村上茜という少女

 あっち行ってよ。キモいから。


 そう言われたあの日、村上茜は決定的な痛手を負い、それからというもの、学校に行けなくなった。

 実を言えば、ダメージはそれ以前からじわじわ蓄積していた。あの一言は、村上茜という、びっしりヒビが入って、それでも何とか形を維持していた陶器に加えられた、最後の、ごくささやかな、しかし痛烈な一撃だった。それで、彼女は音立てて砕け散ったというわけだった。

 心が折れ砕けると、朝目覚めても寝床から起き上がれなくなる。

 その日一日に何の希望も持てなくなる。

 未来というやつに何の期待も抱けなくなる。

 それで、彼女は不登校になった。

 母親は彼女を医者に連れて行ったが、結局どうにもならなかった。薬を処方してもらったものの、茜はそれを飲む気になれず、結局トイレに流してしまった。母親は茜をずいぶん叱ったが、だからといってどうしようもなく、それっきりとなった。

 未来に期待できないのに、どうして薬を飲んで病気を治す必要があるだろうか。

 とどのつまり、そういうわけだった。


 じゃ、行ってくるね。

 そう言って、朝食もそこそこに、母の綾乃が朝早く仕事に出かけると、茜はひとりぼっちになる。

 長い長い一日のはじまり。

 母親は毎日朝の六時には家を出て、夜遅く帰ってくる。仕事を掛け持ちしているからだ。昼間はK市内の小さな個人経営の内科病院の看護師、夜はクラブのホステス。帰ってくる時間はまちまちだが、深夜零時前に帰ってくることはまれだ。月に何回かは、朝帰りになることもある。

 それまでのあいだ、茜はひとりぼっちで留守番をしている。

 午前十時過ぎ。茜は、いつものようにもぞもぞと寝床から這い出して、カーテンの隙間から差してくる日光から逃げるように、ダイニングキッチンに転がり込む。

 茜は、安っぽいビニールのテーブルクロスをかけられた、これまた安っぽい中古の木製テーブルにつき、遅い朝食をとる。とはいえ、茜はろくに食べる気がしない。ここ最近、ずっとそんな調子だ。クッキーかビスケットをひとつふたつ、チーズ一欠け、それにミルク。そんな程度。それ以上は食べられない。無理に食べようとすると、喉が詰まるような気がして、吐きそうになるのだ。こんな調子だから、体重は減る一方。茜の身長は160センチほどだが、体重は40キロ台の半ばあたりだ。さらに減るかもしれない。それに、体力もめっきり下がってしまった。布団から起き上がるだけでも億劫だし、ちょっと動けば息切れする。貧血で倒れそうになるのもしょっちゅうだ。そのせいで、さらに無気力になっていく。負のスパイラルだが、茜にはどうしようもなく、どうにかしようという気力もわいてこなかった。

 食事を終えた茜は、のろのろと立ち上がって、洗面所に行く。歯を磨き、顔を洗う。身なりを整えようなどという気持ちはほとんどなくなっているが、半分惰性でやっている。

 タオルで顔を拭いた茜は、鏡に映る自分の顔を見る。

 青ざめて、荒れた肌。こけた頬。目の下の黒いくま。口の端や額に点々と散らばる赤い吹き出物。

 長い黒髪は寝ぐせでくしゃくしゃ、ぼさぼさで、手入れが行き届かないために年相応の艶も失われている。

 ひどいものだ。

 自分の顔を見ていられなくて、茜は洗面所を出る。

 トイレに行く。何も出てこない。ろくなものを食べてないし、胃腸の調子もよくないからだ。ここ最近、ずっとこんな調子だ。

 トイレから出てくると、茜は再び寝床に戻る。

 カーテンを隙間のないように閉ざす。敷きっぱなしの布団に潜り込み、頭まで毛布をかぶる。目を閉じる。

 光から逃げるようにして、茜は眠りに落ち込んでいく。

 夢は見たくない。泥のような深い眠りが茜の望みだ。

 そんな眠りは滅多にない。

 茜は夢を見る。ろくでもない夢を。

 同級生のよそよそしい、冷たい視線。ひそひそ話。くすくす笑う声。

 友だちなんていない。みんな茜をのけ者にする。仲間外れにする。

 茜はみんなとうまく話を合わせられない。みんなの持っているゲームや漫画を持っておらず、みんなの知っているアイドルなどもろくに知らない。

 クラスメートの女の子たちは、みんな化粧をして、洒落たアクセサリーを互いに見せびらかし、いい匂いのシャンプーや香水の香りをさせている。暇さえあればインスタグラムなどをチェックして、最新ファッションの動向を確認するのに余念がない。茜は、そういうことにもついていけない。

 勉強でも茜は苦労する。大抵の子は塾に行っているし、さらには家庭教師なんてつけてもらったりしている子もいるが、茜はそうではないからだ。必死になって勉強しても、それでも成績はクラスの中くらいから上に行けない。

 どうしてそうなのかといえば、茜の家は、母子家庭で、お金がないからだ。

 しかし、茜がみんなからのけ者にされるのは、それだけが理由ではない。

 クラスメートのひそひそ話が聞こえてくる。


 聞きたくない。聞きたくない。聞きたくない。


 茜は、夢の中で、必死に耳をふさごうとする。


 聞きたくない。聞きたくない。聞きたくない。


 それでも声が染み入ろうとする。


 聞きたくない。聞きたくない。聞きたくない。


 そうやって抗っているうちに、茜は、望み通りの、夢のない眠りに落ち込んでいく。



 目が覚めた時には、もう日はとっくに暮れている。

 午後七時過ぎ。

 頬は、眠っている間に流した涙で濡れている。

 茜はもぞもぞと起き上がって、洗面所で顔を洗ってから、ダイニングキッチンに行く。蛇口のコックをひねり、コップに水を汲んで飲む。

 壁越しに、隣人たちの生活音が聞こえてくる。

 泣き声。わめき声。どたばた走り回る音。壁を叩く音。騒がしい音楽。テレビの音。

 夜になると、いつもこんな調子だ。茜たちの住んでいる〈あさぎりハイツ〉は、このK市の中でも比較的治安の悪いS区にある、低所得者向けの安いマンションだ。住民の質は、お世辞にもよいとはいえない。ケンカ騒ぎもときどきあり、警察がそのたびやってくる。今日はまだ静かな方だ。

 茜は夕食をとる。インスタントのポタージュとクッキー、それにミルク。

 食事を終え、皿やマグカップを流しで洗ってから、茜はシャオミのスマートフォンを持ち出し、通信料のかからない無料ゲームを遊び始めた。簡単なパズルゲームだ。

 〈あさぎりハイツ〉にはWi-Fiなんて結構なものはないし、綾乃は個別のインターネット契約をしていないから、下手にスマートフォンでYouTubeの動画なんか見ようものなら、凄まじい勢いで通信料が跳ね上がる。ゲームにしても同様だ。綾乃は格安SIMを契約しているが、それでも限界はある。

 だから、課金要素のある、手の込んだオンラインRPGゲームなど、茜にはとても遊ぶことはできない。

 だから茜は、小さなスマホにしがみつき、無料ゲームを遊ぶ。

 孤独を癒す方法を、茜は他にほとんど知らない。

 チクタク、チクタク。時計は無情に時を刻む。

 八時。九時。十時。

 彼女は必死にスマホにしがみつき続ける。

 パズルゲームに飽きた茜は、無料サイトからダウンロードした曲を聞く。それから、テレビのバラエティ番組を見たりもする。

 茜の願いは、苦しみを先送りにすることだ。

 茜は必死に、その場しのぎの享楽にすがりつく。

 しかし、孤独のしみいる長い夜は、彼女の心の奥底の、ねじくれ折れ曲がった部分を容赦なく暴き立てる。深く傷つき、じくじくと血を流す、膿み崩れた傷口を、無慈悲にも冷たい風にさらす。

 クラスメートのひそひそ話が、どこからともなく聞こえてくる。


 ねえ、聞いた聞いた?

 マジ?

 マジよマジ、大マジ。

 あいつさあ、オヤジいないじゃん。

 刑務所入ってるんだって。

 ええー。

 ホントだよー、あたし嘘言ってないもん。

 あたしもママから聞いたよ。

 あいつのオヤジってさ、ヤクザなんだって。

 でさ、あいつのオフクロはさ、なんだっけ、カラダ? 売ってたって。

 えっ、じゃあその、セックス? してたの?

 うっわー。

 オヤジが言ってたよ。キモいよなー。

 うっわ、まじヤベーわ。近づかんとこ。


 茜は、父親の顔を知らない。父親に会ったこともない。

 物心ついたときには、父親はもういなかった。母親と二人きりの暮らしだった。

 そうなるに至る顛末を、茜はよく知らない。

 母親は、そのことを話したがらない。

 茜が知っているのは、母親がいろいろなハンデを乗り越えて、人一倍努力して、たった一人で茜を育ててきたということだ。

 そんな母親を、茜は愛していた。世界の誰よりも。

 だから、茜は、母親が悪く言われるのを我慢できなかった。

 茜は、むきになって、悪口を言う奴らに食ってかかった。喧嘩になったこともある。

 それでも、悪口は絶えなかった。

 やがて、クラスメートの親たちが、自分の両親についてあれこれ口さがないことを言っているらしいということが、茜にもわかってきた。


 この世界は最低だ。


 14歳にして、茜はそういう考えを抱くに至った。


 どいつもこいつも、いい人みたいな顔をして、ろくでなしばっかりだ。

 わたしのお母さんは、たったひとりでわたしを守って、大切にしてくれるのに。

 どうしてお母さんがバカにされなきゃならないの。

 どうして、ただお金がないってだけで、こんなにバカにされなきゃならないの。

 どうして、父親がヤクザだってだけで、こんなこと言われなきゃならないの。

 どうして。どうして。


 どうにもならない。それは茜にもわかっていた。

 この世界は、あまりにも残酷だ。自分ではどうしようもないことで、自分の価値が決められてしまうのだ。

 茜は、茜なりに、そんな世の中に抗ってきた。その結果がこれだ。

 笑うしかない。

 いま、茜がいちばん申し訳なく思うのは、母親に対してだ。こんなふうになってしまったことについて、母に大きな負担をかけていることについて。


 いっそ、消えてなくなってしまいたい。

 そしたら、これ以上お母さんを困らせずに済むから。

 でも、そうなったら、きっとお母さんは苦しむに違いない。


 茜はスマートフォンを置いた。

 耐えられなかった。

 テーブルに顔を伏せ、椅子の上で身体を縮こまらせて、茜はうう、ううと声を漏らして泣いた。


 助けて。助けて。

 誰か助けて。


 夜が、茜を押し包んで、窒息させようとする。


 耐えがたかった。


 いま、何時だろう。


 茜は時計を見る。

 午前零時にあともう少し、という時間だった。

 母親が帰ってくるには、まだだいぶ時間がある。

 そんな時間まで、ひとりで待つのは、いまの茜には耐えられそうもなかった。

 助けが必要だった。

 茜はふらふらと立ち上がった。涙に濡れて、腫れぼったい顔をそのままに、よれたジャージ姿のまま、よろめくように部屋の外に出た。

 夜の廊下は静かだった。

 夜空は、月もなく、星もない。

 街の喧騒が、遠く潮騒のように聞こえてくる。

 茜は、廊下をふらつくように歩いて、廊下の突き当りにある、506と書かれたドアの前に立った。

 茜はドアの隣のブザーを押し、それから、消え入るようなか細い声で言った。

 木島さん、いますか。わたしです。茜です。

 しばらくして、ドアがゆっくりと開いた。

 中から顔を出したのは、黒いショートヘアの、背の高い、色白の、ほっそりした女だった。その顔つきはシャープで、中性的な雰囲気があった。ゆったりした黒いシャツとズボンを身につけていた。

 その女は、切れ長の、鋭く黒い目で、だまって茜を見つめると、やああってうなずいた。

 入って。

 女はそう言って、茜を室内へと招き入れた。

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