白い死神

 二月二十七日。

 天気予報通り、その夜は冷たい風がひょうひょうと吹きすさんでいた。空には分厚い雲がかかり月も星も見えなかった。

 K市の外れ、草むした廃工場。かつては工作機械が配置されていたらしい、がらんとした空間の片隅、古ぼけたテーブルのそばに置かれたボロボロのソファに石丸は座っていた。分厚いコートを着込み、襟を立て、背中を丸めていた。すぐ近くに置かれたコロナの石油ストーブはあかあかと輝いて盛んに熱を放出していたが、それでも石丸の口から洩れる息は白かった。

 足音が聞こえた。

 石丸は顔を上げ足音の方を見た。

 様子はどうだった、野田。

 石丸が問うと小柄な男――野田は答えた。変化なし。

 まだ気づかれてねえようだな。

 いつまでも、ってわけにはいかないだろうがね。

 野田は肩をすくめた。それから言った。なあ、ところで聞きたいことがあるんだがね。

 何だい。

 ブツのことさ。信用できる奴に預けるって話だが、こっちの手元に置いときゃいいんじゃないのかい。その方が何かと面倒が少ないだろ。

 野田はじっと石丸を見ながら言った。

 石丸は答えた。万が一のことを考えたのさ。もし三好組の連中が俺たちをとっ捕まえたとしても、ブツが一緒じゃなけりゃすぐに始末されはしないだろ。口を割らせる必要があるからな。

 そりゃそれでぞっとしねえな。締め上げられるってことだぜ徹底的に。

 死ぬよりマシさ。生きてりゃ何かいい手を思いつくだろ。

 石丸はかすれた笑い声を立てた。野田もつられて笑った。

 それから野田は言った。まあいい。だけどそいつは信用できるんだろうな。

 もちろんだ。それに三好組の奴らに嗅ぎつけられる気遣いもねえ。

 どうして。

 そいつと俺につながりがあるってことを知ってる奴はもういねえんだ。知ってた奴ら全員、今は墓の下さ。

 それを聞いた野田は笑った。そりゃあいい。確かに安全だな。それにしても、こうもクソ寒いんじゃやってられねえ。コーヒーでも飲もうぜ。

 そうだな。

 石丸はうなずき、テーブルの下からコールマンのストーブを引っ張り出してテーブルの上に置いた。


*****


 同時刻。

 小太りの男は廃工場に向けトヨタ・カムリを走らせていた。

 後部座席には業務スーパーで購入した飲食物を入れた袋が置いてあった。

 小太りの男は慎重に車を走らせた。スピードを出し過ぎず、周囲に常に目を配る。また、バックミラーを頻繁にチェックした。廃工場にまっすぐ戻る道ではなく、あえて遠回りのルートを選んで車を走らせる。

 つけっぱなしのカーラジオは深夜のニュースをやっていた。ろくでもない事件や事故の報道が次々に流れてきたが、〈バタフライ〉襲撃事件の話は出てこない。小太りの男は他の局も聞いてみたが、やはり〈バタフライ〉襲撃のことはニュースになっていなかった。

 小太りの男はそっとため息をついた。

 しばらくしてニュースは終わり、曲が流れ始めた。誰がリクエストしたのか、トム・ウェイツの『バーマ・シェイヴ』だった。小太りの男は物憂げで陰鬱なメロディにあわせて口笛を吹いた。あまり上手ではなかった。

 廃工場に近づくにつれて、他の車はほとんど見かけなくなった。街路灯も心なしか弱々しく、あたりはしんと静まり返って夜の闇が一際濃いように見えた。

 へたくそな『バーマ・シェイヴ』の口笛を吹きながら小太りの男は車を走らせ続けた。


 ふと、ヘッドライトの投げかける光の輪の中に、白い影がぼうっと浮かび上がった。


 小太りの男は慌ててブレーキを踏んだ。

 人影はなかった。

 小太りの男はいったん車を停めた。それから前方を見て、周囲を見回した。先ほどの白い影はどこにも見えなかった。

 何だよいったい。

 小太りの男はばそっと吐き捨てた。それから、ドリンクホルダーに置いた飲みさしのコカ・コーラのボトルを取ろうとした。

 ドアをノックする音がした。

 視線を上げると、真っ白な顔の女が車の中を覗き込んでいた。

 女は笑っていた。

 口角をぎゅうと吊り上げた、歪に朗らかな笑いだった。

 見開かれたが異様な輝きを帯びて、小太りの男をぴたりと見据えていた。

 小太りの男は呆然と硬直した。

 紅い邪眼に完全に魅入られていた。

 鈍い銃声。

 直径11.43ミリの鉛弾がサイドガラスを突き破り、小太りの男の眉間にめり込んだ。


*****


 石丸と野田は並んでソファに腰掛け、砂糖とクリームをしこたまぶち込んだインスタントコーヒーを飲みチョコチップクッキーとチーズを食べた。身体が温まり頭が冴えた。

 そこで野田が言った。にしても、宮島のやつ遅いな。どこで油売ってんだ。

 ちょっと遠くまで買い物しに行くって言ってたからな。

 それにしたってちょっと遅すぎだろ。

 尾行対策で遠回りしてるんだろうよ。あいつ、用心深いって評判だからな。

 知ってるよ。けどそれにしたって遅すぎないか。

 じゃあ電話かけろよ。

 あいつ運転中は電話に出ねえんだよ。

 それじゃ待つしかねえだろ。

 石丸がそう言うと野田は黙った。石丸は無言でストーブを片づけ、紙コップやクッキーの包み紙などのゴミを大きなビニール袋の中に放り込んだ。

 しばらくして遠くからエンジン音が聞こえてきた。

 噂をすればだ。

 石丸はそう言って笑った。

 エンジン音は徐々に近づき、やがて工場の敷地の中に入ってきた。タイヤが砂利を噛みしめる音が聞こえてきた。

 しばらくしてエンジン音は止まった。

 ドアの開く音。

 野田が眉間にしわを寄せた。変だぞ。

 何が。

 石丸は尋ねた。野田は答えなかった。無言でテーブルの下からレミントン11-87を引っ張り出す。石丸も慌ててコルト・ディテクティヴを抜いた。

 二人はソファから立ち上がった。石丸がソファの裏に隠した二つのアタッシュケースを持ってくるあいだに、野田はテーブルを起こして即席の盾とした。

 二人はテーブルの裏に隠れた。

 何が変なんだ。

 石丸が圧し殺した声でたずねると野田は答えた。

 ドアの開け方が違う。

 なんだって。

 しっ。用心しろ。もしかすると……。


 砂利を踏みしめる足音が近づいてくる。


 石丸はごくりと息をのんだ。

 足音が違う。宮島のものではない。

 宮島の死を石丸は直感した。

 状況は急激に悪化していた。


 どうする。


 野田が聞いた。静かな声だった。

 どうもこうもねえ。切り抜けるだけだ。

 石丸は言った。落ち着いて話そうとしたが、喉が妙にひきつった。

 野田は笑った。

 オーケイ。

 

 足音が近づいてくる。

 

 足音が変わる。

 固い音。

 コンクリートと靴底がぶつかりあう音。


 今だ。


 野田がテーブルの影から身を乗り出す。

 

 轟音。轟音。轟音。


 自動散弾銃の激烈な連射。

 ダブルオーバックの颶風。


 赤いプラスチックの空薬莢が床に転げてカラカラと音を立てる。

 

 行け!


 野田が叫ぶ。

 石丸は覚醒剤入りのケースを片手に走り出す。

 重い。バランスがとれない。それでも構わず走る。走る。走る。

 轟音。

 石丸は走る。息を切らして走る。

 轟音。

 絶叫。

 野田の声だ。

 石丸は振り向きそうになる。

 

 行け!


 野田が叫ぶ。

 石丸は一瞬躊躇して、それから振り払うようにして走る。身体をひねってコルト・ディテクティブを構える。


 工場の入り口あたり、夜の闇が四角く切り取られた中に、亡霊のごとく浮かぶ白い影が見えた。


 石丸は撃った。

 はじけるような銃声。

 きつい反動。銃がはねあがる。

 石丸はやみくもに6発撃った。

 引き金をさらに引いた。

 撃鉄は固い音を立てたが銃はもう火を吹かなかった。

 石丸は銃を捨てた。ひたすら走る。振り返らない。

 

 右のふくらはぎに鋭い痛みが走った。


 石丸は転倒した。

 悲鳴がもれた。凄まじい痛みだった。

 ふくらはぎを見た。ズボンに穴が空いて、そこから血が流れ出ていた。


 撃たれたのだ。


 石丸は呻いた。

 畜生。

 石丸は痛みをこらえて立ち上がり、足を引きずって歩きだした。

 ケースがずんと重くなった。

 構わず歩き続けた。

 銃声が続けざまに鳴った。

 石丸は必死に歩いた。

 銃声が途絶えた。

 石丸は振り返らずに歩き続けた。

 

 腰から腹の中に何か深々と食い込んだ。


 石丸はその場にへたりこんだ。

 すぐに立ち上がれない。


 ごつ、ごつ、ごつ、と足音が近づいてくる。

 あくまでゆっくりと。


 死神の足音。


 畜生。

 石丸は呻いた。

 何か身体の中の大事なものが手酷く傷つけられたのがわかった。

 今すぐにでも病院に駆け込まねばいずれ死ぬだろう。

 病院の世話になれないことは石丸にはよくわかっていた。

 

 俺は死ぬ。


 石丸は震えた。

 これまでにない寒さを感じた。

 畜生。

 まだ石丸は死ねなかった。

 やるべきことがあった。

 石丸は必死に立ち上がった。

 足をずるずると引きずりながら歩きだした。

 アタッシュケースは今や鉛の塊のようだった。

 それでも手放さずに歩き続けた。

 足音が近づいてくる。

 ゆっくりと。

 石丸は直感した。なぶっていやがる。

 畜生。

 石丸はあえぎながら歩き続けた。

 腹の中の痛みがだんだんひどくなる。

 足音が近づいてくる。

 逃げ切れない。

 そのときだった。


 くそったれ、このアマ、死にさらせ!


 野田の絶叫。

 銃声。

 もみ合う音。

 咆哮。


 笑い声。

 女の笑い声。

 朗らかな。


 石丸の背筋が総毛立った。

 石丸は必死に歩き、歩き、歩いた。

 工場の裏に出た。

 そこは草がぼうぼう生えのびた空き地だった。石丸はよろめきながら歩いた。工場の陰に隠れた、ブルーシートのかかった大きな物体に近づく。

 苦労してブルーシートをはがした。

 中から車が姿をあらわした。

 型落ちの緑のマツダ・ロードスター。

 石丸はトランクを開け、その中にアタッシュケースを放り込んだ。

 それから車に乗り込んだ。

 腹の中の痛みはますますひどくなっていた。

 構わずエンジンをかけた。

 石丸は必死の形相で車を発進させた。

 ハンドルを切る。


 ヘッドライトの描く白い輪の中に、真っ白な女が浮かび上がった。

 真っ赤な目を光らせ、赤い唇の端を吊り上げて笑っていた。

 こよなく美しく、邪悪な笑みだった。


 石丸は悲鳴を上げた。

 アクセルを踏み込んだ。

 女めがけて突っ込んだ。

 女が腕をはね上げた。

 フロントガラスにポツポツポツと穴が空いた。

 石丸の左の耳が裂け、右の頬が切れて血が流れた。

 それでも石丸はアクセルをゆるめなかった。

 ひらりと白いコートがひるがえった。

 女の姿が消える。


 化物め。


 石丸は呻いた。

 ひたすらアクセルを踏み込んだ。

 警察がこないうちに、できる限り遠くへ、遠くへ行かなければならなかった。


*****


 白い女は、闇の中へと消え行くロードスターのテールランプをじっと見つめていたが、ややあってくるりときびすを返して工場へと戻った。

 女は血まみれの小男に歩みよった。小男は目を見開いていたが、その光のない目はこの世ではないどこかを見つめていた。こわばった手には、ベレッタM84の380口径が固く握りしめられていた。スライドはホールドオープンしていた。半開きになった口はあふれ出たどす黒い血で汚れ、血にまみれた灰色の舌がはみ出ていた。喉は深々と切り裂かれ、もうひとつの口となって不気味な薄ら笑いを浮かべていた。あふれた血が服をどっぷりと赤く黒く染めていた。

 女は右手にぶら下げた消音器サプレッサ付45口径のSIG P220のデコッキングレバーを操作して撃鉄を安全位置に戻し、ショルダーホルスターにしまった。それから小男の胸に突き立ったスパイダルコ・カラホークのカランビットナイフを左手で引き抜いた。血脂でくもった黒い刃をポケットから取り出した布でぬぐい、刃のリングに指をかけて折り畳むと、コートのポケットにおさめる。

 それから女は、コートのポケットから白いiPhoneを取り出して電話をかけた。

 相手はすぐに出た。

 こちら夜鳴鶯ナハトゥガル

 女は言った。静かな声だった。

 はい。残念ながら一人取り逃がしました。その男はを持って逃走中。……逃走車のナンバーは控えてあります。はい。ナンバーは******。はい。……ええ、掃除屋クリーナーをよこしてください。よろしく。

 電話は切れた。

 夜鳴鶯ナハトゥガルは赤い目を光らせ、じっとスマホを見つめていた。それからスマホを地べたに叩きつけ、白いブーツのかかとを何度も打ち下ろし踏みにじった。

 ぐしゃぐしゃにひしゃげ、基盤が粉砕されたスマホを夜鳴鶯ナハトゥガルは冷然と見下ろした。

 彼女は外に出た。まだ夜は静かだった。

 不意にあたりが明るくなった。

 夜鳴鶯ナハトゥガルは空を見上げた。

 雲間から月が青ざめた顔をのぞかせていた。

 冴えざえとした月光を浴びながら、夜鳴鶯ナハトゥガルは薄く笑った。

 残忍な笑みだった。


 少しは狩りが楽しめそうね。


 その呟きは吹きわたる冷たい風の音と、草木のざわめきにかき消された。

 月が再び姿を隠したとき、白い女の姿はどこにも見えなかった。

 

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