雨想、貴貧

天川

雨合羽

 遠くに見ゆるお山は、私の住む集落から見ればほぼ真北に据わっている。その姿は、昔から集落の外働きの手の者たちが天の気を占うしるべとなっていた。


 されども、あの山は実はそれほど遠くにあるわけではない。大人の足なら一刻半もあれば容易く麓にたどり着く、それくらいの隔たりだ。

 しかし、隣の地区に住む者も、そのまた隣の村の者も、あのお山は我らが集落からこそ北にあるのだと云い、頑として譲らない。見る場所が変わればお山の相対あいたいする方角とて変わるだろうに。可笑しなことだが、そこには誰も触れようとはしない。お山とは、信仰の証……いや、もっと身近で偉大な──親のような存在であり、それは常に北に御座おわすものなのだろうと思う。


 その、何処から見ても常に北に在るというお山の頂きのそのまた上に、ねずみ色をした厚い雲がかかり始めていた。天気が変わる兆しである。今はまだ山容がはっきりとしているが、これが霞の向こうに隠れ始め姿を消したら、いよいよだ。

 野良仕事をする者も土方も、洗濯を片付けるかしきの者も、皆こぞって慌ただしくなる。お山が雨に濡れ始めたならじきにここにもその湿りはやってくる。

 ひょおぅ……っと、一陣の波のような壁のような空気の塊が、絶え間なく流れてくる。吹き付けるのではない、お山からのだ。


 この日の、天の雫の窓帷は音も無くやってきた。

 しゃあ、しゃあ……と。

 まるで、じょうろの水を掛けているような柔らかで静かなその幕は、外に干してある洗濯物を濡らしていた。

 私は外に駆け出し、乾きかけたものを余計に濡らさぬように胸に抱いて住まいへ駆け込む。

 

 その中に、雨合羽が一揃い混じっていた。


 父が草刈りに使って汚れていたため、洗って干していたものだ。

 その、ビニルを吹き付けたような生地をそっと嗅いで、私は記憶の扉を自ら開けていく……。


 …………………

 

 小学校の時分、雨脚が強まる予報がありその日の学業は時を待たずに終いとなった事があった。

 各々の家庭に連絡が行き渡り……遠くの子は家人が車で迎えに来ている家もあった。近くの家の子は、華やかな色を纏った傘を持った母親が迎えにやって来て手を振り、我が子を呼んでいる。

 その親子たちの姿を、なんとは無しに見つめながら時間をやり過ごす。迎えなど来るあてのない自分にとって、それらは遠い世界のおはなしだ。こんな雨でも働かなければ生きていけない、いつもそう言っていた父と祖母の言葉が、常に私を律していた。

 そうしてしばらく教室で過ごしてから、そろそろ私も帰ろうかと昇降口へ向かった。雨を含んで土の匂いを増した下足置き場は、既に多くの足跡で斑に濡れていた。

 なるべく最後に出ようとしたのだが、あいにくのんびりとした子たちが数人残っているようだ。そんな子たちの気配を鬱陶しく思いながら、外履きに履き替え外に出た私は、軒下を伝って学校の敷地を抜けようとしていた。

 こそこそと、見つからないように壁伝いに歩く私の横をどこの家のものともしれない車が泥水を跳ねながら通り過ぎていく。

 やがて、校舎の軒も無くなり諦めて雨中に踏み出そうとしたところで……呼び止められた。


 紺色に緑を混ぜたような色の雨合羽に身を包んだ、祖父の姿。


 いそがしかっただろうに、それでも迎えに来てくれたことが嬉しかった。しかし、畑から直に来たため傘などは持っていない。私は、祖父の気持ちを思い申し訳なくなった。きっと、合羽を脱いで私に着せてくれることだろう……と。


 果たして、祖父は合羽を脱ぎ私にかぶせた。

 私は、首を横に振った。

 大丈夫、と。


 すると、祖父はにこりとわらって、それから私に背を向け屈んだ。

「おぶさってみれ、そのままでえぇがら」

 私は、合羽を雑に被ったまま祖父の背中におぶさった。

 すると、祖父は二人羽織のように、するりと袖に腕を通し、そのまま合羽を着込んで身体の小さい私を背中で包んでくれた。

 私は驚いて祖父を見ると、祖父も得意げに私を見て微笑んでいた。

 ぽん、と背中を軽く跳ねた祖父に合わせて、私は首に腕を回してしがみつき合羽の隙間から頭をのぞかせる。お尻にはたくましい腕が沿えられて落ちる心配もない。


 ゆさゆさと、背中で揺られながら……私は祖父の横顔と、ざあざあと音を立てる砂利まじりの道を征く。その脇をまた一台、どこかの家の車が水しぶきを上げながら通り過ぎていくのが見えた。

 遠くには、薄っすらと雲の向こうにお山の姿が見て取れる。

「あぁ……こりゃ、じきに晴れるなぁ」

 遠くなる赤い光の向こうのお山を見つめながら、私は小さく頷いて、じいちゃんの首に回した腕に、ほんの少し力を込めた。

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雨想、貴貧 天川 @amakawa808

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