君の名をよぶ時

※完全なネタバレなので、本編読了後にお読みください



 初めてその存在に触れたのは漫画の中だった。
 萩尾望都「マージナル」に出てきたその人はmale(男)として生きていた。
 maleには幼馴染の女性がいた。彼らは愛し合っていたが、投与された薬によって肉体がfemale(女)化してしまったmaleは彼女との別れを決意する。
 彼の態度の豹変が幼馴染には理解できなかった。幼馴染は心を痛めるのだが、気位の高さからその気持ちを表に出すことはない。以後、彼女は厭味な態度でmaleに接するようになる。
 femaleの特徴を隠しながら、彼はその後も冷徹で有能なmaleとして仕事に埋没し、彼女のことを想いながらmaleのまま死ぬ。

 トランスジェンダーが今のように上辺だけの流行になるはるか前、調べると「マージナル」が描かれたのは1985だ。
 手塚治虫「リボンの騎士」ですら元祖ではなく、見かけと中身の性別が違う人物は古代からずっと物語の中に顔を出してきた。
 男だと信じてきって育った男装の麗人が白馬に乗って革命に身を投じる池田理代子「ベルサイユのばら」にいたっては、本場フランスの外交官ですら「ベルばら」を読んで自国の歴史を学ぶというほどの骨太な歴史漫画の魅力を有し時代を超えた少女漫画の金字塔となっている。
 今も昔も、外観と性別が一致しないキャラ立ては、創作物の中でひじょうに魅力的なのだ。

 ひるがえって、現実のジェンダーたちは、自らのことを魅力的だと自負しているだろうか。
 芸能人のようにある種のカリスマとなりうる舞台があればその役にすすんで興じるかもしれないが、私たちと同じ市民感覚を持ち、私たちとおなじ日常の中にいる彼らの大半は、黙って静かに暮らしていることだろう。
「解放されたおしゃれなジェンダーとして自由に往来を練り歩く」そんな派手なイベントとは無縁に、目立つことを避けているはずだ。


 主役は、female(女)として生きている。
 思春期をfemaleとして過ごすうちに、FtMはある少女に恋心を抱くようになる。
 femaleならば、生涯の親友に。
 maleならば、彼女を恋人に、そして妻に。
 しかしそのどちらも叶わない。
 Female to Мale=トランス男性。肉体こそfemaleだが、心と脳はmaleのものとして存在しているからだ。

 いくら時代が進んでもFtMを抵抗なく受け入れてくれる相手は稀だろう。じゃれあっている親友が、実は中身は男で、男の眼で自分のことを見ていたと知ったら、たいていの女性は愕いて怯むはずだ。
 せいぜいが、「お友だちのままでいて頂戴」ではないだろうか。
 FtMは彼女の倖せを風のたよりに聴きながら、彼女の前から姿を消して、隠れるように独りで生きることを選ぶ。


 時は流れてFtMは老境にある。老いと共に男らしさ女らしさの呪縛から解き放たれて、今はおじいさんなのかおばあさんなのかよく分からない外観だ。従って誰はばかることなく、maleの口調で生きている。
 すでに肉親は死に絶え、大きな家に独りで暮らしているFtMは小説家として細々と生計を立てながらその朝、彼女の訃報を知るのだ。

 おそらくこの時にFtMは、歩いてきたその特異な人生にピリオドを告げる声を聴いただろう。
 人生の終盤にあって今いちど忘れえぬ人のことを回想し、その人が彼岸に逝ってしまったことをもって、人生を覆いつくしてきたFtMの悔いも苦悩も未練も終わる。
 異形である負い目を最初に教え、そして引け目と後悔をFtMに突き付け続けてきたのは、彼女の存在があればこそだったのだから。

 明るい色と艶のある花びら。チューリップを選んでFtMは墓参りに向かう。想い出の中の彼女のような若々しい花を墓前に供えて、ここでFtMは初めてmaleとして告白めいたものを口にする。
 その帰り道、路上の譲渡会でFtMは老齢の白猫を見出す。
 誰も顧みない老猫を引き取ってやりたいのだが、独り暮らしでは飼うことができない。
 猫を諦めたFtMの前に、紅茶と菓子を差し出す若者とそのパートナーが現れる。彼らはmaleとmaleとして愛し合う同性愛者だった。
 親が遺した大きな家に独りで暮らしているFtMのもとに、老猫と、二人のmaleが同居するところでこの物語は終わる。

 同性愛者と老猫、世の中が敬遠するものを懐に受け入れることで、人並みの倖せから爪はじきにされてきたFtMは無意識のうちに自らのその性と人生を受け入れ、肯定する側に回る。
 背を向けていた側から迎え入れる側に立ったことで、過去に味わってきた苦悩は他者にむけての慈愛に変化する。
 引き取った猫はずっとそうであったかのように老人の傍らにある。
 まぼろしの伴侶として想い続けてきたその名。
 彼の許にやってきた白猫の名を彼は呼ぶ。
 その名をようやく彼は、愛する男としての想いをこめて正面から呼ぶことができるようになったのだ。



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