綾乃の過去
綾乃はポツリと言った。これまでどうしてたの。
石丸はしばらく間をおいてから言った。
あれからいろいろあってな。一度はフィリピンまで逃げたよ。それからまあ、あっちこっち転々としてな……まあぼちぼちやってるよ。うん。
どうしてこの店に来たの。わたしのこと、誰に聞いたの。
……知り合いから聞いた。
知り合いって誰。
それは言えねえ。
どうして。
どうしてもだよ。
冗談じゃない。そんな気味の悪い話……。
……綾乃のこと、ずっと探してたんだよ。
石丸はポツリと言った。
どこに行っちまったんだか分からなくって、それでずっと探してたんだ。それでやっと見つけたんだ。だから、その……。
綾乃は、小さいが厳しい声で言った。
今さら何よ。
石丸はうつむいて黙ってしまった。
綾乃は言った。
今さら、今さら何よ。こんなに時間が経ってからやってきて。
石丸はうなだれたまま、消え入るような声で言った。
ごめんよ。
そんな石丸を刺すような目つきで睨みつけてから、綾乃はジャック・ダニエルズをグラスに注ぎ生のままで飲んだ。きついアルコールが喉を焼いた。
綾乃は空のグラスをテーブルに荒っぽく置いた。固い音がした。
何で今さら。
綾乃の声は震えていた。目尻に涙がにじんでいた。
石丸がポツンと言った。なあ綾乃、聞きたいことがあるんだ。
綾乃は硬直した。
それから、恐る恐る尋ねた。何のこと?
……茜のことだよ。俺たちの、子供のこと。
石丸はゆっくりと言った。
もう、十四年にもなるんだ。けど、俺はあの子のこと、全然何も知らない。――今さらどの面下げてって話だけど、あの子のこと、いろいろ教えてくれねえか、綾乃。
*****
石丸は、ソープランドを経営していた穂積会系三次団体の北陵組の下っ端組員だった。綾乃より一歳だけ年上だった。
石丸はソープ嬢の送迎係兼見張り役だった。綾乃をはじめ、未成年のソープ嬢の多くは、北陵組のフロント企業が所有する市内のアパートに押し込められていた。そして店までは送迎役の運転するミニバンに乗せられて移動するのだった。無論、店では成人と偽って働かされるのだ。
未成年ソープ嬢の多くは綾乃と似たような境遇の者が多かった。中には親に売り飛ばされるようにしてやってきた子もいた。彼女らは皆どこにも行き場がなかった。しかしそれでも脱走を図る子は後を絶たなかった。
そういう子は大抵すぐに捕まり、見せしめとして残酷な仕打ちを受けた。中には口封じも兼ねてどこか遠くに売り飛ばされた子もいたという話もあった。
そういう話を聞くたび、綾乃の中でヤクザへの恐怖と憎悪は強まった。
それでも綾乃は脱走は考えなかった。
父親に迷惑がかかると思ったからだ。
綾乃はひたすら心を無にして、ソープ嬢として働き続けた。
そんなある日、綾乃が当たった客は、とりわけろくでもない奴だった。
そいつはグロテスクに太った卑しい目付きの男だった。どこかの会社の社長だか代議士だかの息子だと自称していた。親の持つカネと権力をバックに、あちこちでやりたい放題やっているとの噂だった。
そいつは綾乃に、特別サービスを要求した。そして様々な形状のグロテスクな器具を持ち出してきた。
まだ経験の少ない綾乃は泣き叫んで抵抗した。
すると男は綾乃を何度も平手打ちし腹を殴って屈服させた。
男は真性のサディストだった。
綾乃はねじ伏せられ悪夢のような奉仕を強要された。
その身体に屈辱と苦痛を刻み込まれた。
涙をこぼしながら綾乃はか細い声で言った。
助けて。助けて。
誰か助けて。
そこに飛んできたのが石丸だった。
石丸はその醜く太ったサド野郎を綾乃から引き剥がすと、鉄拳を振るってぶちのめした。そして血まみれになって呻くその男を部屋の外に引きずり出し店の外に放り出した。
しばらくして戻ってきた石丸は、震えている綾乃を手当てしバスタオルをかぶせた。
それから、他の連中がやってくるまで綾乃の側に黙って座っていた。
このことは大きな騒ぎになりかけたが、結局うやむやになった。サド野郎の側が問題が大きくなることを恐れたのだ。
石丸はずいぶん兄貴分たちから絞められたようだったが、それ以上の制裁はなかった。サド野郎はやりすぎたのだ。大した実力もないくせにヤクザ相手に大きな顔をし、あまつさえ商品を傷物にするようなことを勝手にやった。そういう身の程をわきまえぬ振る舞いをヤクザは許さないのだった。
この一件以来、綾乃は何となく石丸を意識するようになった。ヤクザは嫌いだったが、それでも心の動きはどうしようもなかった。そして石丸の方も、どうやら綾乃のことを意識しているらしかった。
二人はときどき、示しあわせて抜け出して、こっそり外で遊ぶようになった。
車の運転手である石丸には、それはたやすいことだった。
石丸とふたりきりになって、綾乃は、ようやく年頃の女の子らしく、のびのびと遊ぶことができた。
ふたりはお互いの身の上話をした。石丸は家庭環境が最悪で、家にも学校にも居場所がなかった。それで、中学の頃から悪い仲間とつるみ、喧嘩に明け暮れる日々を送っていた。そして、お定まりのコースで、地元の不良グループの一員となり、エクスタシーの売人などをやらされたあと、すでに組員となっていた不良グループの先輩に声をかけられ、北陵組の組員になったのだった。
綾乃の話を聞いた石丸は、何ともいえず複雑な顔になり、済まなかったなとだけ言った。
綾乃はどう言っていいのかわからなかった。
ただ、そっと手をつないだ。
そういう状態が一年ほど続いて、そして二人はある日一線を越えたのだった。
八月の終わり、うだるように暑い日だったことを、綾乃は覚えている。
いつものように二人して、示しあわせて抜け出して、そして人目につかないところで愛し合ったのだった。
それからほどなくして、綾乃は妊娠した。
ちょっとした騒ぎになった。
綾乃は、父親について沈黙を守り抜いた。
石丸は、どうするんだと聞いた。綾乃は、産んで育てると言った。
あんたとわたしの子どもだもん。おろしたりなんかしないよ。
それを聞いた石丸は、無言でうなずいた。
それから石丸は、これまでにもまして必死に働くようになった。
綾乃は、石丸とあまり会えなくなった。
綾乃は心を殺してソープ嬢として働き続けた。
そして、綾乃は子どもを生み、茜と名づけた。
一年ほど経ったある日、石丸がこっそりと綾乃に会いに来た。
どうしたの、と尋ねる綾乃に、石丸は言った。
やばいことになりそうだ。
しばらく会えなくなる。
だから、会いに来た。
石丸の顔は真剣だった。
抗争なの、と言いかけるのを、綾乃は懸命にこらえた。隣接するK市の三好組が、大阪に本拠を置く国内最大の広域指定暴力団、
震える綾乃に石丸は笑いかけた。
大丈夫。俺のことは心配要らねえ。
綾乃は自分と子どもの心配だけしてな。
きっと必ず帰ってくるから。
綾乃は頷くことしかできなかった。
そして石丸は姿を消した。
しばらくして、本格的な抗争がはじまった。
綾乃には詳しい状況はよく分からなかったが大変なことになっているらしいことは理解できた。
やがて、ヤクザたちはソープ嬢たちをほったらかして姿を消してしまった。
ほどなく、北陵組が壊滅したというニュースが伝わってきた。
北陵組は主だった幹部がハメられたり組を裏切って三好組についたことでガタガタとなり、挙げ句、組長が自宅前で何者かに射殺されたとのことであった。あっけない幕切れだった。
そんなある日、綾乃のもとに石丸がやってきた。傷だらけでボロボロだった。
どうしたの、大丈夫なのと尋ねる綾乃に、石丸はこわばった笑顔を見せた。それから綾乃に言った。
綾乃ここからすぐ逃げろ。
三好組の奴らがやってくる。
あいつらに捕まる前に逃げるんだ。
あんたはどうするのと綾乃は聞いた。石丸は答えなかった。
それから石丸は、まだ幼い茜を見つめて、にこりと笑った。
ほとぼりが冷めたら会いに行くよ。
そう言って、石丸は姿を消した。
綾乃は石丸に言われた通り、茜を連れてアパートから逃げ出した。見張りはいなくなっていたから脱走はたやすかった。
そのとき綾乃は一九歳だった。
綾乃は幸作に連絡を取ろうとしたが、家の番号に電話をかけても幸作は出なかった。
石丸の行方はようとして知れなかった。
綾乃は天涯孤独の身の上となった。
綾乃は小さな茜を抱いて、身一つでK市に辿り着いた。あえてK市に向かった理由は、三好組のお膝元ならかえって灯台下暗しになるのではないか、という考えからであった。
その考えは当たったらしく、三好組の魔手が綾乃に伸びてくることはなかった。
綾乃はそこで、NPOの助けを借りてどうにかこうにか茜の出生届を役場に提出し、安アパートに当座の住まいを得て、そしてパートタイムの仕事についた。そこで一生懸命働き、金を貯めて運転免許を取った。仕事の傍ら看護師専門学校に通い、三年間寝る間も惜しんで猛勉強し、国家試験に合格して看護師免許を取得した。
それでも世間の風は厳しかった。ヤクザの女であるという噂が立ったために最初に就職した病院にはすぐにいられなくなり、綾乃はいくつかの病院を渡り歩いた末、今の職場に収まったのだった。
そんな暮らしをしているうち、この世界の誰も当てにできないと綾乃は思うようになっていた。
娘を守れるのは自分しかいないのだと。
*****
綾乃から、茜の苦境について聞かされた石丸は、ずいぶんなショックを受けたようだった。石丸は身体をかすかに震わせ押し出すように言った。
……なあ綾乃。俺に何かできることはないか? 何でもいいから言ってくれ。
石丸は言った。その声は真剣そのものだった。
綾乃は石丸をじっとにらみつけた。
その姿がにじんだ。
遅すぎるのよ。
綾乃は、くぐもった声で言うと、涙をぬぐった。
……わたしは、自分で何とかする。何とかするから、あんたの助けは必要ない。必要ないの。だから、お願いだから、帰って。ねえ。お願い。
綾乃は、それだけ言うのが精一杯だった。
石丸は黙っていた。
『ブルー・ベルベット』の歌が、空々しく店内に響いていた。
石丸が、ややあって、ぽつりと言った。
実はな、近々、仕事があるんだ。
綾乃は顔を上げて、石丸を見た。
何やら、妙な含みを感じたからだ。
どういう、仕事なの。
そう尋ねると石丸は笑い、それから声をぐっと低くした。
……細けえことは言えねえが、デカい仕事でな。うまくいきゃ、結構いい金になるんだ。……そうさな、一千万くらいにはなる。
綾乃は目を見開いた。
信じられないほどの大金だった。
石丸は続けた。
……でな。それでな、綾乃に、ちょっとだけ手伝ってほしいことがあるんだ。
どんなこと。
荷物を預けたいんだ。
どんなものなの。
……それは言えねえんだ。悪ィけど。
石丸は苦笑した。
で、その荷物をちょっと預かってもらって、時が来たら引き取りにいく。そしたら、綾乃にそのぶんの分け前を払う。綾乃が欲しい分だけ出すよ。そしたら……その金は、どうか二人のために役立ててくれ。
……待って。考えさせて。
綾乃は、やっとの思いで言った。
そんなこと……そんなこと、急に言われたって。
……済まねえ。
石丸はちょっと目を伏せた。それから、顔を上げ、綾乃を見つめて言った。
……けどな、綾乃。俺の言ってることは、冗談でもなんでもねえ。そのことだけは、どうか分かっておいてくれ。
その声は真剣だった。
綾乃はつい、その声と顔にほだされた。
十四年前と同じように。
*****
石丸と連絡先を交換し、仕事を終えた綾乃は、いつものように最終バスに乗って家に帰った。
頭がぼんやりしていた。
何もかも夢ではないかと思った。
ただいま。
ドアを開けると、茜は起きていた。
綾乃の顔を見た茜は、怪訝そうな顔つきになった。
母さんどうかした?
えっ何が?
だって、何かいつもと様子がちがうもん。何があったの?
そう問うてくる茜の視線を、綾乃は受け止められなかった。
ただ、こう言うしかなかった。何でもないわよ。
あはは、まさか。何でもないわよ。ね。茜。いつもとおんなじ。おんなじだから。ね。
茜は何となく納得してない様子だった。
綾乃は構わず言った。
ごめんね、茜。母さん……何か疲れちゃって。もう寝るね。明日も早いし。ごめんね。
そして、茜の視線を逃れるようにして、奥の部屋に入った。
それから、服も脱がず、敷きっぱなしの布団にぱたりと倒れ込んだ。
綾乃は、枕に顔を埋めた。
そして、ポツリと言った。
……石丸さん。
それから、声を殺して泣いた。
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