ちから

 宮本輝の初期の短篇に、よく似たものがある。
 小学校にあがった男の子の初登校を、その父親が無事に学校に辿り着けるかどうか、男の子に見つからないようにこっそり隠れて後をつけているという話だ。

 雨の日のお迎えと共に、この逸話、思いあたる人は大勢いるだろう。
 ある人は子どもの頃の記憶の中に。
 ある人は親になってから我が子に対して。

 宮本氏のこの短篇、題名が「力」であったように記憶している。
 調べたらやはりそうだった。

 なにげない、こんな小さなことが、その人間の生涯にわたってその者を人間たらしめる。
 盗みや殺しや、自暴自棄になった時に、後ろからそっと後をつけていた親のことを想い出し、決行を思いとどまることもあるだろう。

 実はこの「力」、なんということのない短篇で、初読の時には拍子抜けしたものだ。
 しかしどうかすると、真新しいランドセルを背負った男の子が、自分ひとりでもちゃんと学校に行けると親に宣言して意気揚々と玄関を出ていく背中と、その後ろ姿を物陰に隠れて追いながら、何ともいえない父性あふれる笑みを浮かべて見守っている父親の姿がふとした時に脳裏に浮かぶのだ。

 ぴかぴかのランドセルを背負った幼い我が子に隠れて学校までついて行ってしまう父親は、同じような想い出を親と持っていたか、たとえ無くとも普遍的な親の感情により、ついそうしてしまうのだ。

 寄り道していないか。
 学校までの道がちゃんと分かるか。
 新しい靴で転んだりしないか。

 そんな、ふんだんに込められた親心は、ふしぎと子どもの心の中にも親視点の感情のままに蓄積されていく。

 雨の日の、粘土くさいような小学校の匂いと湿った廊下。
 この話が実話なのかどうかは、読者にはどうでもいいことだ。
 我が子に傘を届けにくる親を横目に、どうせ誰も来ないと独りで帰りはじめた主人公の前に現れてくれたお迎えは、傘ではなく雨合羽だった。
 孫娘を迎えにきた祖父は畑から直行したので傘はない。しかし背中におぶさって二人で合羽を羽織れば、二人とも濡れることはない。
 そして祖父はなんとなく得意げだ。

 きっと作中のこの祖父も、幼い頃にそうやって親か祖父母に背負われたことがあったのではないだろうか。古くは合羽ではなく蓑だったかもしれない。
 雨の日の想い出を幼い孫と分かち合えることに胸を温かくしていたのは祖父本人ではなかったか。

 冒頭に出てくる北の山はまるで指針を示す北極星のようだ。
 この物語は私たちの中に親から子へと受け継がれていく、天川版「力」である。


 ※強いて難をあげるなら、題名は「雨合羽」がよかった。。
(※末尾の。。は参加した自主企画の指示による)