相談

 茜は、木島の部屋の洗面台で鼻血で汚れた顔をきれいに洗った。

 それから、木島が切れた唇を消毒してくれた。消毒液オキシフルがしみて痛かったが、茜はきゅっと唇を噛みしめてこらえた。

 木島は茜の肩を抱きながら、じっと顔を見つめていくつか質問した。頭痛があるかどうか、吐き気がするかどうか、手足のしびれなどはないか、などなど。

 ひとしきり質問して、木島はゆっくりとうなずき、たぶん大丈夫だね、と言った。だけど、ちょっとは眠った方がいい。こう言っちゃなんだけど、ひどい顔だよ。

 眠る……。

 うん、眠った方がいい。わたしのベッドを貸してあげるよ。

 えっ。

 よほど茜の驚きが大きいのが気になったのか、木島はちょっと難しい顔つきになった。ごめん、やっぱり嫌だったかな。

 えっ。いえ。そんなこと。そんなこと、ない、です。

 そう。じゃあ、おいで。

 木島は奥の部屋に茜をいざなった。

 その部屋に入るのは、茜にとってはじめてのことだった。

 ひどく殺風景な部屋だった。簡素な作りのベッドが窓際に置いてあるほかは、家具らしい家具は何もなかった。茜の部屋と同じ間取りのはずなのに、ひどく広く、そして寂しく感じられた。

 どうぞ。

 木島に勧められるまま、茜はベッドに横になった。マットレスは固かったが、寝心地はそれほど悪くない。

 横になるとすぐ、茜は眠くなってきた。

 そんなことは、ここ最近ずっとなかったことだった。

 木島が茜にそっと毛布をかけた。

 心地よい暖かさが茜を包み込む。

 心なしか、毛布は優しくていい匂いがした。


 おやすみ。


 木島がそう言ったのを知覚するかしないかといううちに、茜は眠りに落ちていった。

 絶えて久しかった、夢のない、静かで、優しい眠りだった。


 茜は目を覚ました。

 いい匂いがした。

 窓の外を見た。

 外はまだ暗かったが、それでも夜の底がゆっくりと紫色を帯びていた。

 茜はもぞもそと起き出して、キッチンに向かった。

 おはよう。

 微笑みながら木島は言った。木島は料理の真っ最中だった。

 もうしばらくしたらできるからね。そしたら、二人で食べよう。

 茜はうなずいた。とても嬉しかった。

 献立はシンプルだった。トーストにバターとジャム、スクランブル・エッグ、それにインスタントのコンソメスープ。

 小食の茜にはそれでもかなりボリューミーだった。しかし、茜は何とかそれらを完食した。

 せっかく木島が作ってくれたものを残すことはできなかった。

 そのあと、二人は暖かい飲み物を楽しんだ。

 お腹はいっぱいのはずだったが、木島の作ってくれたココアはするりと茜の胃袋の中に流れ込んでいった。

 それに、木島の飲むコーヒーの香りは、茜の心をずいぶんと癒してくれた。

 食事を終え、流しで食器を洗った木島は、テーブルに戻ると茜の顔を見て言った。

 ねえ茜ちゃん。昨日のことだけど……何があったの?

 茜はごくりと唾を飲んだ。

 自分でも目が泳ぐのがわかった。

 木島はちょっと目を伏せた。

 ごめんね、と木島は言った。無理に話さなくてもいいよ。ただ、ちょっと気になっただけなんだ。

 茜は黙っていた。

 木島は言った。そのね、ちょっと、心配になってね。だからさ。


 どうしよう。


 茜は思った。どうしよう。

 どうしたらいいんだろう?

 話しちゃっていいんだろうか?

 話しちゃったら……後戻りできない。

 木島さんは警察に通報するかもしれない。

 そうなったら、大変なことになる。

 

 でも、でも……もう、これ以上黙っていることはできない。

 もう限界だった。

 茜は、木島に助けてほしかった。

 他人だの何だのと言っていられなかった。 


 あっあっあの、あの、木島さん。


 木島がぴくりと眉を動かし、茜の方を見た。

 どうしたの。

 茜は一瞬だけ逡巡した。

 それから、思い切って口を開いた。


 あの、き、木島さん。その、相談が、あるんです。

 

 茜は、すべてを話した。

 洗いざらいすべてを。


 すべて聞き終えた木島は、静かにうなずいた。

 茜ちゃん。

 はい。

 覚醒剤のこと、他に知ってる人はいるかな。

 えっ。他に、って。

 茜ちゃん、茜ちゃんのお母さん、わたしの三人以外で、ということ。

 茜は少し考えた。

 お母さんに覚醒剤を渡した人……以外には、たぶんいません。わたしは誰にも話してないです。

 わかった。

 木島はうなずいた。

 それから、茜をじっと見つめ、言った。

 茜ちゃんのお母さんと話がしたい。いいかな。

 茜の心臓が一瞬どきんと鳴った。

 それから、茜は小さくこくんとうなずいた。

 木島はそれを見て、ゆっくりうなずき返した。

 じゃあ、今日の夜に。お母さんが帰るの、深夜以降だよね。そのあたりを見計らって行くとしよう。

 そういうことになった。


 *****


 茜を伴ってやってきた木島を見て、当然のごとく綾乃は怒った。冗談じゃない帰って下さい、そもそもあなたは私の娘の何なんですか、と綾乃は怒鳴り、茜の腕をつかんで引っ張ろうとした。

 お母さん、落ち着いてください。茜ちゃんは何も悪いことをしていないでしょう。

 あんたには関係ないわ。茜、こっちに来なさい!

 お母さん、痛い、痛い!

 またも愁嘆場になりかけたところで、木島が言った。

 その声を聞いた綾乃は、びくっと身体をこわばらせ、木島を怖々と見つめた。

 その頬は、化粧でごまかされてはいたが、まだいくらか腫れていた。

 な、何ですか。

 わななく声で尋ねる綾乃に、木島は言った。

 大事なお話があります。……娘さんがいろいろと話してくれました。

 それを聞いた綾乃は、がっくりと肩を落とし、うなだれた。

 ……どうぞ、中へ。

 木島は茜とともに室内に入った。

 三人はテーブルについた。

 死人のような顔つきになった綾乃が、弱々しい声で言った。

 ……その、娘はいったいどこまで……話したんですか。

 木島はすべて話した。茜に聞かされたことをすべて。

 綾乃は悲しげに笑った。

 ……ええ、そうです。すべて本当のことです。

 それから綾乃は、投げやりな態度で、覚醒剤は奥の部屋のクローゼットにあります、と言った。

 確認してもよろしいですか。

 どうぞ。

 木島は奥の部屋に行き、しばらくして戻ってきた。

 ずいぶんな量ですね。

 木島の言葉を聞いた綾乃は、くすくすと神経質に笑った。

 ええ、10キロはあるそうです。びっくりでしょう。

 綾乃はますますヒステリックに笑った。

 うふふ。こんなの、警察にばれたら大変ね。ふふふ。何もかもおしまい。そうね、何もかも。ばかみたい。ここまで苦労したこと、全部パーになっちゃう。ほんとばかみたい。ふふふ。うふふ。ははは。

 綾乃さん。

 気安く呼ばないでくれる。

 綾乃はぎろりと木島をにらんだ。

 だいたい、あんたは何。何なの。あんたはわたしの娘の何なの。どういうつもりよ。ふざけないでよ、わたしは苦労して、たったひとりで娘を産んで、育てて、守ってきて、——こんなに苦労したのに、いいでしょう、お金が必要なの、まとまったお金が。わたしはどうでもいい、娘のために必要なの。あんたに何がわかるの。何か言いなさいよ畜生。

 木島は黙っていた。

 何か言ったらどう!

 綾乃は叫び、木島の頬を平手打ちした。

 痛烈な音。

 木島は少しだけ顔をしかめた。それっきりだった。

 綾乃はものすごい目つきで木島をにらんだ。

 木島はその視線を無言で受け止めた。

 しばらく間があった。

 茜はもう、気を失いそうであった。

 先に目をそらしたのは綾乃の方だった。

 綾乃は長い、長いため息をついた。

 ……どうぞ。好きにしたら。わたしはもうおしまい。それで結構よ。だけど、娘は、娘だけは――

 綾乃さん。聞いてください。

 木島の声に、綾乃は一瞬息が詰まったようになって、それから木島を見つめた。

 綾乃さん。木島は言った。わたしは警察に通報するつもりはありません。わたしは秘密を守ります。

 綾乃はまじまじと木島を見つめた。

 茜も同様に木島を見つめた。

 何を言い出すのかと茜は思った。

 いったいどういうつもりなんだろう?

 木島はじっと綾乃を見つめ、そして言った。

 綾乃さん。いくつか質問があります。答えていただけますか。

 えっ。はい。

 綾乃は戸惑ったような顔つきになり、素直にうなずいた。

 綾乃さん。あなたはこの覚醒剤を、知り合いから預かったそうですね。そのとき、その知り合いは、あなたに、覚醒剤を誰か別の人物に受け渡すように指示しませんでしたか?

 綾乃は驚いたように目を見開き、木島をまじまじと見つめた。それから、おずおずとうなずいた。

 やはりそうでしたか、と木島は言った。そして綾乃さん、あなたはその人物の連絡先を与えられていますね? その人物に連絡を取れば、先方が覚醒剤の受け渡し場所と日時を指定する。あとは指示に従ってパッケージを受け渡すだけ。

 ……どうしてそんなことがわかるんですか。

 綾乃の問いに、木島は答えた。


 わたしはこの種のことに経験があります。

 

 この種のこと。

 綾乃が言うと、木島はうなずいた。

 そうです。。詳細は伏せます。あなたがたにはですので。

 木島はじっと綾乃を見つめた。

 綾乃さん。覚醒剤10キロなんて、素人が普通に入手できるものじゃありません。こういうのは本来ヤクザの領分です。覚醒剤ビジネスは伝統的なヤクザの資金源シノギですから。そして、覚醒剤を捌くには、相応の伝手が必要です。とどのつまり、本来あなたのようなずぶの素人が関与するはずがないんです。

 あの、あの、その。

 茜は思わず声を上げた。

 耐えられなかったからだ。

 事態は急激に展開し、茜の想像を超えた次元へと移行しつつあった。

 その急加速に茜は振り落とされまいとしがみつくのが精一杯だった。

 木島は茜の方を見た。

 どうしたの。

 その、その、木島さん。どういう、ことなんですか。だったらお母さんは、なんでこんなことに。

 わからない。ただ、まともなヤクザならこんなことはしない。正規の手順を踏めないからこういうイレギュラーな手段を使うことになるんだ。

 そこで木島は険しい顔つきになって言った。

 たぶん、この覚醒剤は、どこかから奪われたものだと思う。

 えっ。

 そうとしか考えられない。誰かが、どこかのヤクザから、覚醒剤を奪ったんだ。そして、覚醒剤を捌くためのしかるべき伝手を持った人間に、覚醒剤を売り飛ばそうとしている。で、茜ちゃんのお母さんを、運び屋として使うことにしたんだ。堅気カタギの人間なら、警察に疑われる気遣いは少ないからということだろうね。だけど、結局はとても危険な行為だよ。

 木島の声は硬く、重かった。

 正規ルートを外れて、イレギュラーな手段に頼るというのは、それだけでハイリスクなんだ。犯罪の世界では特にそうだよ。しかもそこに、ずぶの素人を噛ませるなんて、ほんとにむちゃくちゃだ。下手すれば、大勢死人が出るかもしれないのに。

 死人。

 茜は息をのんだ。

 そうだよ、と木島は言った。嘘じゃない。わたしはそういうことをいろいろ見聞きしているからね。

 苦々しい口調だった。

 それから木島は綾乃に向き直った。

 とにかく、綾乃さん。これは、本来あなた一人でどうにかできる問題ではありません。警察に通報したところであなたがたの安全が確保される保証もありません。必ず報復されます。

 報復。

 はい。誰が絵図を引いたかはわかりませんが――これは大掛かりの仕事です。かなりコストがかかっているはずだ。きっと大物が関与している。そして、大仕事をフイにされたら、そういう大物は絶対に黙ってはいません。どんな手段を用いても報復するでしょう。そうなったら、警察なんかあてになりません。あなたも茜ちゃんも、きっと恐ろしい目に遭わされます。死んだ方がましだと思えるほどの、ね。

 茜も綾乃も、もはや石のように黙り込むしかなかった。

 木島の言うことは、あまりに現実離れして聞こえたが、しかしあまりにも生々しく、現実味がありすぎた。

 あまりに恐ろしい現実。

 この世界の表層の薄膜を突き破って落ちた者が見る、この世の暗黒。

 木島が言っているのは、そういう世界の話だった。

 ……どうしたら、いい、んでしょうか。

 綾乃がやっとの思いといった感じで言った。

 その顔は不気味なほど青ざめていた。

 木島は言った。綾乃さん。こうなった以上、教えられたとおり、先方に連絡を取り、覚醒剤を受け渡すしかありません。それ以外にあなたがたが無事に生き延びられる方法はない。

 はい。

 それから、と木島は言った。問題が解決するまで、わたしがあなたがたをサポートします。絶対にうまくいくとは言いませんが、できる限りのことをします。あなたがたを守るためなら、どんなことでも。


 茜は思わず、木島をまじまじと見つめていた。

 木島の顔は、これまで見たこともないほどかっこよく見えた。

 恐るべき状況であるにもかかわらず――いやだからこそか――茜の胸は、否応なくときめいていた。

 

 *****


 どこかの街の片隅で、一台のスマートフォンのランプが瞬き、苛立たしげに身震いした。

 誰かがそのスマホを手に取り、表示された通話ボタンをスワイプした。

 もしもし。

 スマホの主は電話口の向こうから聞こえる声に耳を澄ませた。

 お前は誰だ。……そうか、代理人か。わかった。……ああ、そうだ。……焦らなくてもいい。聞いてるよ。……そうだ。ああ、ブツは手元に用意してあるんだな。そうか。おいお前、自前の車はあるか。……よし。では、受け渡し場所と日時を伝える…………

 必要事項をすべて話し終えると、スマホの主は電話を一方的に切り、長いため息をついた。

 それからそいつは、薄ら笑いを浮かべた。

 あらゆるものを嘲るような冷たい笑いだった。

 それからそいつは、また別のスマートフォンを取り出し、また別の番号に電話をかけた。

 しばらくしてそいつは言った。


 もしもし? そちらは三好さんの事務所でよろしいですか? 実はね、耳寄りな話があるんですよ。

 

 

 

 

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