破綻

 奇妙なアタッシュケースが茜の家にやってきてから何日も、何日も経過した。

 茜の胸中の不安はひたすら大きくなる一方だった。

 どうしても中身を確かめたかった。

 せめて母親に問いただしたかった。

 それができないことは茜自身がよく承知していた。

 あの夜を境に、母親との関係に軋みが生じているのを茜は自覚していた。


 母さんはわたしに隠し事をしている。


 いくら心が萎えているといっても、それくらいのことはさすがの茜にもわかった。

 いったい、何をそこまで隠し立てする必要があるんだろう?

 茜は考えたものの、手元の判断材料があまりに乏しすぎた。

 ひとつ確かなのは、母親がアタッシュケースの中身を茜に知られることを非常に恐れているということだった。

 自分の娘に知られてはいけないもの。

 どう考えても、真っ当なものであるはずがない。

 あのケースの中には、そういうものが入っている。

 それは何か。

 それを考えるだけで、茜は気分が悪くなるのを抑えられなかった。

 恐ろしいイメージだけがむくむくと膨れ上がっていく。

 あのケースの中には、恐ろしいものが詰め込まれている。

 きっとあれは、わたしたちに災いをもたらす。

 茜には、そうとしか思えなかった。

 あんなものが自分と同じ空間にあるということが耐えられない。

 できることなら捨ててしまいたかった。

 それができないことはわかっていた。

 希望と現実の狭間で茜はすりつぶされそうになっていた。

 木島に相談したかった。

 だが、いったいこんなこと、どうやって他人に相談したらいいのか?

 茜にはわからなかった。

 八方塞がりだった。

 世界が自分を押しつぶそうとしているように思われた。

 

 結局、確かめるしかない、と茜は思った。


 *****


 綾乃は懊悩していた。

 あの夜以来、娘との関係に軋みが生じていることは彼女にはよくわかっていた。

 その理由も。

 だからといってどうすることもできない。

 あのケースの中身は茜に知られるわけにはいかなかった。

 あの夜のことを思い出す。

 あの夜、石丸の呼び出しを受け、車で飛んでいったときのことを。

 

 石丸さん。


 泣きそうになるのを、綾乃は必死にこらえる。


 石丸は死んだ。

 彼女は石丸の最期を看取ることになった。

 そしてあのケースを託されたのだ。

 10キログラムの覚醒剤を詰め込んだケースを。

 最期まで迷惑かけちまった、と、かさついた唇をふるわせて石丸は言った。

 でも、こいつは大金になるんだ。きっと助けになる。お前と、茜の助けに。

 赦してくれ。

 どうしたらいいの、と綾乃は言った。

 石丸はどうしたらよいか綾乃に伝えた。

 その内容は綾乃の頭の中に一字一句確実に刻み込まれている。

 それを確実に実行すれば、覚醒剤はしかるべき人間の手に渡り、そして報酬が綾乃のもとにもたらされるはずであった。

 その金額は、綾乃にとって、現実とは思えないほど巨額だった。

 その金さえあれば、貧しさから脱却できる。そして、茜の将来も安泰になるはずだった。

 しかし、綾乃は躊躇していた。

 一歩を踏み出すのが怖かった。

 これは確実に重大な犯罪だ。一歩間違えば、綾乃は破滅する。いや、そればかりではない。資金源シノギを奪われた暴力団は血眼になって覚醒剤シャブを追っている。彼らは自分の面子を傷つけた者を決して許さない。それは綾乃自身、身にしみてよく知っていた。

 最悪の場合、死すら生ぬるいと思えるほどの運命が綾乃を待ち構えている。

 それは確実に茜にも降りかかるだろう。

 やくざにとって、身寄りがなく孤立した少女など手頃なでしかない。

 綾乃はそれをよく知っていた。

 なら、どうしたらいいのか。

 いっそ覚醒剤を処分してしまうか。

 だめだ。そんなことをしても何ともならない。事態がさらにこじれるだけだ。

 警察に通報し、全てを白状する。

 そんなことをしても破滅することに変わりはない。茜を苦しめるだけに終わる。

 もはや自分がどうなろうと構わないが、娘だけは守らなければならないと、綾乃は覚悟を決めていた。

 そのためには、石丸が遺してくれたものを無駄にするわけにはいかないのだ。


 ……アヤちゃん、どうしたの? 調子悪そうだけど。熱でもある?


 皐月ママが尋ねてくる。

 えっ。ええとその。そういうわけじゃ。

 そうなの? でも、ひどい顔色よ。鏡見たら?

 皐月ママは心配げな口調で言った。

 こんな季節だし、それに最近アヤちゃん様子が変だから。何かあった? 娘さんのこと?

 綾乃には何も言えなかった。

 その様子を見ていた皐月ママはうなずいて言った。

 仕方ないわねえ。いいわ、今日はもうあがんなさい。

 でも……。

 いいから。調子が悪いときは家に帰って寝るのがいちばんよ。今日はそんなにお客さん来てないし。——いつも遅くに帰って、娘さんのこと、心配でしょう。たまには早く帰ってあげたら。


 ……ありがとう、ございます。


 綾乃は深々と頭を下げた。

 皐月ママの優しさが胸にしみた。


 *****


 茜は苦労してアタッシュケースをクローゼットの奥から引きずり出した。

 一仕事終えた茜はその場にへたりこんだ。全身が汗にまみれ、ぜいぜいと息をあえがせていた。

 しかしこれで終わりではない。

 茜は震えながら、アタッシュケースの留め金に手を伸ばした。

 これを外せば、もう後戻りはできない。

 それでもやるの?

 茜は自分自身に問いかけた。

 茜は静かに震えながら、しばらくケースをじっと見つめていた。

 それから、ぶるりとひとつ大きく身震いして、思い切って留め金に手をかけた。

 留め金を外した。

 一息にケースの蓋を開けた。


 ケースの中には、真っ白な粉を包み込んだ大きなビニール袋がいくつも、いくつも、ぎっちりと詰め込まれていた。


 最初、茜は、それが塩か砂糖ではないかと思った。

 そう思ってしまうほど、ビニール袋の中の粉は真っ白で、そしてきらきらと輝いていた。

 少なくとも、小麦粉でないのは明らかだった。

 そして当然——塩でも砂糖でもないことも、茜にはわかっていた。

 では、これは何なのか。

 テレビドラマや漫画を通じて得た知識が脳裏でスパークした。


 覚醒剤。


 思わず茜は笑った。

 まさか。まさか。そんなことないよ。まさか。

 茜は首を振った。

 まさかそんな。ばかばかしい。

 目の前の白い粉はそんな弱々しい呪文ごときで消えてくれなかった。

 それはクソ現実として目の前に厳然と存在した。

 現実が脳にしみこむにつれ、茜の全身がガタガタと震え出した。

 さすがの茜でも、覚醒剤は持っているだけで犯罪だということは知っていた。ほんの少しだけでも持っていれば問答無用で逮捕される。

 そんな恐ろしいものが、こんなにたくさん。

 母親が必死になって隠したがるはずだ。

 茜は震えながら後ずさった。

 口を半開きにし、うそ、うそだ、うそだよこんな、と呟きながら後退し続けた。

 背中に壁が当たった。

 茜は頭を抱えた。

 膝を立てて、身体を丸め、うずくまる。

 

 どうしようどうしようどうしたらいいのたすけてだれかだれかわたしどうしたらいいのだれかたすけてよだれか――


 茜の頭の中はぐちゃぐちゃにかき乱され、まともな思考ができなくなった。

 どうしようもなく苦しかった。

 心臓が狂ったような早鐘を打っていた。

 全身が意志と関係なくガタガタと震えていた。

 どうしようもなく身体が冷え切っていく。

 混乱した思考が「なぜ」のもとに統合されていく。


 なぜ? なんで母さんが覚醒剤なんか? こんなにたくさん? 誰が渡したの? どういうことなの? なんで?

 母さん、どういうこと?


 自分の母親、最も身近な人に、こんな見知らぬ恐ろしい側面があったとは、茜の想像を絶していた。

 自分の信じる世界の基盤が崩壊し、果てしない底なし穴へ落下する錯覚を、茜は味わった。

 どんな顔をして母親と向き合ったらいいのか、もう茜にはわからなくなっていた。

 

 鍵の開く音。


 茜は凍りついた。

 まさか。

 まだ母親の帰ってくる時間ではないはずだった。

 茜は動けなかった。

 部屋の中に母親が入ってきた。

 綾乃は、茜と、アタッシュケースを交互に見回した。

 それから茜を見つめ、言った。


 見たのね。


 母親の声は、茜がこれまで聞いたことのない響きを帯びていた。

 茜の背筋が総毛立った。

 

 見ないでと言ったのに。


 母親が近づいてくる。

 幽鬼のように。

 茜は反射的に立ち上がり、後ずさった。


 かあさん。かあさん。あれ。あれは。まさか。

 覚醒、剤。


 そうよ。


 綾乃は言った。

 低く、平板な声だった。


 かあさん。どうして。


 あなたのためよ。


 綾乃は言った。

 茜はいやいやするように首を振った。


 そんなの知らないよ。かあさん。こんなのおかしい――


 おかしくない!


 綾乃が叫んだ。これしかないの! 理解しなさい茜!

 だって――

 言いかけた茜の右の頬が、ばしんと激しい音を立てた。

 茜はその場に倒れた。

 茜は呆然と綾乃を見上げた。

 綾乃はかっと目を見開いていた。顔は紙のように白かった。

 その手は震えていた。

 綾乃の口が開いて、傷ついたレコードのように声を吐き出した。


 あ、あ、あかね、あかね。あかね。あのね。


 限界だった。

 茜は絶叫し、綾乃を突き飛ばして部屋の外に転がり出た。

 脚をもつれさせながら裸足で廊下を突っ走った。

 506号室のドアに飛びつくと、茜は気が狂ったようにドアを乱打し、叫んだ。木島さん! 木島さん! 開けて、開けて開けて、あけてえぇ!

 その肩が掴まれた。

 綾乃だった。

 綾乃は茜をむりやり振り向かせると、猛烈な往復ビンタを浴びせた。

 茜の頭はたちまち朦朧となった。足元がふらつく。

 いい加減にしなさい!

 綾乃の声が遠くから聞こえてくる。

 肩を掴んでゆさぶられる。頭ががくがくと揺れる。

 茜! どういうこと!? どうしてこの部屋に!? あんたまさか、ここの女と――

 いけないの!?

 茜は叫んだ。

 耐えられなかった。

 どうしていけないの!? 寂しいのに! 真夜中にひとりぼっちで! ただの話し相手だよ! 何にも変なことない、何がいけないの!?

 涙声で茜は叫んだ。

 平手打ち。

 唇が切れ、鼻血が噴出する。

 あんたねえ!

 綾乃の怒号が遠い。

 茜は笑った。

 破綻者の笑い。

 茜の喉に手がかかった。


 ドアの開く音。


 ――何をしてるんですか。


 低い声。

 木島の声。

 喉から手が離れ、茜はその場にへたりこんだ。


 *****


 木島が歩み出る。

 真っ黒な服を着た長身の影。

 綾乃が後ずさる。

 木島は茜をかばうように立ち、綾乃に向き合った。

 どうなさったんですか、お母さん。ただならぬご様子ですが。

 ――そこをどきなさい。

 綾乃が言う。けものじみた唸り声。

 あんたは何? わたしの娘の何なの? そこをどきなさい。

 木島は黙っている。

 綾乃が言う。どきなさい。どけ。これは家族の問題よ。

 木島が言った。それはできません。

 なぜ。

 できないものはできないんです。

 木島の声には有無をいわせぬ響きがあった。

 ふざけ――

 ふざけていません、と木島は言った。とにかく、お母さん、こんなことはやめてください。茜ちゃんが何をしたと――

 

 うるさい!


 綾乃は木島に飛びかかった。右手を振り上げ、木島の顔を殴りつける。

 木島は軽く動いただけでそれを避けた。綾乃は歯を剥き出し、もう一撃を繰り出そうとした。

 木島はその手をつかんでねじりあげた。

 苦痛の叫びをあげて綾乃はもがき、逃れようとした。

 木島は構わず腕をひねり続けた。綾乃はその場にへたりこんだ。それでも片方の手を伸ばして木島の顔をかきむしろうとする。

 木島は綾乃の頬を平手打ちした。

 激しい音がした。

 綾乃の首がねじれた。

 綾乃の目の焦点があわなくなった。

 ぐらっと綾乃の身体が傾いだ。

 木島は素早く手を伸ばし、綾乃の左肩をつかんだ。

 大丈夫ですか。

 木島は言った。その声は硬く、どこかこわばっていた。

 綾乃は正気を取り戻したようだったが、呆然としていた。ものも言えない様子だった。それから綾乃は顔をしかめ、木島に叩かれた頬に手をやった。

 痛っ。

 綾乃は身をすくめた。

 木島に叩かれた頬は赤く腫れていた。

 木島が言った。お母さん。その。わたしは。

 綾乃の手首をつかむ木島の手は、いつのまにかゆるんでいた。

 綾乃は木島から手を振りほどいた。

 それから、思い切り木島の頬を張り飛ばした。

 綾乃は木島を突き飛ばし、立ち上がると、泣きながら自分の部屋に走っていった。

 ドアが乱暴に閉じられる音が響いた。

 木島はその様子をただ眺めていた。

 それから、茜の方を見た。

 血まみれで、頬が腫れあがった茜は、涙をいっぱいに溜めた目で木島を見つめていた。

 唇がぶるぶるわなないていた。

 何も言わなくていい。

 木島は言った。

 おいで。

 木島は手を伸ばした。

 茜はその手を取った。

 固くて、ごつごつして、暖かい手だった。

 

 

 

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