寄り添う

 村上茜が木島沙希さきと出会ったのは数か月前。茜が不登校状態に陥って、まだ間もないころのことだった。

 秋の声が聞こえはじめたとはいえまだ蒸し暑い、そんな夜だった。

 その夜、茜は死ぬつもりだった。

 明確に死にたいと思い詰めていたわけではない。ただなんとなく死のうと思ったのだ。

 心が折れ砕けると、死を押し留めるブレーキがうまく機能しなくなる。

 茜は何かに誘われるようにふらふら部屋の外に出た。

 茜はよろめきながら廊下を歩き、階段を上っていった。

 そして気がつくと屋上に出ていた。

 月も星もない暗い夜だった。

 自分にちょうどお似合いの夜だと茜は思った。

 この真っ暗な夜に抱かれたなら、きっと心安らかに死ねるだろうと思った。

 茜は引き寄せられるように屋上の手すりに近づきそれに手をかけて乗り越えようとした。

 そのときだった。


 ねえ。


 聞いたことのない低い声だった。


 ねえ、どうしたの?


 茜が声の方を振り向くと、黒い服をきっちりと着込んだ、背の高い、黒いショートヘアの女が屋上の片隅に立っていた。

 茜はびっくりした。今の今までまるで気配を感じなかったからだ。

 夜の闇の中からにじみ出てきたのではないかと茜は一瞬本気で思った。


 ねえ、誰だか知らないけど、いったい何がしたいの? もしよかったら聞かせてよ。


 女が言った。


 え、えっと。ちょっとその、遠くへ。行きたくて。


 茜は答えようとして、うまくいかなかった。

 女が笑った。


 その先には何にもないと思うよ。


 それはその、わかってます。だから、その。


 女がすっと目を細めた。切れ長の、涼し気な目元。

 その目で見つめられたとたん、茜はどういうわけだか動けなくなった。

 そんな目をしたひとは、これまでの人生で見たことがなかった。


 何があったか知らないけどさ。


 女が言った。おだやかで、低い声だった。


 遠くに行く前に、話そうよ。わたしと。


 女は笑った。

 

 それが木島沙希との出会いだった。


 *****


 木島の部屋は、茜の目から見ても、ひどくものが少なかった。

 木島の部屋は茜の部屋と同じ間取りの1LDKだ。茜がいつも通されるのはリビングスペースで、奥の部屋には行ったことがない。

 その部屋には家具と言えそうなものは数えるほどしか置かれてない。粗末なテーブルと椅子、それに小さな棚がひとつ。飾り気もほとんどない。窓際にドライフラワーを飾った花瓶がひとつ。壁にかかっているのは時計とカレンダーだけ。

 単に貧しいからというわけではなさそうだった。

 木島は身の回りに多くのものを置いておくのを好んでいないようであった。

 それがどうしてなのか、茜は知らなかった。木島の好みがそうなのだろうと思うだけであった。

 木島はいつものように茜に椅子をすすめた。それから茜に、いつものでいいかなと言った。茜は頷いた。木島は無言で台所に向かった。茜はその様子を目で追った。

 木島は戸棚からマグカップを二つ取り出した。片方は無地の黒、もうひとつは白地に花柄の模様があしらわれ黒のものよりいくらか小さかった。その二つのマグカップを作業台の上に置くと同じ戸棚から金色のバンホーテンのココアの缶とインスタントコーヒーの瓶とスプーンを取り出してマグカップの隣に置いた。それからガスコンロの下の物入れを開き、中から小さなホーローびきの片手鍋を取り出しコンロにかけた。次にココアの缶の蓋を開けスプーンで中身をすくい片手鍋に入れた。次に冷蔵庫から牛乳パックを取り出し口を開けると鍋の中に牛乳を少し注いだ。それから作業台の上に置いてあった小さな陶器の壺から砂糖をひとすくい取ってそれも鍋に入れた。鍋に火をかけ、作業台の下の引き出しから取り出したゴムべらでゆっくりと中身を練る。しばらく練ってから牛乳パックを取り牛乳を少しずつ鍋に加えてゴムべらでかき混ぜる。しばらくして木島はゴムべらを引き上げ指先でヘラについたココアを少し取ってなめてからうなずいた。火を止め鍋をコンロから引き上げ花柄のマグカップの中にココアを注ぐ。

 次にコーヒーの瓶の蓋をねじ外し瓶を傾けて中身を適当に黒のマグカップに入れた。そのマグカップを持ってキッチンの片隅に置かれた電気ポットに近づきマグカップの中に湯を注いでからそのカップを作業台に戻した。戸棚に近づき新しくスプーン二本を出しカップに一本ずつ入れるとカップの取っ手を持ってテーブルに戻る。花柄のマグカップを茜に差し出した。

 どうぞ。

 ……ありがとう、ございます。

 茜はカップを受け取った。木島は向かいの席に着いた。

 それから二人はカップに口をつけた。

 茜の顔が自然に顔がほころんだ。寒い夜に飲む暖かく甘いミルクココアの味は格別だった。木島が手間ひまかけて作ってくれたものだからなおのことだった。茜は両手でぬくいカップを包み込むように持って少しずつココアを飲んだ。

 木島はテーブルに左腕を置き右手でカップを持ってブラックコーヒーを飲んだ。その目は茜を見つめていた。穏やかな目つきだった。

 二人はしばらく飲み物を楽しんだ。

 コーヒーを飲み干しカップを置いた木島が、茜を見つめて言った。

 それで、今日はどうしたの?

 カップを置いて茜は答えた。

 消えて、なくなっちゃいたいと思ったんです。

 木島は、切れ長の目で茜を見つめ、どうして? と言った。

 昔のことを思い出したから、です。

 学校でのこと?

 茜は頷いた。

 木島は言った。

 そっか。

 木島は口数が多くない。長々と話すということをしない。

 その簡潔さが茜にはありがたかった。


 *****


 茜と木島は深夜の屋上で、何度か会って話をした。

 とりとめのない話ばかりだった。茜が一方的に話すことも多かった。

 木島は、茜の話を黙って聞いてくれた。

 どんなことでも。

 ある夜、茜は木島にこんな話をしたことがあった。

 まだ茜が小学生の低学年の頃のことだ。

 学校で、父親がいないことをからかわれた茜は、泣きながらそのことを母に言った。

 そして、自分の父親はいったいどんな人間なのかとたずねた。

 母親は答えをはぐらかした。しかし、そのときの母親の顔つきを、茜は今でも覚えている。

 その顔を見た茜は、それ以上そのことを質問してはいけないと幼心に悟った。

 それ以来、茜は母親に、父親のことについて深く聞いたことがなかった。

 木島は黙って話を聞いていた。

 それから、茜を見て言った。


 茜ちゃんは、お父さんのこと、どう思ってるの。


 茜は答えた。何も。

 だって、一度も顔を見たことないし。それに、わたしが生まれたときには、もう父さんはいなかったんです。ただ……。


 ただ?


 ……ただ、何となくだけど、悪い人なんだろうなって。わたしは、そんな人間の血を引いていて、それを母さんは、どう思ってるんだろうって。


 茜の声は震えた。

 木島が、すっと目を細めて、低く穏やかな声で、茜ちゃん、と言った。

 茜は顔を上げた。

 木島は、茜を見つめて言った。


 茜ちゃんは、茜ちゃんだよ。他の誰でもなく。だから、そんなことは気にしなくていい。誰の血を引いてるとか、そんな下らないことはね。――それに、茜ちゃんは、お母さんのこと、好きでしょう。


 茜は黙ってうなずいた。

 木島は微笑んだ。


 だったら、さ。お母さんも、茜ちゃんのことが好きだよ。きっと。そういう気持ちは、きっと通じ合うものだからさ。


 だから、心配する必要はないよ。


 木島はそう言って、優しく微笑み、茜を抱きしめた。

 それで不思議と、茜の心は安らいだ。

 そんな気持ちは、ずいぶん久しぶりのことだった。


 茜はそれから、木島にいろいろなことを話した。

 疲れきって帰ってくる母親には、とてもじゃないが聞かせられないようなこともどんどん話した。

 夜ごと孤独に襲われること。

 夜に窒息させられそうに感じること。

 母親に苦労ばかりかけて申し訳なく思っていること。

 いっそこのまま消えてしまえたら、どんなに楽かと考えてしまうこと。

 それらの全てを、木島は黙って聞いてくれた。

 そして、おためごかしや、その場限りの安い同情などではない、真摯に考えた上でと思える言葉をかけてくれた。

 それが、茜には何より嬉しかった。

 木島は、茜にとって、本当に心から打ち解けて話せる友人だった。

 年が離れていることなど関係なかった。

 

 やがて、季節が巡り、吹きつける風が冷たさを増すころ、木島は茜に、もしよかったら、これからはわたしの部屋で話をしたらどう、と言ってくれたのだった。


 ***** 


 茜はとりとめなく話している。

 学校のことを思い出すと、胸が苦しくて、息が詰まりそうで。

 茜は言う。

 夜になるといつもそうなんです。くやしくって、悲しくって。

 茜は言う。

 どうしたらいいのかわからないんです。

 言葉が続かなくなる。

 茜はうつむく。


 そっか。


 木島は言う。

 その簡潔さが、茜には何よりありがたい。

 木島の低い声は、茜の孤独な胸の奥に、じんわりとしみこんでいく。

 茜は、ぽつりぽつりと涙をこぼした。

 茜ちゃん。

 木島が立ち上がり、テーブルを回り込んで茜に近づいた。


 おいで。


 木島は言い、腕を広げた。

 茜は立ち上がって、木島に抱きついた。

 胸に顔を埋める。柔らかくて暖かかった。

 木島がそっと、茜を抱きしめる。

 茜は木島に包み込まれる。

 心が安らぐのを茜は感じる。

 木島の長くて節くれだった指が、茜の長い髪を優しくくしけずる。

 木島の優しい息づかいが茜の耳に染み込んでくる。

 茜は目を閉じる。

 このひとときが、茜のいちばん好きな時間だ。

 このためだけに、木島のもとを訪れるのかもしれなかった。

 いつまでもこうしていたいと茜は思う。

 このときだけは孤独を忘れられるからだ。

 このときだけは、痛みを忘れられるからだ。

 

 チクタク、チクタク。

 壁の時計が、無心に時を刻む。

 チクタク、チクタク、チクタク。

 チクタク。


 深夜プラス1。


 楽になった?


 木島の声。茜はうなずく。

 そのとき、茜のスマートフォンが鳴った。

 木島はそっと抱擁を解いた。

 茜はスマートフォンを取り上げた。LINEのメッセージ欄を見る。

 母からだった。

 いまから帰ります、とだけあった。

 お母さんから? と木島が言った。茜は頷いた。

 母親から連絡があったら、すぐに部屋に戻らなければならない。

 茜の母は木島のことをよく思っていない。無口で、いつも葬儀屋のような服装をしている、何をしているかよくわからない気味の悪い女だと思っている。

 そんな女のもとに茜が通っていると知ったら。

 それを想像するだけで、茜は気分が悪くなる。

 すみません。……ありがとうございました。

 木島は笑う。


 いいよ。気にしないで。

 また、つらくなったらおいで。


 木島にそう言われて、茜は部屋に戻った。

 


 母親はしばらくして帰ってきた。いつものように、疲れて老け込んだ顔をしていた。

 ただいま。

 帰ってきた母は、いつものように、酒の匂いを漂わせていた。また今日も、どこの誰ともしれない男たちと酒を飲みながらくだらない世間話をして神経をすりへらす仕事を終えて帰ってきたのだ。茜が学校に行けなくなってから、綾乃はこれまで以上に夜の仕事に精を出すようになっていた。何かに急き立てられるように、綾乃は必死に働き金を稼いでいた。

 今日は……どうだったの?

 茜は尋ねた。母は間延びした調子で言った。

 まあまあ……よ。どうってことないから。心配しないで。ごはんは食べた?

 うん……ちょっとだけ。

 ちゃんと食べなきゃだめよ。

 綾乃は言いながら上着を脱ぎ捨てた。それからぐったりと椅子に座りこんだ。

 酒と疲労で軽く充血した目で綾乃は茜を見た。

 ねえ茜。

 なあに、母さん。

 ……茜、わたしのいないあいだに、誰かと会ったりしてない?

 茜は一瞬びくりと身を震わせた。

 してないよ。

 ……ふうん。ならいいけど……。

 綾乃の声はだんだんと低く、さらに間延びした感じになっていった。

 ……いい、母さんはね……心配してるだけ。ねえ。隠しごととかはなしにしてね。わかった? 最近、何かと物騒だし……だからね、わたしは……。

 誰とも会ってないよ。ほんとだよ。

 茜は言った。声が震えないように気をつけるので精一杯だった。

 ……そう。ごめんね。母さんね……なんだか疲れちゃって……。

 仕事、仕事だもん。しかたないよ。早く寝たら……。

 ……うん。ごめんね、茜。

 綾乃はふらふらと立ち上がり奥の部屋に行った。しばらくしてかすかないびきが聞こえてきた。

 茜はため息をついた。眠れそうもなかった。

 もし母が、木島とのことを知ったらどうなってしまうのか。

 それを考えるだけで、茜は気分が悪くなる。

 茜はテーブルに顔を伏せる。

 何も考えないようにつとめる。

 それでも、夜のざわめきが、またひたひたと忍び寄ってくる。

 早く夜が明けてほしいと茜は思う。



 それでも夜の底は、まだ白くならない。



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