第1話 変わり果てた世界

 分厚い二重扉が俺だけのために開き、もう一度オペレーターの加佐見さんに目礼して廊下に出る。

 その両脇を固める兵士の方に敬礼し、白く無機質な明るい廊下を進み更衣室へ入った。


「ふぅ……」


 誰も居ない空間でようやく一息つく。

 この三か月何の成果を挙げられなくても、敵の領域テリトリーである神域に入れば精神は擦り減る。


 特に今日は幻覚まで見たくらいだし、自分で思っているより疲れているのかもしれない。

 熱いシャワーを浴びるべく、割り当てられたロッカーで装備を外し併設された浴室へ向かう。


 一人で使うにはあまりに広すぎる浴室にも、いつも通り人は居なかった。

 ずらっと並ぶ個室のシャワーのうち、入り口に一番近い指定席へと直行し、すぐさま頭から冷たい水を浴びる。


 ……俺には、俺しか出来ない任務がある。


 さっきスタングレネードで回避した敵の集団は、敵の中でも一番弱い敵『リーフ』だ。

 黒い靄のようなもので構成される丸い身体に、青白く光る木の葉型の目が浮かぶことからそう呼ばれている。


 金属すら切り裂く鋭い歯が脅威ではあるものの、少数なら魔力が無い俺でも倒せる敵。

 けど、戦えば音で敵が集まってしまって結局逃げるしかなくなってしまう。


 だからこそあれでよかったと、自分にしか出来ない任務をこなす事こそが彼女の復讐になると、まだ心のどこかで戦うことを諦めきれない自分に言い聞かせる。


「ふぅ……すっきりした」


 水からお湯に変え、頭と身体を洗い終える頃には気持ちも落ち着き、シャワーを止めた俺はだだっ広い浴槽に向かい、そのすみに身体を沈めた。

 今まで一度も他の人と居合わせたことはないけれど、ここ以外の場所に浸かったことはない。


 ……さくらを失う前の俺なら泳いでいたのかな。


 幼馴染みのさくらを奪われて五年、復讐以外のことにはあまり、積極的になれないでいる。

 というか、自分は彼女の復讐さえ出来ればそれでいいのだけれど、家族や周囲の人の中にはそうじゃない人も居て。


 俺に、復讐以外のことにも目を向けさせようとしてくれる。

 復讐だけが人生じゃない、と。


「……出るか」


 気持ちは嬉しい。

 俺を気にしてくれているのは、すごい分かるから。


 でも、俺は彼女を、さくらを俺の中から奪われる前に世界を取り戻す必要がある。

 神域に取り込まれたら、人であれモノであれ、いつかは存在が失われてしまうから。


 ……さくらとの思い出まで奪われたら、俺は。


 5年前、10歳だった俺は彼女を失ったショックでおかしくなっていた。

 暴れたとか、泣き喚いたとか、そういう分かりやすいのじゃなかったけど、静かに、心が死んでいて、家族に……迷惑をかけてしまった。


 毎度のことながら思い出すと申し訳なさで胸が苦しくなり、頭を乾かしていた手が止まる。

 力なく下ろした左手にへばりつく短めの黒髪が伝えるように、髪はまだ大分しっとりめの半乾きだ。


 ……さすがにこれで帰ったら風邪引くか?


 通りすがりの人に変な奴と思われるのは構わないが風邪を引くのは困る。

 風邪で任務から外れれば、彼女の復讐がその分遠ざかることになるからだ。


 彼女の復讐こそが、生きる理由。

 ふたりの思い出だけは何があっても奪わせないと、そう胸に誓って生きてきた。


「暖かくなるって言ってたのに……」


 白のアンダーシャツにジーンズ、黒のパーカーを羽織って外に出ると、3月も直に終わろうというのに吹き抜ける強い風が身体を冷やしていく。


 服装を間違えたな……。

 そういや、時折吹く強い突風にご注意ください、とか言ってた気もする……雨以外気にしてなかったけど。


 いい加減に聞いていた朝のお天気情報を思い出しつつ、パーカーのジッパーをいっぱいに上げフードをかぶる。

 その瞬間、街路樹から落ちたばかりの葉を音を立てて巻き上げるビル風が前方から襲った。


 とっさに反転し背で受けると、以前は地下鉄ターミナル駅の駅前ロータリーだった所に出てきたばかりの職場が直立している。

 押し戻そうとする風に抵抗し見上げるも、建物に窓はない。


 それだけでも十分異様なのに、車道のアスファルトとタイルで舗装された歩道に跨って聳え立つ様は、事情を知らない人からすれば不気味で仕方ないだろう。

 ただ、説明自体は簡単だ。


 敵が地下鉄の一部を占拠し、それに対応していくうちにこうなった、それだけ。

 つまり、砦としての機能を優先し、リスクとなる窓、装飾は一切不要と割り切り、文字通り取って付けたように造った結果である。


「ま、知らない人なんてほとんど居ないだろうけど」


 なにしろ、現在も地下鉄の一部を使用不能にしているである。

 よほど世情に疎いか海外の人でもない限り、全く知らないということは無いはずだ。


 誰に言うでもなく一人呟いた俺は、吹き付ける風が弱まるのを背で感じ、飾り気の欠片もないのっぺりとした白い建物から視線を戻し家路に着く。

 まだ夕方も遠い時刻だというのに、広いロータリーに人けはあまり無い。


 正確に言うと人が居ないのは歩道の上で、ロータリーに置かれたコンテナに物資を搬入したり平積みのものを整理したりと、働く人の姿はある。

 その人たちを横目で見ながら足早に歩道を進む。


 別に、一足先に退勤することを気にして速足になってる訳じゃない。

 ここを通る時は自然とこうなってしまう。


 その理由は入り口付近、一般の人が行き交う通りに繋がる角にあった。

 慰霊碑である。


 黒く艶やかな慰霊碑は、5年前にあの事件で亡くなったとされる人たちのためのもの。

 同時に、どれだけの人が世界から消えたか、一目で判別するためのものでもある。


 そう、神域に取り込まれた人間はいつか存在を奪われる。

 人の記憶からはもちろん、影響は物にまで及ぶ。


 戸籍はもとよりあらゆる記録から存在が消え、モノに記されていたはずの名前は灰燼に帰す。

 ただ、その影響は他の存在にまで及ぶことはなく、それを逆手に取ったのがこの慰霊碑だ。


 名前を記したものは塵芥と化すが、プレートに名を記し嵌め込んでおけば、存在が失われたとしてもプレートが在ったことは分かる。

 そこにが居たことだけは空白として世界に遺せるのだ。


 下から3段目の右から6番目。


 数えきれない程に見た彼女の名前を通り過ぎ様に確認した。

 見なくても、まだことは分かっていた。


 彼女のことを覚えているから消えているはずはない。

 それでも心が身体を急かし、目が勝手に見つけるのだ。


 急に、耳が通りの雑音を拾い出した。


 信号の変わる音、聞き取れない話し声、楽しそうな笑い声、クラクション。

 まるでこの世とあの世の境かのように、慰霊碑の向こうは人で溢れている。


 ……やっぱり今日はおかしい。


 注意散漫な自分に溜め息を吐きたくなるのをクセで押し殺し、代わりに淡く息を漏らすことで気を取り直すと、仮初めの安堵から目を背け人ごみに紛れるのだった。

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