山ゆりの隧道
朝吹
山ゆりの隧道 前篇
「トンネル付近の死亡事故は、幽霊がトンネルに吸い寄せられて地縛霊になりやすいんだってよ」
「やめろよ」
「そんな話を聴いたらもう一人ではここを通れない。責任とれ」
反射シールをつけた白いヘルメットをかぶった中学生たちが笑いながら自転車でトンネルを走り抜けて行った。そのすぐ後を、同じ中学に通う女子が自転車で通過する。
再びトンネルに静寂が戻った。山鳥の声がトンネルの入り口を掠めて過ぎる。主要幹線道路が近くに出来てから五十年経った。過疎地の古びたトンネルを利用するのは地元民だけで、車も滅多に通らない。
山肌を覆いつくすクヌギとコナラ。枝を伸ばした桜や木蓮の樹々が春には花をつけ、秋には路面に葉を落とす。山百合の咲く夏と、粉雪の舞う山奥の冬。
煉瓦でかためた半円の口を開いて、トンネルは通り過ぎる者を迎え入れてきた。
トンネルはいつも、暗かった。
どうしてわたしは生きているのだろう。
いや、死んでいるのか。
しかし、他の死者たちのようにすいっとこの世から消えていないことは確かなのだ。
圧迫されるような重量感とじめついた湿り気は幽霊にとっての好環境のようで、外がうららかな春の日差しにかがやき、山桜と若葉が明るい色を投げかけている季節であっても、トンネルの中には薄らぼけた亡霊が何をするわけでもなく立っている。
国民服というのだろうか、草木染めをしたブラウスにもんぺ姿の者もいるのだ。その者の謎は、トンネルを通過する中学生たちが解いてくれた。
「街を空襲した帰り道の米軍機がこの辺りに余った爆弾を落として、それで死んだ人が昔いるんだって」
わたしを含めた幽霊たちは生前の姿をほぼ留めている。眼窩の部分だけが黒い穴だ。眼玉は解け落ちてしまうのか、幽霊になると眼の部分はただの黒く穿たれた窪みになってしまう。埴輪のような顔になるのだ。
わたしは何故ここにいるのだろう。生きている間は何をしていたのだろう。
分からない。いや、憶えている。うん、そう、ちゃんと憶えているようだ。
自転車のベルがした。今日もまたトンネルの中の灯りの下を中学生が通学していく。反響音が面白いのか、むやみやたらと彼らはトンネルの中で自転車のベルを鳴らすのだ。ちゃりんちゃりん。
わたしは。
中学生だった。
「
女の声がした。
「わかってるぅ」
少女が応えている。わたしの口が勝手に動く、少女と一緒に。
「でもママ、こんなところに車なんか通らないよ」
愕くほど大きな百合だった。茎の高さが中学二年生の
百合の濃い香りが雨上がりの山に漂っていた。六枚に広がっている白い花びらの内側には、中央に黄色い筋がある。筋の周囲には花の白を染めるように紅色の小さな斑点が散っていた。
血しぶきみたい。
和泉は顔を近づけて、雨の雫に濡れている百合の匂いをかいだ。南国の花のように甘いが、鼻の奥がつんとするような山の匂いも同時に強くする。山百合ってこんなに大きな花なんだ。
「来てママ、見て」
「なに。山百合よね」
「違う違う。こっちを見て」
山百合にも愕いたが、その奥の雑木林に広がっているものに和泉は悲鳴を上げていた。
「見てママ。すごい蜘蛛の巣」
樹から樹へ、ぎっしりと巨大な蜘蛛の巣があった。朝に降った雨の粒が粉ガラスをふきつけたように蜘蛛の巣の糸に連なって、蜘蛛の糸は水あめ細工でつくった網のように空中に浮いている。そしてそこには、八本の脚を伸ばすこれまた途轍もなく大きな蜘蛛が何匹もいるのだ。
「うわー気持ち悪い」
「だから車にいなさいと云ったのに」
「なんでこんなところで車を止めたの」
蜘蛛に追われでもするかのように和泉は慌てて車に戻ってきた。大急ぎで助手席に滑り込む。山のトンネルの前だった。
「知り合いがここで亡くなったのよ。もうすぐ十三回忌だから、お花とお線香を供えようと想って」
「このトンネルの前で十三年前に死んだの? 誰が」
車の助手席から首をのばして和泉は正面のトンネルを見ていた。和泉はすっかり大きくなった。助手席に据え付けたチャイルドシートに幼児の和泉を乗せていたことをつい昨日のことのように想い出す。母の香奈子は想い出の中の小さな和泉と、中学二年生になった今の和泉とを見比べた。
ごめんね、ごめんね、和泉。
ママ、パパと離婚しちゃった。あなたのパパと離婚しちゃった。
香奈子はあの日、泣きながら運転していた。
和泉をパパのいない子にしちゃった。
でもママはそうするしかなかったの。
香奈子は後部座席に置いてある大きな鞄を取った。幼い頃の娘の想い出がたくさんあるこの車。なかなか踏ん切りがつかなかったが車も消耗品だ。次の車検が来る前にこの車も買い替えよう。中古でいいのがないか近くのディーラーに問い合わせてみよう。
「ここで死んだの? トンネルの前で」娘の和泉が興味津々に訊く。
「そう」
「事故で?」
「跳び下り自殺」
「なにそれ怖いんだけど」
和泉は大げさに身を引いた。
「その人とママとはどういう関係」
「ママではなく、あなたのパパと関係があった人。関連子会社にいた人で、あおいさんというの」
「それ、わたしが聴いてもいい話」
「云えるところはね」
香奈子は用意してきたビニール袋を取り出すと運転席側のドアを開けた。車の屋根から雨の名残りの雫が路上に落ちる。
「お線香で山火事にならないかな」
「大丈夫よ」
袋の中には水を入れた水筒も入っている。拝み終わったら、すぐに消すつもりだった。
「ママ知ってる? 幽霊は煙が嫌いなんだって」
「そう」
「ホラー漫画に描いてあった。怪奇現象が起こったら、落ち着いて煙草を吸えばいいんだって」
この喫煙者冷遇時代に、そう都合よく煙草を持ってる人がいるものだろうか。
「和泉は車で待っててね」
香奈子はトンネルに向かって歩いて行った。
車に残された和泉は、母の香奈子がトンネルの手前のガードレールに身をかがめ、線香と花を用意しているのを車から見ていた。はじめて知る父親の過去には興味がなかった。若い頃の写真でしか知らないが「かっこいいね」と和泉の眼にもそう映った父親。妻子を捨てたカス男。
あおいさんという人と父は不倫をしていたのだろう。キング・オブ・クズ男らしく、妻と乳児の娘がいながら浮気をしたのだ。母の香奈子は離婚後、建築事務所の事務をしながら女手ひとつで和泉を育ててくれた。
昨日観ていた人情もののドラマに出てきたセリフを和泉は想い返した。
「浮気性の父親をもつと、娘が女癖の悪い変な男にひっかかる」
そんなことにはなりませんって。
和泉はサイドミラーを見ながら前髪をなおした。ママが離婚してくれたお蔭で、悪い見本が近くにいたわけじゃないからね。高校を卒業したらわたしはすぐに結婚するつもり。早く家庭をもって、ママに安心してもらいたいな。
道端で線香の準備をしていた香奈子が小走りに戻って来た。手招いている。和泉は運転席の下にライターが落ちていることに気が付いた。
助手席の窓から和泉は顔を出した。
「ママ、ライターでしょ。お線香に使うライター。運転席の下に落ちてるよ」
「和泉、来て。ちょっと来て」
香奈子が和泉を呼ぶ声がトンネルの中に吸い込まれるようにして響いていった。香奈子は背後にあるトンネルの黒い空間をすぐ近くに感じた。
死んでくれて良かったわ、あおいさん。
あの時はそう想った。娘にはとても云えないけれど、あれほど誰かが死んで当然だと想ったことはない。
妻と赤ちゃんがいることを、あなたは知っていたの?
知っていて人の夫を寝盗ったの?
ここで自殺したあなたに、わたしは今でも訊いてみたい。
「どうしたのママ」
「あれを見て」
香奈子は車から出てきた和泉に、トンネル脇の崖下を指さした。ガードレールから身を乗り出してみると、雑木林と蔦に覆われたはるか下の斜面に女が倒れているのが見えた。
「うそっ」
「やっぱりそうよね。人形じゃないわよね」
「落ちたんだ。動いてる。生きてるよ。ママ、警察と救急車」
「それが電波が山の中だから届かないみたい」
香奈子は焦りながらいろんな方角にスマフォを向けたが、電波の反応はゼロのままだった。香奈子と和泉は崖下の女に大声で呼び掛けた。
「待っていて下さい。助けを呼んで来ます」
女は派手な薔薇模様の服を着ているようにみえたが、あれは白い服に滲み出た血だ。
転落した女は切立った斜面に手をかけて、緩慢な動きで、這い上がってこようとしていた。
「動かないで下さい。雨の後で土が崩れて危ないです。和泉、車で下まで行こう」
「ママ、わたしのスマフォなら通じるかもしれない」
和泉が鍵をもって車に走って行った。香奈子はもう一度崖下を見た。なにか様子が変だった。
白い服とみえたものは、着物の下に身に着ける肌襦袢に見えた。ゆかたなのかも知れないが。そして長い髪を振り乱した女の腹から背中にかけて、槍のようなものが刺さっている。貫通してるようだ。
「やっぱり電波が届かない」
車のそばで和泉がこちらに背中を向けて叫んでいた。
「和泉……」
足許が急激に冷えた。香奈子は後ずさった。肩を叩かれた。香奈子が振り返ると槍の刺さった血まみれの女が立っていた。
和泉が車から戻って来ると、香奈子の姿はトンネルの前から消えていた。
「ママ」
やがて母を呼ぶ和泉の声が山にこだました。和泉は、崖下に転落して死んでいる母の姿を見出したのだ。
香奈子は女を助けようとして誤って転落したということになった。香奈子と和泉が目撃した女の姿は消えており、崖下を調べても何も出てこなかった。
ふもとの村人は声を潜めて囁き合った。
ほら、大昔に野武士に付きまとわれた挙句に山に逃げ込んだところを槍で刺されて死んだ若い女がいて、あそこは『出る』って噂だったよ。あの山に咲く大輪の百合の花びらにある赤い斑点は、その時に飛び散った女の血だって。
昔からいわれてたよ、百合の咲く雨の降る日は、あそこは近づくなって。
今日も山には雨が降っていた。雨には花の匂いがついていた。
》後篇へ
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