。


 

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