夜の底のふたり

HK15

プロローグ

 闇の中、赤は黒よりなお黒い。


 彼女がそれを知ったのは、いったいいつ頃だっただろうか。


 暗い部屋。


 暗闇よりなお暗い、よどんだ水たまり。

 その中に人がうつ伏せに倒れている。

 黒い革ジャンを着た大柄な男。傍らにはウージー短機関銃。腰には使い古されたコルト・ガバメントの45口径。

 その男の頭は破裂している。頭の中は暗い空洞になっている。

 黒い水たまりの中に、ぶよぶよした白い豆腐のような塊が点々と浮いている。


 ぐしゃぐしゃになった脳髄。


 血の匂い。濃厚で、息詰まるほどの血の匂い。

 

 これは過去の再演に過ぎない。


 そうとわかっていて、それでもなお彼女は戦慄する。


 彼女は銃のグリップを握りしめる。

 ざらざらして冷たい、鋼とプラスチックの感触。

 シグ・ザウエルP226 Mk25。

 米海軍特殊部隊SEALsで正式採用されている、高性能自動拳銃。

 彼女はMk25にすがりつく。

 それしか頼れるものがないからだ。

 特製の20連弾倉を装着した、世界最高峰レベルの戦闘用自動拳銃コンバット・オートが、ひどく小さく、心もとなく感じられる。

 彼女は足元を見る。

 赤黒い血の筋が、闇の奥の方へとのたくりながら伸びている。

 誘うように。

 彼女は意を決する。

 Mk25のフレーム下部に取りつけられたシュアファイアX300フラッシュライトを点灯する。

 教科書通りのウィーバー・スタンスでMk25を構え、フラッシュライトの光だけを頼りに、闇の奥へと踏み込んでいく。

 血の匂いがどんどん濃くなっていく。

 膝が震える。息が浅くなる。額ににじむ汗はねばついている。


 この先に何を見るのか、彼女は覚えている。

 見たくない。だが見るしかない。


 これは過去の再演に過ぎない。


 ぴちゃ、ぴちゃ、ぴちゃ。

 靴底が血だまりを踏みつける。

 ぴちゃ、ぴちゃ、ぴちゃ。

 彼女は歩き続ける。

 どこかで誰かが泣いている。

 誰かが楽しそうに歌っている。

 彼女は声のする方へ歩いていく。


 いくつもの死体。


 胸をかきむしるような泣き声。

 ほがらかで、楽しげな歌声。


 彼女は歩き続ける。


 いくつもの死体。


 いずれの死体も頭が破裂し、あるいは心臓を一発で撃ち抜かれ、あるいは腹に一撃食らい背中にドンブリ鉢のように口を開けた射出孔からちぎれかかった臓物がはみ出ている。


 恐怖と苦悶に歪んだ顔。

 助けを求めるように宙に伸ばされた手。

 鉤爪のように曲がったまま凍りついた指。

 血の海の中に浮かぶ脳髄や臓物の切れ端。

 

 ヘンゼルがこぼしたお菓子のかけらのように、無惨な死体が彼女をいざなう。


 泣き声と歌声が混ざりあい、不気味な不協和音となって、どんどん大きくなっていく。


 行きたくない。行きたくない。

 見たくない。


 それでも、彼女の足は声のする方へと向かう。


 これは過去の再演に過ぎない。


 彼女は見るしかない。


 死体と血の海をたどり続けて、彼女はやがて終点に行き当たる。

 黒々と血に濡れたドア。

 泣き声と歌声は、そのドアの向こうから聞こえてくる。

 誘うように。

 彼女は眉間に深いシワを寄せ、右手でMk25を構えたまま、左手で血まみれのドアノブをつかむ。

 ぬるりと嫌な感触。

 ドアノブをひねり、ドアを引き開ける。


 明るい光。


 赤。赤。赤。


 歌声がやむ。

 

 あら遅かったじゃない、〈オイレー〉。


 穏やかに笑いながら先客が言う。

 女だ。人形のように整った美しい顔の、すらりと背の高い女。

 身にまとうのは、一点の曇りもない真っ白な丈長のコート。

 足を包むのは、ぴったりした白のレザーパンツ。

 足元を固めるのは、真っ白な編み上げのブーツ。

 腰まで伸びた豊かな髪は、雪のように白い。

 微笑むその顔も、陶器チャイナ・ボーンのように白い。

 白いまつ毛に縁取られたその双眸の色だけが違う。

 その瞳の色は赤だ。鮮やかな鮮紅色だ。

 足元に広がる、赤い血だまりのように。


 パーティはもう終わっちゃったの。残念ね。


 白いコートの女が言う。

 白い手袋をはめたその左手には、顔をぐじゃぐじゃにゆがめて泣く、花柄のワンピースを着た女の子が抱かれている。

 そして、その女の子の頭には銃が突きつけられている。

 白銀色に輝く、古風で趣ある造形の大型リボルバー。

 すらりと長く伸びた銃身、撃鉄から半球型のリコイル・プレートを経て湾曲したグリップに至る優雅な曲線。照星フロントサイトは角張っているが銃の優雅さを損なわないように注意深く造形され、平たいフレーム上面に取り付けられた大型の照門リアサイトもそれは同様だ。華美な装飾エングレーブは施されていないが、一目見ればそんなものは必要ないと誰もが了解できるだろう。

 だが、そのリボルバーの一番の特徴は、優美ながら頑丈な作りの大型フレームにはめ込まれた大振りの輪胴シリンダーだ。その輪胴は表面がつるりと滑らかで、軽量化のための肉抜きのフルートが彫られていない。

 こういうノンフルート・シリンダーは、強度を最優先にしている。それはつまり、よほどの強力弾を使うということだ。


 そのリボルバーがどれほど強力か、彼女はよく知っている。

 目前の白い女が、その銃をどれほど巧みに扱うかも。

 この銃は、白い女の分身のようなものだ。


 その白銀に光るリボルバーの黒いグリップを白い手袋をはめた右手でしっかり握りしめて、白い女が言う。

 

 だけどね、最後の余興はとっておいたの。――そうよ〈オイレー〉、あなたのためにね……どう、素敵でしょう?

 

 白い女が、花のように笑いながら、リボルバーの銃口を、女の子の頭にぐっと押しつける。


 さあお嬢さん、あなたもご挨拶なさいな。あのひとが今宵の主賓メインゲストなんだから。


 黒い髪をわななかせて、女の子は泣く。かすれて、弱々しい声で泣く。

 聞いていられない。

 見ていられない。

 彼女は顔を背ける。

 そこで、少し離れたところに倒れている死体に目が行った。

 血だまりの中、仰向けに横たわる、栗色の長い髪の、真っ赤なドレスを着た美しい顔の女。

 その両目は、驚いたように見開かれている。

 その形のよい唇は、何か言いかけたようにわずかに開かれている。

 その口から言葉が出てくることはもうない。

 そして、胸の真ん中には黒い穴が空いている。

 心臓は、胸郭の中で破裂して飛び散ってしまったに違いない。


 彼女は、その死体が、女の子の母親だと知っている。


 かぼそい泣き声が、鼓膜をかきむしる。


 なんで、と彼女は言う。なんでこんなことを。


 それを聞いて、白い女は笑う。


 わかっているでしょう、あなたには。


 畜生。


 彼女にはわかっている。

 これは自分の罪であることを。


 畜生。

 

 そんな顔をしないでよ、〈オイレー〉。


 白い女が言う。


 


 白い女が言う。


 ねえ、嬉しいでしょう?


 白い女は、そう言いながら、グリップを握る右手の親指で、滑らかに湾曲したリボルバーの撃鉄を、ゆっくりと押し下げる。

 チチチ、と金属のさえずる音。

 輪胴がゆっくりと回転し、そして停止する。

 撃発準備が整う。

 引き金を引きさえすれば、リボルバーは火を吹く。


 その結果がどうなるか、彼女はよく知っている。

 

 女の子の泣き声が、ますますかぼそく、そして高くなる。


 ねえ、お嬢さん。


 白い女が、女の子に向かって言う。


 あのお姉さんに、何か言うことはないかしら。今しかないわよ。さあ言ってごらんなさいな。


 あくまで穏やかに、白い女が言う。


 女の子は、がたがた震えながら、色のあせた唇を懸命に動かして、やっとの思いで言葉を押し出す。


 たすけて。

 たすけて。

 こわいよ。

 たすけて。


 彼女はMk25を構える。

 白い影を照星フロントサイトの上に捉える。

 もう薬室には初弾が装填されている。

 撃鉄はデコッキングされている。

 Mk25はダブルアクションだ。引き金を引けば、弾が出る。

 この距離では外す方が難しい。



 もう無理だ。もう限界だ。

 もう耐えられない。

 これはわたしの罪だ。

 あの子は、関係ない。



 もう——おしまいにしよう。


 彼女は、やっとの思いで絞り出す。


 だから、その子は、どうか。


 

 白い女は笑う。悪意に満ちた、毒花の笑み。



 残念でした。



 これは過去の再演にすぎない。



 白い手袋に包まれた指が、引金をそっと引き絞る。

 撃鉄が、勢いよく跳ね上がる。

 

 でかい、でかい、でかい音。


 銃口から炎と共に鉛弾が飛び出す。

 直径約11.2ミリ、重さ20グラムを越す、ばかでかい鉛弾。


 454カスール。

 44マグナムをしのぐ威力を誇る、猛獣狩り用の、大口径マグナム拳銃弾。


 巨大な銃弾をこめかみにくらった女の子の顔が、ぎゅうと歪んで、ねじれる。


 454カスール弾の威力は凄まじい。ヒグマやライオンのような猛獣の分厚い皮膚と脂肪を貫き肉を引き裂き骨を砕いて、その奥の内臓を破壊して致命傷を与えることができる。大の男、それこそ体重100キロ超のプロレスラーだって、454カスールをまともに食らえばひとたまりもなく惨たらしく死ぬだろう。


 女の子の頭が膨れ上がる。


 そんな強力弾が、小さな子供の頭部に、至近距離から叩き込まれたらどうなるか。

 454カスール弾の持つ3000ジュール近い激烈なエネルギーを受けて、小さな頭蓋の中で急激に膨れ上がった脳髄は、そのエネルギーに耐えきれず脆い頭蓋骨の中でする。

 そのエネルギーは、文字通り人間の頭を吹き飛ばすのに十分だ。


 女の子の頭が破裂する。

 

 赤い霧。


 飛び散る肉と骨と脳髄のかけら。


 彼女は呆然とその光景を見つめる。



 これは過去の再演に過ぎない。



 だから、どうすることもできない。



 白い女が笑っている。

 その白い顔に、髪に、コートに、赤く血しぶきがスプレーされている。

 血濡れた腕の中に、ぐったりとなった女の子が抱きかかえられている。

 その頭は奇妙に歪んで、裂けて、上の右半分が欠けている。

 頭の中身はすっかり吹っ飛んでしまっている。

 血濡れた髪がどろりと垂れ下がって、しとしとと血の雫を滴らせている。

 その様子を、彼女は正視できない。

 彼女は思わず下を向く。

 そこで、黒い瞳と目が合う。


 女の子の右の眼窩から飛び出て、彼女の足元まで転げていった、つぶらな目。


 彼女の神経は限界を迎える。


 あ、あ、あ、あ、あ。


 彼女は顔を上げる。

 頭の中を埋めつくすのは、真っ黒な絶望と怒り。

 ギチギチギチと音立てて、顔が歪み、世にも恐ろしい形相を形作る。

 修羅の顔。

 視界が朱に染まる。


 白い女が笑う。


 いい顔ね。


 白い女が、女の子の死体を、ごみでも捨てるように、その場に放る。

 どちゃっ、と湿った音。


 さあ、これからが本当のパーティ。わたしとあなただけの、ね。


 白い女が、リボルバーをこちらに向ける。


 さあ、楽しみましょ。〈オイレー〉。


 彼女は絶叫する。

 彼女は、Mk25の引き金を引く。

 撃鉄が一瞬後ろに倒れ、そして跳ね上がる。


 銃声。


 白いコートに血の華が咲く。


 ほとんど同時に、白銀のリボルバーの銃口が真っ白な火を吐く。

 目を灼く閃光。

 耳を弄する轟音。


 脇腹に激痛。

 衝撃。


 あとはただ、赤。赤。赤。



 赤。



 これは過去の再演に過ぎない。



 *****



 あのときから遠く離れた時間、あの場所から遠く離れた街の片隅で、彼女は呻き、胎児のように丸まって、粗末なベッドの上で苦悶している。

 時計が無情に時を刻む。

 チクタク、チクタク、チクタク。

 チクタク。


 深夜プラス1。


 彼女の頬を、涙が一筋流れて落ちる。


 夜の底は、まだ白くならない。

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