襲撃

 二月二十五日。

 冷たい雨が静かに降る暗い夜。

 K港に程近い、市内最大の繁華街。その一角にあるクラブ〈バタフライ〉のビロード張りの店内にも雨音は静かに響いていたが、店内の人々にはその音に耳を傾ける余裕はないようであった。

 クラブ〈バタフライ〉は、三好組の縄張りだ。普通に客も取るが三好組関係者の会合場所としても用いられる。そしてこの夜、〈バタフライ〉は貸切とされ、一般客は立ち入れなかった。店内にいるのはヤクザだけだ。

 そして、店の奥の壁際にしつらえられたブースでは、テーブルを囲むように配置された革張りの大きなソファに四人の男が腰かけていた。

 男たちのあいだには静かだが鋭い緊張がみなぎっていた。

 男の一人、銀鼠色の背広を粋に着こなした40過ぎの男が言った。それでは取引と参りましょうか。

 向かいに座った、黒いマオカラーのスーツの痩せた男がうなずいた。隣に座っている、がっしりした体つきの馬面の男に身振りで合図する。馬面の男は身を屈め、足元に置かれていた銀色のアタッシュケースを取り上げた。テーブルの上に置く。馬面の男は慣れた手付きでアタッシュケースの留め金を外し蓋を開いた。

 アタッシュケースの中には純白のきめ細かな粉を詰め込んだビニール袋がいくつか入っていた。それらの袋は砂糖の1キロ袋ほどのサイズだったが、中身は当然砂糖などではなかった。

 覚醒剤メタンフェタミン

 それも、〈雪ネタ〉と呼びならわされる最高級の高純度品。

 中国・北朝鮮ルートでなければ入手できないとされる代物だ。ヤクザにとっては垂涎の品である。

 マオカラーの男が言った。

 計10キロ、確かに用意してあります。純度も保証済みです。もし気になるようでしたら後で確認していただいても結構ですが。

 銀鼠色の背広の男は首をふって笑った。いやとんでもない。信用しますよ。何と言っても香港の劉さんのお墨付きですからな。

 それから銀鼠色の背広の男は、隣に座っているブラウンの背広の男に目配せした。ブラウンの背広の男は足元からアタッシュケースを取り出しテーブルの上に置いて蓋を開けた。中には札束がぎっしりと詰まっていた。緑色のインクでベンジャミン・フランクリンの肖像画が印刷された札束だった。

 銀鼠色の背広の男が言った。番号不揃い、洗浄済みの金です。計100万ドル、びた一文ごまかしちゃおりません。後で確認していただければ。

 マオカラーの男は笑った。わかりました、信用しましょう伊藤さん。

 銀鼠色の背広の男――伊藤が言った。それでは取引成立ということで。

 マオカラーの男はうなずいた。

 その場の雰囲気が少し和らいだ。

 伊藤が笑いながら言った。ヤンさん、どうです一杯いかがですか。

 せっかくですからいただきましょうか。できればマオタイ酒などあればありがたいですが。

 もちろんご用意できますよ。

 伊藤は笑い、酒を持ってきてくれと大声で言った。

 その左手首のロレックスの腕時計の針は午前零時少し過ぎをさしていた。

 

 *****


 同時刻。

 〈バタフライ〉から少し離れたところにあるビルの陰に、白のダイハツ・アトレーが停まっていた。

 その軽ワンボックスカーの中には三人の男がいた。いずれも黒いジャンパーを羽織り、黒いキャップをかぶりマスクをつけていた。手には薄手のゴム手袋をつけていた。

 そのうちの一人は石丸隆史だった。

 石丸はカシオの腕時計を睨んで言った。よしそろそろだな。

 隣の男が黙ってうなずいた。小柄な男で目が落ちくぼんでいた。膝の上に置いた黒いボストンバッグを細長い指で神経質に叩いていた。

 石丸は運転席に座る小太りの男に向かって言った。じゃあ行ってくる。あとを頼むぜ。

 小太りの男はうっそりとうなずいた。

 石丸と小柄な男は後部座席から降りた。冷たい雨が二人に降りかかったが彼らは気にする素振りも見せなかった。路上はしんと静まり返り、街路灯の投げかける白く冷たい光が濡れた道路に反射して鈍く光らせていた。

 二人はジャンパーの襟を立て、無言で〈バタフライ〉へと向かった。スニーカーを履いているので足音はほとんどしなかった。

 〈バタフライ〉のドアには〈本日貸切〉の札がかかっていた。そしてドアの前には黒いスーツを着たガタイのいい角刈りの若い男が立っていた。近づいてくる二人に気づいた角刈りの男が低い声で言った。おいあんたら貸切の札が見えねえか。どっか他の店に行きなよ。

 石丸は言った。いやこの店に用があるんだよ。

 わからねえ奴だなよそへ行けよ。

 そうはいかねえんだよお兄さん。

 ふざけんじゃねえぞ。痛い目に遭いてえか。

 角刈りの男はドスのきいた低い声を出した。拳骨を握りしめる。小ぶりのカボチャほどもあるでかい拳だった。

 確かに痛そうだな。石丸は言った。

 そうだぜ俺ぁこれまで喧嘩に負けたこたぁねえんだ。悪いこたぁ言わねえとっとと帰んな。んでお母ちゃんにでも慰めてもらいなよ。

 角刈りの男は唇をねじ曲げて嘲った。

 石丸は薄笑いしながら言った。そうしてえのはやまやまなんだがな、こいつぁ仕事なんでね。すまねえな兄さん。

 言いながら石丸はジャンパーの中から銃を抜き出した。古いコルト・ディテクティブの短銃身スナブノーズ38口径リボルバーだった。

 鋼鉄の地肌が街路灯の光を受けて青く光った。

 角刈りの男は硬直した。

 石丸は低い声で言った。喧嘩に負けたことはないんだったな。

 角刈りの男はぎこちなくうなずいた。半開きの口から白い息が漏れた。

 石丸は薄笑いして言った。こいつにも勝てるかどうか、試してみるかい。

 そして音立てて撃鉄をコックした。


 *****

 

 〈バタフライ〉の扉が開いた。

 扉の近くにいた赤ら顔の男が言った。おい何やってんだ、今日は貸切だって。

 その鼻先にコルト・ディテクティブの寸詰まりの銃身が突きつけられた。

 石丸が言った。悪ィな。こいつが特別チケットだ。手ぇ上げろ。

 赤ら顔の男は言われた通りにした。身体が震えていた。

 その後ろから入ってきた小柄な男が、左手に提げていたボストンバッグの中からずるりと黒く長いものを引きずり出した。銃身を短く切り詰め、銃床の代わりに独立ピストルグリップを取りつけたレミントン11-87自動散弾銃だった。小柄な男はその凶悪な代物のグリップをつかみ、慣れた手つきでコッキングハンドルに手をかけて引いて離した。

 バネの力で勢いよく前進した遊底がバシッ! と音立てて初弾を薬室に送り込んだ。

 小柄な男は11-87を構え、わざと音を立てて安全装置を解除した。

 固い金属音。

 店内の空気が硬直した。

 奥のブースに座っていた伊藤が上ずりかける声を押さえつけるようにして言った。てめえら何のつもりだ。

 石丸は言った。分かってるだろうに。

 さあ何のことだかな。

 はぐらかすんじゃねえよ。ここで取引があんのは知ってんだ。出すもん出しな。

 はいそうですかとなると思うか。

 いいや思わんね。だから物騒なものを用意したのさ。さあそのアタッシュケースを寄越しな。

 できねえ相談だな。伊藤は言った。だいたいそのハジキが本物かどうかも。


 轟音。


 〈バタフライ〉の天井に穴が開きホコリが降ってきた。


 薄く煙を上げるコルト・ディテクティブを下ろした石丸が言った。本物かどうかわかっただろ。

 それから銃口を伊藤に向けた。

 次はまともに狙うぜ。

 石丸の声は暗く錆を含んでいた。

 伊藤はしばらくのあいだ息が詰まったようになって黙り込んでいたが、ややあって吐き捨てるように言った。

 わかった。好きにしろ。

 石丸は言った。物分かりがよくてありがたいね。それじゃブツをこっちまで持ってきてくれや。

 伊藤は近くにいた若い男に命じて二つのアタッシュケースを石丸のもとに運ばせた。髪をツーブロックにしたその若い衆は哀れなほどガタガタ震え、ふらつきながらケースを石丸のところまで運ぶと、その場で失神してひっくり返った。

 石丸はニヤリと笑った。どうもありがとさん。

 それから石丸はアタッシュケースをひとつ取り上げた。小柄な男がもうひとつのケースを持ち上げる。

 石丸は言った。それじゃこれでさよならだ。みなさんよい夜を。

 二人はケースを片手に、もう片方の手で銃を構えてゆっくりと後退りしながら店の出入口に近づいた。

 そのときだった。

 畜生め!

 先ほど脅された赤ら顔の男がやけくそじみた絶叫を上げて石丸に飛びかかった。わめきながら石丸を殴りつける。石丸はとっさに顔をかばって打撃を避けたが、そのとたんに銃を取り落としてしまった。

 赤ら顔の男はその小さなリボルバーに飛びつき石丸に突きつけようとした。


 轟音。


 赤ら顔の男の頭が爆発四散した。

 頭部の消失した胴体は、首の肉の断面から血をピューピュー吹き出しながらしばらく立ちすくんでいたが、ややあって横倒しに倒れた。その拍子に手から銃が外れて床に転げた。

 ぐしゃぐしゃの肉と血と脳髄と骨片と毛髪のまぜこぜをまともにあびたヤクザたちが悲鳴や呻き声を上げる。

 11-87の排莢孔から勢いよく排莢イジェクトされた赤い12ゲージ・シェルの空薬莢が床に落ちて固い音を立てた。

 巨大な銃口から薄く硝煙を吐く11-87を片手で構えた小柄な男が平板な声で言った。大丈夫か。

 石丸はうなずいた。ああ。助かった。

 小柄な男は11-87を片手で構え、ヤクザたちに向けながら言った。バカなまねしたらこうなるぜ。死にたい奴からかかってこい。

 もう誰も動こうとはしなかった。

 石丸はその間に銃を拾い上げた。それから言った。今度こそさよならだ。あばよ。

 それから二人は急いで出入口まで後退り、それからドアを開けて外に出た。角刈りの若い男は頭を抱えてうずくまっていた。大きな身体を震わせて子供のようにすすり泣いていた。それには構わず二人は雨の降りしきる路上を走った。闇の中にアトレーのヘッドライトが白く浮かんでいた。

 車に乗り込んだ石丸は叫んだ。出せ、早く出せ、急げ!

 小太りの男はうなずき車を発進させた。

 タイヤを軋らせながらアトレーは猛然とその場で回頭し〈バタフライ〉から遠ざかっていった。

 バックミラーに〈バタフライ〉から飛び出してくる男たちの姿が見えたがもはやどうでもいいことだった。

 小太りの男が言った。どうだったんだ。

 石丸が言った。ブツは手に入れたが一人殺っちまった。

 厄介なことになるな。

 だろうな。まあこうなったらもう仕方ねえ。とりあえずアジトに戻る。予定どおりな。後のことはそれから考えるさ。

 小太りの男はうなずきアトレーの速度を上げた。

 石丸はため息をついた。それからコルト・ディテクティブを脇の下のホルスターにおさめ、手袋を外し、それからマスクを顔からむしりとった。そこで石丸はマスクに点々と赤いしみがついていることに気づいた。

 石丸はマスクをぐしゃぐしゃに丸め、アトレーの窓を開けて外に放り捨てた。

 丸められた白い不織布のマスクは一瞬闇の中に浮かんでそして消えた。

 石丸は座席に深く沈み込んだ。雨に濡れた窓の外を見つめる。外は暗く、夜が明けるにはまだだいぶ時間があった。

 石丸はポツンと呟いた。


 綾乃。茜。

 俺ぁとんだろくでなしになっちまったよ。  

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