惨劇の夜

 三月十八日、午前一時少し前。

 ドアをノックする音に、テーブルについていた茜はぴくりと身体を震わせた。

 茜はいつものジャージではなく、動きやすいシャツとジーンズ姿だった。髪はヘアゴムで括ってポニーテールにしてあった。足元には財布やスマホなど、必要なものだけを詰めたリュックサックが置いてある。

 同じくジーンズをはき、デニムのジャケットを着た綾乃がテーブルから立ち上がり、ドアを開けた。

 こんばんわ、綾乃さん。茜ちゃん。

 そう言って室内に入ってきた木島は、真っ黒なスーツを着ていた。シャツも黒かった。きっちりしめた細身のネクタイも黒かった。

 そして木島は、真っ黒な手袋をはめていた。薄い革製の手袋だ。

 夜の闇をまとったような姿だった。

 茜は思わず呆然とその姿を見つめた。

 木島が言った。綾乃さん、ケースは出してありますか。

 綾乃は無言でうなずいた。

 アタッシュケースはテーブルのそばに置いてあった。茜と綾乃が二人してヒイコラ言いながら運んだのだ。

 木島はそのアタッシュケースを左手ですっと持ち上げた。左手首に巻かれた黒い腕時計が、白い手首と鮮やかなコントラストをなしていた。

 重さ10キロ以上あるケースを軽々とぶら下げた木島は、低く静かな声で言った。

 綾乃さん。もう一度言いますが、スマホはすぐに手に取れる位置に置いておいてください。

 はい。

 必要なものはまとめてありますね。

 はい。

 では、のときは、……わかっていますね。

 綾乃は無言でうなずいた。

 木島はうなずき返した。では、行ってきます。

 木島はきびすを返し、ドアを開けて出ていこうとした。

 茜は思わず、その背中に声をかけた。

 あ、あ、あの。

 木島は立ち止まり、振り返って茜を見た。

 どうしたの。

 あの、あの、木島さん。

 茜はごくりと唾を呑んで、そして言った。

 どうか、あの、無事に、帰ってきて……ください。

 声が震えるのを、茜は抑えられなかった。

 木島はほんの少しだけ微笑んで言った。

 ありがとう。

 それだけ言い残して、木島は部屋を後にした。

 遠ざかる足音を聞きながら、茜は震えていた。

 ただ、木島に無事に帰ってきてほしいと願った。


 *****


 木島は階段を使い、一階まで降りた。外に出ると、真っ暗な空から静かに小雨が降り注いでいた。木島は小走りにアパートの裏手の駐車場に回った。その片隅に停めてある、黒のスズキ・スイフトの荷物室にアタッシュケースを入れる。それから車に乗り込み、発進させた。

 アパートを出た木島のスイフトは、小雨に打たれながら眠りに落ちつつある街を走り抜けていった。大通りは選ばず、ひっそりと静かな裏道を縫うようにして走っていく。いくつもの交差点を曲がり、終夜営業のファミレスやコンビニの看板の光を横目に、スイフトはひたすら走り続けた。

 やがてスイフトは、街の中心部から遠ざかり、北東部の郊外に向かうルートに乗った。そのまま走り続けると、いつしか古びた住宅が立ち並ぶひっそりと暗い一画に入り込んだ。

 このあたり――S町は、高度成長期に造成された古い住宅街だ。何せ住宅街であるから、この時間帯になるとひっそりと静まり返る。しかも町全体の高齢者率も高い。かつては賑わっていたが、住民の新陳代謝がうまくいかず、ゆるやかに寂れつつある地域だった。とどのつまり、夜の賑わいとはとんと縁遠い地区なのだ。

 よって、木島のスイフトを見とがめる者は誰もいなかった。時折道を行き交うのは、団地のどこかに人を送り届けに走るタクシーくらいのものだったし、いくらタクシーの運転手に見られたところで困ることはほとんどないはずだった。どうせここらの住民の車なのかどうか判別などできまい。

 街路灯が投げかける青ざめた光に照らされながら、木島のスイフトは立ち並ぶ住宅やアパートの間を静かに走り抜けていった。町のあちこちには歯の抜けたように空き地が目立ち、雑草に囲まれるように「売り地」の看板が寂しげにたたずんでいた。

 老いて死にかけた町を木島のスイフトはゆっくり進んだ。

 やがてスイフトは、一際ひっそりとした、灯りの乏しい暗い場所にたどり着いた。星も月もない暗い夜の闇の中、雑草の生い茂る空き地に囲まれるように、黒々とした背の高い建物がひっそりとたたずんでいるのがおぼろに見える。

 この近辺で“幽霊ビル”と呼ばれている、集合住宅の廃墟だ。このあたりで最も古い集合住宅で、老朽化が進んでおり、すでに取り壊しが決まっている。入居者はもういない。しかし、数年来の不況のせいもあって、いつ取り壊すかの目処が立ってないらしく、ずっと放置されているのだった。自殺者の幽霊が出るなどの噂があり、近隣の住民は気味悪がって近づかない。

 何にしても重要なことは、この幽霊ビルはがらんどうだし、近づく者もほとんどいないということだ。暇をもて余した馬鹿な若者たちや、輪をかけて馬鹿な動画配信者でもなければ、ここに近づく者はいない。特に、こんな冷たい雨の降る真夜中には。

 誰にも見とがめられず、10キロの覚醒剤を受け渡すには都合のいい場所だった。

 木島はカシオの腕時計を見た。針は午前二時近くを示していた。木島は時計から目を上げ、“幽霊ビル”へと車を近づけていった。

 そのとき、不意にまばゆいヘッドライトの光が木島の目を射た。

 木島は目を細め、少し顔を背けた。ブレーキペダルを踏む。

 スイフトはぴたりと停まった。

 木島はシフトレバーをパーキングの位置に入れた。目を細め、無遠慮にこちらを照らしながら近づいてくるヘッドライトの方を見る。まぶしくて相手の車のディテールはよく見えなかったが、どうやらトヨタ・ハイエースのようだった。

 その大型バンは、スイフトから数メートルほど離れた位置で停車した。ハイエースの横腹が開き、中から五人の男が降りてくるのが木島には見えた。

 そのうちの一人が大型バンの前に立った。勤め人風のスーツを着こみ、眼鏡をかけた中肉中背の男だ。その男が、奇妙によく通る声で、降りてこいと言った。

 木島はその命令に従った。しとしと降る雨が木島の服を濡らし、冷たい雨粒が首筋を伝い落ちたが、木島は少しも気にしてない様子だった。

 降りてきた木島を見て、勤め人風の男が言った。女とはな。

 木島は黙っていた。

 男が言った。まあいい。お前一人か。

 木島は無言でうなずいた。

 ブツは持ってきてるんだろうな。

 木島はもう一度うなずいた。

 よし、それじゃブツを出せ。

 木島が言われた通りケースを荷物室から引っ張り出し、スイフトの前に回ると、男は、じゃあそのケースをこっちまで持ってこい、と命じた。

 木島は動かなかった。

 何のつもりだ。早く持ってこい。

 男が苛立たしげに言うと、木島は答えた。

 金は。

 ああ?

 金はどうしたの? ブツと引き換えに、という話だったけど。

 男は黙っていた。

 木島は言った。金を見せて。そうでなけりゃ、ブツは渡せない。

 男はしばらく黙っていた。

 ややあって男が口を開いた。

 勘のいい女は嫌いだよ。

 その言葉と同時に、背後の連中が動いた。

 懐から次々に拳銃を抜き出し、木島に突きつける。

 勤め人風の男も腰の後ろに手を回し、銃を抜いた。消音器サプレッサ付のマカロフ自動拳銃だった。

 どういうつもり?

 木島はそいつらを眺め回し、ポツンと言った。

 勤め人風の男が言った。最初っからこういうつもりさ。さあおとなしくついてきてもらおうか、お姉さん?

 木島はもう一度男たちを見回して言った。

 いやだと言ったら?

 勤め人風の男はニヤリと笑った。

 妙なことは考えない方がいいぜ。死にたくなけりゃな。

 木島はしばらく黙っていたが、ややあってうなずいた。

 勤め人風の男は満足げにうなずいた。よし、じゃあそのケースを持って、こっちまで来るんだ。ゆっくりとな。

 木島はうなずき、ゆっくりと男たちの方に歩み寄ろうとした。


 そのときだった――猛烈なエンジン音が闇の中から沸き上がったのは。


 まばゆい光が、木島と、五人の男たちをくっきり照らし出した。


 全員が一瞬硬直した。


 何台もの車が、オートバイが、吠えたけりながら殺到してくる。

 

 きしるようなブレーキ音。

 ドアが開く音。

 

 中古のハッチバックや軽自動車から、オートバイやスクーターから、様々な服装の男たちが次々に降り立った。

 そいつらの手には武器が握りしめられていた。

 警棒、鉄パイプ、ナイフ、青龍刀、マチェーテ、それに拳銃。


 やべえ、と誰かが言った。


 野蛮な歓声を張り上げて、武器を振りかざした男たちが、木島と五人のガンマン目掛けて突進してきた。

 くそ、撃て!

 勤め人風の男が叫んだ。

 ガンマンたちは次々に発砲した。

 消音器サプレッサを通じて押し潰された銃声が夜のしじまに響いた。

 男たちの何人かが倒れたが、他の連中はひるまずに向かってきた。拳銃を持っている連中が発砲を開始する。

 はじけるような銃声。

 ガンマンのひとりがグワッと呻いてその場に倒れる。

 あっという間にあたりは修羅の巷と化した。ガンマンたちは敵の数に圧倒され、防戦一方となった。

 そして木島に向かって、青龍刀を振りかざしたジャージ姿の平べったい顔の男が飛びかかってきた。

 もらったァ!

 男は下卑た笑みを顔いっぱいに浮かべていた。ものすごい勢いで刀を振り下ろす。

 木島はとっさにアタッシュケースを両手で持ち、斬撃を防いだ。激しい音とともに、ケースのカバーにくっきり切り傷が刻まれる。

 男は罵声を上げ、もう一回木島に斬りかかろうとした。

 その横面に重さ10キロのケースが直撃した。

 木島が力任せに叩きつけたのだ。

 ゴシャッという鈍い音とともに男の頭が奇妙な感じにひしゃげた。首が通常の人体には不可能な角度に折れ曲がる。

 男は刀を取り落とした。目鼻から血がだらだらと流れ落ちる。膝がぐにゃりと折れ曲がり、男はその場に崩れ落ちた。まだ息はしていたが、もうその目は何も見ていなかった。

 死にゆくジャージの男に見向きもせず、木島は素早くケースを回収するとスイフトの後部座席に放り込んだ。そこに警棒を振りかざした長髪の男が襲いかかった。木島はそいつの膝を思い切り蹴りつけて脚をへし折った。長髪の男は警棒を放り出して絶叫し、膝を抱えてその場に倒れた。木島は車に乗り込もうとしたが、そこに横合いから醜悪なデザインのどでかいサバイバルナイフが突き出された。木島は素早くナイフを避けた。ナイフを持つパーカー姿の小柄な男の腕をつかんで捻り上げ、ナイフを奪うとそのまま腕をへし折った。悲鳴をあげる男の首筋に刃渡り20センチはあろうかというナイフを柄元まで突き刺す。鋸歯つきの刃によって頸動脈はおろか気管まで切断された男は大量の血を吐いて痙攣した。

 瀕死の男を突き飛ばした木島はスイフトに飛び乗った。シフトレバーをドライブに入れる。アクセルを踏み込む。

 ガウッ! とスイフトのエンジンが咆哮した。猛然と走り出したスイフトは、乱闘する男たち目掛けて突っかかっていった。血に飢えたけだものの双眸のようにぎらつくヘッドライトの光の中、口をOの字に開き、愕然と目を見開いた男たちの顔が浮かび上がる。

 スイフトはそいつらを次々にはね飛ばした。

 見る見るうちにスイフトのバンパーはひしゃげ、ボンネットはへこみ歪んだ。片方のヘッドライトが潰れる。

 肉が裂け、骨が砕ける音。悲鳴。絶叫。

 フロントガラスが飛び散った血しぶきで赤く染まったが、木島は一切気にする素振りを見せなかった。ワイパーを作動させ、血をぬぐいとる。

 血のわだちをアスファルトの上に引きながらスイフトは男たちを蹴散らした。猛烈な速度で幽霊ビル前から離脱していく。

 ぐずぐずしている余裕はなかった。

 強まる雨の音の向こうに、パトカーのサイレンが次々に沸き起こるのが聞こえた。

 警察が殺到するのは時間の問題だ。

 スイフトを途中で放棄する必要があると木島にはわかっていた。どこかで別の足を調しなければならない。

 しかしそれより先にするべきことがあった。

 木島はスマートフォンを取り出し、電話をかけた。

 相手が出るなり木島は言った。


 逃げて!


 木島は電話を切ると、窓を開け、スマートフォンを車の外に捨てた。

 そして思い切りアクセルを踏み込んだ。

 傷だらけのスイフトはテールランプの光の尾を引いて、雨足強まる夜の底へと突っ走っていった。


 *****


 木島は気づかなかった。

 闇の中から黒のヤマハ・セロー250二台がするりと現れたことに。

 セローのライダー二人の頭部は異様な形状をしていた。ゴーグル型の暗視装置を装備していたのだ。まるでエイリアンか殺人ロボットのように見えた。

 ライダーの一人が小声で言った。

 一人逃げた。パッケージを持っている。追跡を開始する。

 その声は喉に貼り付けられたスロートマイクを通じ、どこかへと転送された。

 そして二台のバイクは走り出した。特製のマフラーのおかげでエンジン音は小さく、強まる雨がさらにエンジン音をかき消した。そしてバイクは無灯火だった。暗視装置のおかげであった。

 十分の距離をおき、二台のセローはスイフトを追跡し始めた。

 

 

 

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夜の底のふたり HK15 @hardboiledski45

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