羅生門
芥川龍之介/カクヨム近代文学館
ある日の暮れ方のことである。一人の
広い門の下には、この男のほかに誰もいない。ただ、所々
なぜかというと、この二、三年、京都には、地震とか
その代わりまた
作者はさっき、「下人が雨やみを待っていた」と書いた。しかし、下人は雨がやんでも、格別どうしようという当てはない。ふだんなら、もちろん、主人の家へ帰るべきはずである。ところがその主人からは、四、五日前に暇を出された。前にも書いたように、当時京都の町は一通りならず衰微していた。今この下人が、永年、使われていた主人から、暇を出されたのも、実はこの衰微の小さな余波にほかならない。だから「下人が雨やみを待っていた」というよりも「雨にふりこめられた下人が、行き所がなくて、途方にくれていた」と言うほうが、適当である。その上、今日の空模様も少からず、この平安朝の下人のSentimentalisme(センチメンタリズム・感傷主義)に影響した。
雨は、羅生門をつつんで、遠くから、ざあっという音をあつめてくる。夕闇はしだいに空を低くして、見上げると、門の屋根が、斜につき出した
どうにもならないことを、どうにかするためには、手段を選んでいるいとまはない。選んでいれば、
下人は、大きなくさめをして、それから、大儀そうに立上がった。夕冷えのする京都は、もう火おけ(木製の火鉢)がほしいほどの寒さである。風は門の柱と柱との間を、夕闇とともに遠慮なく、吹きぬける。丹塗の柱にとまっていた蟋蟀も、もうどこかへ行ってしまった。
下人は、
それから、何分かの後である。羅生門の楼の上へ出る、幅の広い梯子の中段に、一人の男が、猫のように身をちぢめて、息を殺しながら、上のようすをうかがっていた。楼の上からさす火の光が、かすかに、その男の右の頰をぬらしている。短い
下人は、
見ると、楼の内には、うわさに聞いた通り、幾つかの
下人は、それらの死骸の
下人の眼は、その時、はじめてその死骸の中にうずくまっている人間を見た。
下人は、六分の恐怖と、四分の好奇心とに動かされて、
その髪の毛が、一本ずつ抜けるのに従って、下人の心からは、恐怖が少しずつ消えていった。そうして、それと同時に、この老婆に対するはげしい憎悪が、少しずつ動いてきた。──いや、この老婆に対するといっては、語弊があるかもしれない。むしろ、あらゆる悪に対する反感が、一分ごとに強さを増してきたのである。この時、誰かがこの下人に、さっき門の下でこの男が考えていた、饑死をするか盗人になるかという問題を、改めて持出したら、おそらく下人は、なんの未練もなく、饑死を選んだことであろう。それほど、この男の悪を憎む心は、老婆の床にさした松の木片のように、勢いよく燃え上がりだしていたのである。
下人には、もちろん、なぜ老婆が死人の髪の毛を抜くかわからなかった。したがって、合理的には、それを善悪のいずれにかたづけてよいか知らなかった。しかし下人にとっては、この雨の夜に、この羅生門の上で、死人の髪の毛を抜くということが、それだけですでに許すべからざる悪であった。もちろん、下人は、さっきまで自分が、盗人になる気でいたことなぞは、とうに忘れているのである。
そこで、下人は、両足に力を入れて、いきなり、梯子から上へ飛び上がった。そうして聖柄の太刀に手をかけながら、
老婆は、一目下人を見ると、まるで
「おのれ、どこへ行く」
下人は、老婆が死骸につまずきながら、あわてふためいて逃げようとする行手をふさいで、こうののしった。老婆は、それでも下人をつきのけて行こうとする。下人はまた、それを行かすまいとして、押しもどす。二人は死骸の中で、しばらく、無言のまま、つかみ合った。しかし勝敗は、はじめからわかっている。下人はとうとう、老婆の腕をつかんで、無理にそこへねじ倒した。ちょうど、鶏の脚のような、骨と皮ばかりの腕である。
「何をしていた。言え。言わぬと、これだぞよ」
下人は、老婆をつき放すと、いきなり、太刀の鞘を払って、白い鋼の色をその眼の前へつきつけた。けれども、老婆は黙っている。両手をわなわなふるわせて、肩で息を切りながら、眼を、
「
すると、老婆は、見開いていた眼を、いっそう大きくして、じっとその下人の顔を見守った。眶の赤くなった、肉食鳥のような、鋭い眼で見たのである。それから、
「この髪を抜いてな、この髪を抜いてな、
下人は、老婆の答が存外、平凡なのに失望した。そうして失望すると同時に、また前の憎悪が、冷やかな
「なるほどな、
老婆は、だいたいこんな意味のことを言った。
下人は、太刀を
「きっと、そうか」
老婆の話がおわると、下人はあざけるような声で念を押した。そうして、一足前へ出ると、不意に右の手をにきびから離して、老婆の襟上をつかみながら、かみつくようにこう言った。
「では、
下人は、すばやく、老婆の着物をはぎとった。それから、足にしがみつこうとする老婆を、手荒く死骸の上へ
しばらく、死んだように倒れていた老婆が、死骸の中から、その裸の体を起したのは、それからまもなくのことである。老婆はつぶやくような、うめくような声を立てながら、まだ燃えている火の光をたよりに、梯子の口まで、はって行った。そうして、そこから、短い白髪をさかさまにして、門の下をのぞきこんだ。外には、ただ、
下人の
(大正四年九月)
羅生門 芥川龍之介/カクヨム近代文学館 @Kotenbu_official
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
同じコレクションの次の小説
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます