山ゆりの隧道 後篇


 着信履歴の画面を撫でた。キング・オブ・クズ男の名ばかりが並んで浮かぶ。

 外資系高級ホテルの宿泊はあおいの月給では到底無理だ。それだけでも毎回のお誘いには十分な魅力があった。

 都心の夜景と重なって高層階の窓にあおいの顔が映っている。

 おもしろいよね男の人って。何の後ろめたさもなく我が世の春を謳歌して上機嫌でいるのに、ばれたら途端に、お母さんに悪戯を見つかった子どもみたいに挙動不審になるの。おもしろいよね。

 旅行もしたし温泉にも一緒に行った。仕事が忙しいといつも云われた。かかってきた電話から洩れ聴こえてきた赤ちゃんの泣き声。夜間病院に連れて行ったほうがいいよと返答している彼の小声。妻子がいるの?

 レストルームから戻ってきた彼の顔にはいつもの笑顔が浮かんでいた。会社からの電話だったよ、あおいちゃんごめんね、独りにして。

 隣りに座った彼の左手を見た。指輪の跡はない。大きめに作っていれば分からない。

 あなたはわたしに「独身だよ」と云ったよね。

 大好きでした。キングオブ、クズ男。

 

 

 弧を描いた入り口から雫が落ちる。山が蓄えた水が行き場を失って湿度と苔をトンネルの内部に生んでいる。

「あおい、昨日のドラマ観た」

「観た。面白かった」

 中学に通う間、何度もこのトンネルを通った。反射テープのついたヘルメットをかぶって自転車に乗って、友だちと一緒に毎日。卒業してからまだ十年も経っていないのに、わたしはとんでもないことになっている。とんでもないことをしてしまった。

 赤ちゃんの泣き声が耳について離れない。顔も知らない母親が赤ちゃんを抱いている。若い母親は赤子がいつまでも泣き止まないことに動揺し、思い余って出張中の夫に電話をかけている。

 昨夜は雨が降った。蔦が絡んだガードレールがまだ濡れている。中学生だった頃のわたしが笑いながら、わたしの傍らを過ぎていく。自転車でトンネルの向こうの明るい世界に通っていた制服姿の少女は、ほんとうに今のわたしと同じわたしなの。

 山百合が濃厚に香っていた。雨の後はとくに香りが強い。

 わたしにも分かってる。「妻とは別れる」そんな言葉が履行される日はないことくらい。

 大好きなんだよ、あおいちゃん。別れたくない君と。

 そんな言葉に、まだ男の気持ちがあることを信じてしまうほど、わたしはもう子どもじゃない。

 でもあれは何だったの。年末にわたしのアパートに来て、「障子が破れているのが気になってたんだ」ホームセンターで揃えてきた用具で障子を張り替え、ついでにコンロを新品のように磨いてくれたあなたのあれは。あの器用さで、わたしと奥さんの両方にいい顔をして二股をかけていたんだね。

 社屋の屋上だった。制服のタイトスカートで脚を組んだ先輩はあおいの隣りで愛用のメンソールの煙草に火をつけた。

「奥さんが妊娠中にセフレにされていただけよ」

 ブリーチのし過ぎで傷んだ金茶色の髪に片耳ピアス。なりは元ヤンだが、社内でいちばん仕事ができるのもこの先輩だった。

 容赦なくそう云い切って、先輩はメンソールの煙を空に吐き出した。あおいも一本もらって吸ったことがあるが、人工的な薄荷の味がした。

「祖父は一週間で一カートン空けてたけど、九十五歳まで生きたわよ」

 田舎のヤンキー上がりの先輩は、三回続けてコピー機の紙の補充を人任せにしていた男性社員の胸倉を掴んで締め上げたという逸話の持ち主だ。

「いちばん駄目なのは、妻帯者であることを隠していたことよね。クズ男にありがちなんだけど浮気している間はクズ男なりに本気だったりするのよ。仮に奥さんと離婚してさ、あおいちゃんと結婚してごらん、そいつはまた外に女をつくるわよ」

 向こうには赤ちゃんがいるんです。

 あおいの言葉に「ほらごらん」と先輩は顔をしかめて、後ろ毛のあたりをかき上げた。片耳のピアスが光った。

「そういう男はもうそうなってんのよね、精神構造と下半身が。クズは捨ててさ、次にいこう次に。新しい男ができたら妻子のいる男なんて下水道に流れるわよ。お勉強になったと想ってさよならしましょ。想い切れないのは分かるわよ。その手の野郎はセックスだけは巧いんだよね」

 きっと先輩はわたしが自殺したと想ってる。

 自殺なんかするつもりはなかった。

 昔の通学路のトンネルの前でぼんやり立っていたら、崖下から変な女が跳んできて、わたしの腕を引っ張って真下に落としたのだ。

 ふしぎなのは、わたしは他の有象無象と一緒にトンネルの地縛霊になったのに、あの崖下の女の怨霊はトンネルの外にいることだ。

 無関係な女たちを道連れにしようというくらいのど根性がある幽霊だから、縄張りへのこだわりは強いのかもしれない。



 黄色い学童帽子をかぶった小学生がボランティアの老人に引率されて、山の中のトンネルを通り、和泉いずみたちの前を通り過ぎていった。隣接の小学校と中学校。中学は遠方からも生徒が通っているが、小学生は山のふもとの村の子たちだ。全校生徒をまとめた集団登下校。山の反対側の二つの村がダムの底に沈んだために、今となっては不便な場所に学校がある。近年流行のおしゃれな田舎暮らしとやらでこれでも廃校寸前のところから少しは人数が増えたという話だった。

 賑やかに子どもたちが坂を下っていった。

 トンネル内部はそこを通る子どもたちのために壁面が水色に塗られ、クレヨンで塗りつぶしたような白い雲と太陽と花が描かれていた。前はそんな壁画はなかった。それでもトンネルの中はまだ薄暗く見えた。

「みんなこっちを見て挨拶したぞ。田舎の小学生は素朴で可愛いなあ」

 山側に車を片寄せて、昌弘まさひろは運転していた車をトンネルの前で停めた。平日だが会社は有休をとっていた。

和泉いずみ、ここに車を停めても大丈夫なの」

「大丈夫。車なんかほとんど通らないから」

 雨上がりの山に百合が咲いていた。あの日と同じだ。山百合の季節だった。

「この白い花でかっ。赤い斑点が不気味」

「まー君、雑木林には蜘蛛がいるから気をつけて」

「百合の匂いで気分が悪くなったりしない? 大丈夫」

 昌弘が心配そうに訊く。「うん」と和泉は夫に笑顔を向けた。つわりのきついところはもう過ぎた。

 目立ちはじめたお腹を抱えるようにして和泉は助手席から降りた。

「車で待っててね」

「うちの親からもらった金でチャイルドシートとベビーカーを買うのでいいよね。ネットショップで機能を比較しておくよ」

 昌弘は手をふった。

 車から出た和泉は、トンネルに向かって伸びているガードレールに沿って歩いて行った。すぐに昌弘がスマフォを掲げながら車の窓から顔を出した。

「ねえ和泉、チャイルドシートにはISOFIXかシートベルトかの二つの固定方法があるけど、どっちがいいのかな。あと前向きと後ろ向きがあるみたい」

「気になるものを『お気に入り』か『買い物かご』に入れておいて」

 初産なのだ。和泉にも分からないことだらけだった。

「後で一緒に検討するから」

 雨上がりの道を、トンネルに向かって和泉は歩いて行った。

 


 ママ、来たよ。あそこにいるのが夫。わたしのお腹には赤ちゃんがいるの。

 和泉はガードレールの傍らに立ち、崖下に話しかけた。母の墓はあったが、母が死んだ場所に報告しに来たかった。

 ずっと来れなくて寂しかったよね。わたし結婚したんだよ。

 あれからわたしは、お父さんに引き取られて遠くに引っ越したの。

 お父さん?

 うん、やっぱりクズ男だった。でも今は歳をとってきたから昔のようにはいかないみたい。何処で何をしているのか、わたしはもう知らない。

 高校卒業と同時にわたしがお父さんの家を出るまでに、お父さんは何人かの女の人と付き合ってた。引っかける方法が「独身」から「死別」に変わってたけどね。これは嘘じゃないもんね。

 あの日と同じ、雨上がり。崖の下には白い百合が咲いている。やって来た和泉の姿を、トンネルの暗闇からあおいは見ていた。


 あなたが。

 あの人の娘さん。あの時の赤ちゃんね。

 大きくなったんだ。

 おばさん誰? って想うよね。わたしの姿はおばさんじゃなくて死んだあの時のままだけど、わたしが誰かなんて知らないほうがいい。

 和泉さんだっけ。

 お腹に赤ちゃんがいるのね。後ろの車にいるのが夫さん? 優しそうな人。浮気症の父親をもつと娘は同じような男に引っかかるとよく云われてるから、心配してた。

 逃げて、逃げて。

 こっちに来ないで。トンネルに近寄らないで。崖下を見ないで。

 あいつが現れるのは山百合が強く香るこんな日なの。どうしよう。また、香奈子さんの時のようになってしまったら。

 香奈子さんは成仏したのよね。魂がきれいだったのかな。わたしのように、罪深くない。

 お菊かお仙みたいな感じの人、崖下にいてちょうだい。彼女には手を出さないで。夫さん、奥さんを助けて。

 車の中の昌弘は俯いてネットショップを見ており、和泉の方を見ていなかった。あおいはトンネルから外には動けなかった。洞穴のような黒い眼であおいは叫んだ。

 誰か。

 誰か助けて。和泉さんを助けて。



 トンネルの向こうから女が運転する軽トラックがやって来た。和泉は軽トラに気がついた。停めてある車とすれ違えるだろうか。

 軽トラの荷台には子どもが何人か乗っていた。放課後の校庭で遊んでいたのだろう。

 トンネルを出てきた軽トラは行き過ぎようとしたが、一旦停まると、和泉の立つ場所までバックしてきた。

 軽トラックから、金茶の髪に片耳ピアスの痩せた女が降りてきた。女は車のドアを閉じると、長靴をはいた足で子どもたちのいる荷台を通り過ぎて、和泉の方に歩いて来た。

 運転席で熱心にスマフォを見ていた昌弘は顔をあげた。軽トラが和泉の前に停まっていて、元ヤンみたいな女が和泉に何か話しかけている。なんだ?

 車から降りて男がいることを見せたほうがいいだろうか。

 昌弘は開けていた車の窓から顔を突き出した。

 金茶色の髪をした女は和泉と並んで煙草を吸っていた。昌弘はむっとなった。妻が妊婦だと知りながらあんな近くで煙草を吸うなんて。

 痩せた女は、和泉がこちらを教えるのに合わせて、窓から顔を出している昌弘の方を振り向いた。

 女はしばらく和泉と昌弘を交互に見ていた。それからため息をつくと、吸い終わった煙草を携帯灰皿に仕舞いこみ、荷台の子どもたちに何か声をかけて、軽トラに戻って行った。

 女は運転席に座り、軽トラックを発進させた。

 昌弘は道幅を確かめた。ぎりぎりだ。こちらが山肌に乗り上げるか、いざとなれば運転を代わって軽トラを通してやろう。

 女の運転する軽トラックはとくに速度を落とすこともなくガードレールと昌弘の車のぎりぎりの合間を真っ直ぐに突っ切って坂を下っていった。

 和泉が車に戻ってきた。昌弘が迎えた。

「今の人と何かあったの?」

 助手席に戻った和泉はシートベルトをかけた。

「あそこで一服したかったみたい」

 金茶の髪の女はなぜかしきりに崖に向かって煙を吐き出し続けていた。「本格的に除霊が必要だなこりゃ」と呟いて軽トラに戻って行った。

「わたしがあんな処に立っているから、自殺すると想われたのかも」

 本当は、他にも女から別のことを訊かれていた。

 あおいちゃんの関係者?

 あおい。どこかで聴いたことがある気がする。和泉には想い出せなかった。

 あれが夫? ふぅん。

 その夫の昌弘は、ぼっちゃん育ちの人のいい顔をして、山道を去って行く軽トラックを振り返っていた。

「ああいう元ヤン風のおばさんの運転テクニックってすごいよね」

「チャイルドシート決まった?」

「それよりさ、これどうかな」

「何これ」

 和泉は呆れた声をあげた。

「まー君、気が早すぎる。まだ生まれてもいないのに」

 昌弘が差し向けたスマフォの画面には、女児向けの可愛いおもちゃがずらりと並んでいた。

「まさか買う気じゃないでしょうね」

「だって秋には生まれてるし、一歳の誕生日なんてすぐだよ」

「なんでもかんでも買い込むのは義母さんの遺伝子だわ絶対」

「女の子への贈り物にはこれが人気なんだって。ぽんちゃん人形。母性愛が育つらしい」

「ぽんちゃん。着せ替えと一緒に持ってた。まだ売ってたんだ」

 昌弘は画面の中の人形を和泉に見せながら、

「人形と赤ちゃんを並べて写真撮ってさ、弟か妹が生まれるまでは娘の成長をぽんちゃんとのツーショットで記録に残すのもいいよね」と相好を崩していた。

「女の子向けのブロックもあるんだよ。こっちは杖とマントがついた魔女セット。こんなの気に入ってくれるかな」

「買い物かごにいっぱい入れすぎ。昂奮しすぎ。生まれてからでも遅くないから」

「室内用のブランコも買っとく? 子どもがこれで遊ぶ日を早くみたいなぁ」

 ほんわりした顔でおもちゃの並んだ画面を昌弘は見つめていたが、でれでれするのをようやく止めると、「取引先から電話があったら渡して」スマフォを和泉の膝の上において、エンジンをかけた。

 何度か切り返し、来た道を戻るために車をトンネルの手前で反転させる。

「後ろを見ながら片手でハンドルを回す時に男の人が助手席に手を置くの、抱かれているみたいで、どきっとする」

「女の人はみんなそう云うよね」

 車を逆向きにすると、昌弘は手を伸ばしてバックミラーの角度を変えた。背後のトンネルが鏡に映らなくなる。

「どうしたの」

「この山百合、女の人みたいだなって。それにトンネルが黒眼に見える」

 和泉は窓の外に眼を向けた。確かにこんなに大きな百合はこの山でしか見たことがない。百合の香りがこんなに強く匂い立つのも雨上がりの山の中ならではだ。

「テントは買ってもいいよね。はやく遊園地やキャンプに親子で行きたいな」

「貯金もしないと。安全運転でお願い」

「子どもの為にばりばり働くよ」

 白い山百合が後ろに遠くなる。細い坂を下るにつれて血しぶきのような赤い斑点も黒いトンネルも消えていった。

「和泉のほうは冷房の直風あたってない? ちょっと寒いよね」

 昌弘は助手席の妻を気遣った。

「後ろにブランケットがあるよ」

「まー君、前を見て運転して」

「気分が悪くなったらすぐに云って。スーパーに寄って帰ろう」

「昌弘くん、ありがとう。今日ここに連れて来てくれて」

「結婚した時に誓ったとおり。和泉はお母さんの分まで幸せにならないとね」

 やりたい盛りの男が妻が妊娠中だからって禁慾する?

 莫迦いうな。

 着信履歴はいつ見られてもいいように、女の名を取引先の名に変えて登録してある。

 ばれなきゃいいんだよ。

「夜はハンバーグが食べたいな。俺が作るよ」

 昌弘はハンドルを握り、妻を乗せて坂道を下っていった。



[了]

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山ゆりの隧道 朝吹 @asabuki

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