或る夜の出来事

 茜は夢を見ていた。

 いつも通りに悪夢。

 千々に砕け、痙攣する心が見せる、万華鏡の醜悪なシミュラークル。

 暗闇の中、茜は走り続ける。

 足元は泥のように粘ついている。足を止めると、冷たくこわばった無数の手が、足首に、すねに、さらにその上へと伸びながら絡みつく。

 だから茜は息せき切らして走る。

 足は止められない。

 明かりはどこにもない。

 茜は走り続ける。

 泣きながら走り続ける。

 何度も転ぶ。

 泥にまみれ、傷だらけになって、それでも茜は必死に立ち上がって走りづづける。

 息を切らして走り続ける。

 

 助けて。助けて。

 誰か助けて。


 茜は走り続ける。

 泥に汚れた頬を涙が伝う。

 目の前に白い影が見える。

 

 おかあさん。


 茜は必死に白い影に向かって走る。

 転ぶ。

 脚に、青ざめて筋張った腕が絡みついている。

 

 離して!


 茜は必死に腕を振りほどこうとする。

 できない。

 その間にも、何本もの腕が冷たい泥の中から這い出て、茜を掴み、泥の中に引きずり込もうとする。

 

 助けて! 


 茜は叫ぶ。

 母親は立ち尽くしている。

 何をするでもなく、茜をただ見つめている。

 黒く、悲しい目で茜をただ見つめている。


 助けて!


 茜は叫ぶ。必死に手を母親の方へ伸ばす。

 母親はただ見つめるだけ。

 口の中に泥が流れ込む。

 冷たい泥が茜の喉を詰まらせる。

 

 助けて。助けて。助け……


 茜は泥の底に沈んでいく。

 冷たい泥の底へ。

 暗闇の底へ。

 時間も空間も意味をなさない、絶対的な孤独が、茜をその胎の内へ包み込む。


 ……助けて。


 その声は、もうどこにも届かない。


 胎児のように身体を丸めて、茜は暗闇の中で泣き続ける。

 そのまま、意識も身体も、暗黒の中へ溶けていく。


 *****


 茜は目を覚ました。

 物音を聞いた気がした。

 頬に触れると、いつも通り涙に濡れていた。

 喉が干からびていた。

 水が飲みたかった。

 茜はふらつくように寝床から起き上がって、キッチンにつながるドアを開けた。

 母親がいた。

 スマホを片手に握りしめていた。

 その顔は真っ青だった。

 恐ろしいものでも見たように、その目は大きく見開かれていた。

 ……母さん。どうしたの?

 茜は言った。それから、いつ帰ってきたのと続けた。

 母親はすぐに答えなかった。

 それから、ぎこちない笑みを顔に張り付けて言った。

 ……ああ、あ、少し前。うん。ごめんね。茜。でね、ええとその、今からちょっと、出かけるから。うん。

 出かけるってどこへ。

 茜は言った。

 えっと、そのね。知り合いに呼びだされてね。急の用事だって。

 茜はとっさに壁の時計を見た。

 午前2時を過ぎていた。

 こんな時間に?

 茜が言うと、綾乃は顔を歪めて笑った。

 うん、そうなの。だから今すぐ出なきゃいけなくて。ごめんね。

 ……ねえ。母さん。その知り合いっていったい――

 

 ごめんね。


 その母親の一言と、その顔の表情で、茜は、これ以上問うてはいけないことを悟った。

 母親はカバンだけ持って、足早に部屋を出ていった。

 静まり返った部屋の中、ひとり残された茜は、キッチンのシンクでコップに水を汲んで飲んだ。

 冷え切った水は、味も何もなく、茜の喉を滑り落ちていった。

 冷たさがやせっぽちの身体に広がっていく。

 茜は身震いした。

 夜の静けさがいつも以上に身に染みた。

 視界がじわりとにじんだ。

 茜はコップを流しに置き去りにして、奥の部屋に引っ込んだ。

 寝床に横たわり、布団の中に深く潜り込んで、身体を小さく丸め、両腕で身体をきつく抱きしめた。

 固く目をつむった。

 涙が流れた。

 早く眠れることを茜は祈った。

 もう一度夢など見たくなかった。


 *****


 インターホンの呼び出しチャイムの音が、茜を無意識の暗黒から引き戻した。

 頭がずんと重かった。

 吐き気がした。

 もう少し眠っていたかった。

 チャイムの音。

 茜はふらふら起き上がって、ドアを開けてキッチンに出た。

 玄関に向かい、どなたですかと問うた。

 わたしよ。

 母親の声。

 茜は鍵を開け、ドアを開いた。

 母親は相変わらず青ざめていた。

 その足元に、やけに大きい、銀色のアタッシュケースが置かれてあるのに茜は気づいた。

 何それ。

 茜は問うたが、綾乃は答えなかった。代わりに綾乃はこう言った。

 ごめん茜、これ一緒に運んでくれない? とっても重いの。

 そのセリフは異様に滑らかだった。

 出がけの不審な態度との落差が大きすぎた。

 さすがの茜もそれに気づかないわけにはいかなかった。

 よっぽどそのことを問いただしたい気分だったが、茜はそうしなかった。

 それが許されるような雰囲気ではなかった。

 茜は言われるまま、母親と一緒にアタッシュケースを部屋の中に運び込んだ。

 母親の言う通り、とても重かった。

 これほど重いものを茜はこれまで持ったことがなかった。

 二人は必死にケースを奥の部屋のクローゼットまで運び、その中に押し込んだ。

 母親がクローゼットの戸を閉めると、茜は思い切って尋ねた。

 ねえ母さん。あのケース、何なの? 何が入ってるの?

 母親は答えなかった。

 ねえ母さん、何か言ってよ。

 茜が言うと、綾乃は茜の方を見て、静かな声で言った。

 ごめんね。茜には言えないの。

 どうして。

 約束だから。

 約束……。

 そうよ、約束。

 母親の声は固かった。

 だから、茜には教えられないの。

 それから母親は、どうしたことか、茜を抱きしめた。

 どうしたの、と茜は尋ねたが、綾乃は答えなかった。

 しばらくして、母親はぽつりと言った。


 ごめんね。


 どうして謝るの、と茜は尋ねることができなかった。

 母親が泣いていることに気づいてしまったからだった。

 茜は、ただ黙って母親に抱きしめられていた。

 

 *****


 茜は眠れなかった。

 ひとりでキッチンのテーブルにつき、うつむいて考え続けていた。

 茜が考えているのは、クローゼットの中のアタッシュケースのことだった。

 あれのことが気にかかってしようがなかった。

 あのケースの異様な重さは、茜に言い知れぬ不安を――恐怖を抱かせるに十分だった。

 あれの中身は何なのか。

 なぜ母さんはあんなに動揺していたのか。

 知り合いとは誰で、その誰かとの間に何があったのか。

 それら全てが謎だった。

 茜の衰弱した心に、それはすでに大きな負荷としてのしかかってきていた。

 ケースの中身を確かめたかった。

 しかし、そんなことをすれば、さらに大きな災いが降りかかってきそうで恐ろしかった。

 怖かった。

 これ以上、つらいことも悲しいことも味わいたくはなかった。

 奥の部屋で眠っている母親のことを茜は考えた。

 この世界で、茜が本当に頼れるのは事実上母親だけだった。

 木島は優しく、茜を気にかけてくれる人ではあったが、茜自身、彼女のことでよく知らない部分が多かった。

 よく知らない人を本当に頼ることはできない。

 茜には母親しかいなかった。

 あのケースを開けてしまえば、その母親すら失うかもしれない。

 その恐怖が茜をしばっていた。 

 静寂が茜を取り囲んでいた。

 たまらなくなって、茜はテレビをつけた。

 眠る母親をおもんばかって、音量をしぼってテレビを観た。

 すでに夜を通り越して、朝が近い時間帯だった。

 早朝のニュースをやっていた。

 アナウンサーが平板な調子でしゃべっていた。国際情勢や政治絡みのドタバタなどを淡々と伝えていく。

 次のニュースです。

 アナウンサーが言った。


 本日未明、K市M区の河川敷近くの路上に放置された車の中で男性が血を流して動かなくなっているのを散歩中の付近の住民が発見、警察に通報しました。男性は病院に搬送され、そこで死亡が確認されました。警察によりますと、死亡した男性は三十代後半と見られますが、身分証などを所持しておらず、現在身元の確認を進めています。また、男性の死因は銃で撃たれたことによる失血死と見られ、警察は男性が何らかの犯罪に巻き込まれたものと見て捜査を進める方針です。


 茜はどういうわけだかそのニュースが気になった。

 自分とは何のかかわりもないことのはずだ。

 なのにどうして気になったのか、茜にはよくわからなかった。

 しばらくして、ひどく眠くなって、茜はテーブルにつっぷして眠り込んだ。


 どういうわけか、いつもよりずっと寂しい思いがした。

 


 

 


 

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