第5話 恩人

「おかえり、英慈えいじ

「ただいま……おはようございます、茉莉まりさん」


 ジョギングから帰った俺を笑顔で迎えてくれたのは、暗めの茶髪をすっきりポニーテールに纏め、上下黒のパンツスーツに身を包んだ女性。

 キリっとした目元に泣きほくろが印象的な彼女はまだ二十代で、一緒に暮らしているものの母親でも姉でも親戚でもない。


 というのも、いろいろと理由があって俺は軍に入った時から家を出ているのだが。

 俺の存在を隠したい軍は訓練中はともかく、任務に就くにあたっては他の兵士のように俺を寮のような施設に入れることは出来なかった。


 そこで、俺の上官でもある彼女、木原茉莉きばらまりが保護者として買って出て今に至るという経緯がある。

 つまり、俺は彼女の家に居候させてもらっているという訳なのだ。


「おはよう。いい天気ね、朝ごはんは出来てるけど?」

「ありがとうございます。頂きます」


「おっけー、お味噌汁ちょっと温めなおすから食べ始めてて」

「はい。ありがとうございます」


 もう少ししたら流石にシャワーを先に浴びたくなるだろうけど、まだ大丈夫だ。

 それよりも早く飯を食わせろ、と今にも泣き出しそうな腹を宥める方が先だ。


 一応、指導されている通りジョギング前に補食としてゼリーを摂ってはいたけれど、あれだけじゃ無いよりマシというレベルでしかない。

 俺は席に着いてお茶で口を湿らせると、ハムエッグにケチャップをかけて一口食べるとご飯をかきこんだ。


 うまい。

 ギリ半熟の卵黄がたまらない。


「はい、お味噌汁」

「ありがとうございます。美味しいです」


「そっか、よかった。おかわり入れてきてあげる」

「ありがとうございます」


 僅かに残っていたご飯を口に運び、口元を手で隠しながら空になったお茶碗を預けた。

 そして、とうふとワカメのお味噌汁で流し込み一息つく。


「ふぅ」

「はい。おまちどおさま」


「ありがとうございます」

「あ、先にこれ渡しといていい?」


 茉莉さんはそう言うと首元に手をやりネックレスを外した。

 それは俺が魔力を偽装するために日中付けている、例の飾り気のないネックレスと同じもの。


 当然、魔力を持っていると偽装するネックレスには魔力が必要だ。

 で、その魔力の出どころはどこかというと、彼女が毎晩身につけて貯めてくれているものなのである。


 いつもは家を出る前に受け取るそれを、俺は一瞬の逡巡の後いつも通り身につけることにした。

 悩んだのは今付ける必要が無かったから。

 そして、手のひらから伝わるネックレスに残る彼女のぬくもりに気づいたからでもある。


 ……たぶん、これまで気づかなかったのは、選択肢がなくて何も考えずに付けていたからだろうな。

 なんだろ、気にしたら妙に恥ずかしくなってきた……。


「……ありがとうございます」

「ごめんね、私今日ちょっと早く出ないといけないの」


「そうなんですか?」

「うん、理由は言えないんだけど」


「分かっています」

「食事中にごめんね。じゃあ、私準備してくるから、ゆっくり食べて」


「いえ、ありがとうございます」

「うん、じゃあね」


 茉莉さんは申し訳なさそうに手を合わせると洗面所へと向かった。

 軍人である以上、仕事には機密事項が多く、相手が部下であろうと話せないことは多々ある。


 そもそも茉莉さんは家で仕事の話はしないけど……。


 彼女は職場と家できっちりと線引きしているらしく。

 昼間の職場では犯した失敗に対しとことん厳しく追求してきても、家に帰ればただの優しいお姉さんなのだ。


 一方の俺はというと、彼女ほどきっちりと分けられていられないと思う。

 俺にとって茉莉さんは、上司であり保護者であり、恩人だ。


「英慈」

「ぁ、はい」


 リビングの扉から少しだけ顔を覗かせ俺を呼ぶ。

 理由はきっと香水を振ったから、食事中の俺の気を害さないように気遣ってくれたのだろう。


「食洗器、洗剤は入れてあるから食べ終わったらお願いね」

「分かりました」


「ありがと。じゃ、行ってきます」

「行ってらっしゃい」


 彼女がちいさく手を振って扉を閉じると、訓練で鍛えられた鼻が柑橘系のすっきりとした香りを敏感に拾った。

 それは俺にとっては恩人の香り、ぜんぜん気に障る匂いじゃない。

 

 そう、木原茉莉こそ、俺に復讐の機会を与えてくれた恩人なのだ。


 事件の後、さくらは他の犠牲者同様死んだことにされ、彼女の両親も空の棺桶と写真で葬式を挙げたのちに引っ越して行った。

 メディアの足が遠のいても、いくつかの大きな出口にアタックポイントとして要塞が構築されても、俺は現場に通い続けた。

 彼女の墓標はここなのだ、と言わんばかりに。


 当然、いろんな人が幼い男の子を気にかけてくれた。

 ただ、通り一辺倒の心配は俺の心に届かず、往々にして無反応な俺に諦めて立ち去るか、せいぜい警備の兵士を呼ぶくらいが関の山だった。


 そんなある日、声をかけてきた女の人が彼女だった。

 後々知ったことだが、要塞の軍人に俺はちょっとした有名人だった。


 むしろ、事件で生き残った男の子だったから同情して見過ごして、見守ってもらえていた部分もあっただろう。

 当然というか、茉莉さんも俺のことを知っていた。


『私も、残されちゃったんだよね』


 彼女は慰霊碑の前に座る俺の横に腰を落とし話し始めた。

 彼女の場合は結婚を約束していた相手、その男性と幸せそうに映る写真を見せて事情を話してくれた。


 お互い軍人で、同じ任務中に失った、と。

 でも、婚約者の遺体は回収されたから君の不安は分からない、と正直に話してくれた。


 幼い俺はまださくらを恐怖の実感はなかったけれど、真摯に向き合ってくれる茉莉さんの姿勢は嬉しくて、少しずつ自分のことを話しだした。

 そして、さくらが教えてくれた、襲われなかった原因を話したことが大きな転機となる。


『仇を討ちたくない?』


 婚約者を失った茉莉さんはこのままでは勝てないと思い、強い魔力を発現した人間やトリックスターを追いかけて来た異世界人だけに頼らない対応策を模索していた。

 一部の力ある者たちだけでは、力をぶつけ合うだけでは勝てないということは、異世界で既に証明されているからだ。


 なぜなら、そうでなければどちらかが異世界で勝利を収めていたはずで、停滞する戦いを打破すべくトリックスターが地球に現れることはなかったのだから。


『君の力が世界を救うかも』


 もちろん、派閥の一つであるメイガスのマスカレードにしか通用しないだろう俺に、そこまでの力があるとは彼女も思っていなかったはず。

 なにより、謝られたことで後々分かったことだが、彼女に子どもの俺を戦場に出すつもりはこれっぽっちもなかった。


 ただ、彼女は俺を立ち上がらせる方法を知っていて、絶望の淵に座り込む俺に手を差し出さずには居られなかったのだ。

 結果として俺は奮い立ち、様々な人間の思惑が入り乱れた末に、彼女の想定とは裏腹に俺は実戦に出ることになった。


 俺としては願っても無かったこと。

 だから、茉莉さんの謝罪に戸惑いこそすれ、俺にとって実戦投入は彼女が思う程大した問題じゃなかった。


「ごちそうさまでした」


 むしろ、茉莉さんには感謝しかない。

 そんなことを想いながら合わせる両手は、いつもよりしっかりと合わさった気がした。

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