第3話 〜葉山沙織 side〜

 本当は、少し前から聞こえていた。

 落ち込んだ時の優の癖。耳栓と目隠し。社会人になって、耳栓はノイズキャンセリング付きのヘッドホンへとアップグレードしたらしい。


 ……というかあのロゴ、最低価格10万超えのハイブランドじゃなかったか?

 音楽も大して聴かないくせに、あんなもの買ったのか。随分と高級な耳栓だ。


 ……苦しい、か。

 一体何を抱えているのやら。

 私と優は友人だ。それも、かなり親しい、と私は思っている。

 だが、残念ながら、そこには2年間の空白がある。

 文字でのやりとりはあった。けれど、空白は空白だ。


 この2年、私はあいつの心に踏み込めていない。


 何かあったのかもしれないし、なかったのかもしれない。

 それすら判断がつかない。


 わからないのだ。知らないから。

 途切れ途切れのチャットは、心配しても、「大丈夫」の言葉しか返ってこなかった。SNSもほとんど更新がなかったし、過去に交流があった人たちに聞いても会えていないという。


 だとしたら、今の状況で行う推測は、邪推の域を出ないだろう。

 心遣いは大切だ。

 だが、境界線はどこかで引かなくてはならない。


 必要があれば、優から話してくれる。そのくらいの信頼関係はあると自負している。

 だから今は待とう。

 優の方から求めてくれるまで。私はただ、その時に受け入れれば良い。

 この辺りが、妥当なラインだ。


 そっと優に近づき、肩を軽く叩く。

 自分の世界に入り込んでいたのだろう。びくりと体を震わせて顔を上げた優に、そっと微笑みかける。

 目尻に浮かんだ涙は、見ないふりをした。


「お風呂出たよ。入ってきな」


 優は何度か瞬きを繰り返す。ややあって表情を整えると、こくりと小さく頷いた。


「あ……うん。わかった」


「バスタオルはそこにある。シャンプーやボディソープは好きに使ってくれて構わない。スキンケアも、最低限だが揃っている。以前、優が薦めてくれたブランドだ。ハズレはないだろう」


「ありがとう。貴重品と着替えしか持ってきてなかったから、すごく助かる」


 床に置かれたスポーツバッグは、そこそこの大きさがある。普通に旅行に行くには問題ない程度だが、家出には足りなさそうだ。


「じゃ、じゃあ、その。失礼します」


 タオル類や着替え一式を抱え、優はシャワールームへと入っていく。

 パタンと扉が閉じられた。


「……ふむ」


 すっと視線をスポーツバッグへと向ける。

 友人とはいえ、荷物を漁るのはマナー違反だ。とはいえ、見えてしまうのは仕方がない。事故の範囲だ。

 開いたファスナーの隙間からは、微妙に揃っていない衣類が覗いている。


(本当に、雑に詰め込んだ、という印象だな)


 先ほど抱えていった下着セットも、セットが揃っていなかった。

 パッと手に取ったものを着る、私に似た行動の痕跡。

 そもそも、あの優が、スキンケアやら化粧品やらを持ってこないということ自体が引っかかる。


(きちんと準備する時間がなかった、ということか)


 もっと言ってしまえば、事前にチャットのひとつも飛ばせなかったわけだ。


「心の準備だけは、しておくべきだな」


 結論としては変わらない。

 私に、優を助けないという選択肢は、ない。

 だが、事情を知らないものがしゃしゃり出ても、良い結果に終わることはまずないと言っていい。事態をかき回すのは、いつだって無能な働き者だ。

 だから、優に助けを求められたときに、すぐに応えられるようにしておく。

 それが私のするべき選択だろう。


「……仕事を、片付けねば」


 はあ、とため息。

 その最大の障害は、私が一般にと呼ばれる人種であることだろうか。

 端的に言って時間がない。

 始発で出社し終電で帰宅する、そんな日々が常態化している。


 仕事は別に苦ではないから、これまでは気にしていなかった。

 けれど、やらなくてはならないことができてしまうと、なんというか、困る。

 時間がない。


「……うーん」


 一瞬、視線が泳ぐ。

 向かう先は、PCが入ったビジネスバッグだ。

 今からやれば、多少は早く帰れるだろうか……そんな思考が過るが、すぐに思いとどまった。

 仕事は終わるもの、なんて勘違いは入社3ヶ月で捨て去った。仕事は終わらない。会社か上司が変わらない限りにおいて。


「私に人事権があれば一発で解決なのだが」


 社長を更迭すれば、多少はマシになるだろうか。

 ……まあ、夢物語だ。

 というか、こんなことを言っていると、人事の仕事まで回されかねない。

 出張三昧は勘弁である。


「明日の私に期待、だな」


 うん、それが良い。

 仕事について嘆くよりも、今はやらねばならぬことがある。

 押入れの扉を開き、中を確認する。埃を被った冬用の毛布を取り出して、ベランダへと向かう。

 バサバサと叩くと、埃がブワッと舞い上がった。


「ゴホッ、すごい埃だ。……さて、どうするか」


 自室に客人を迎え、泊まっていくという。

 私の部屋にベッドはひとつ。掛け布団は、かろうじて二組ある。


 普通に考えれば、客人にベッドを使わせるのが道理だ。まさか、優を床で眠らせるわけにもいくまい。

 それは良い。


 だがちょっと待て。

 ……シーツを洗ったの、いつだった?

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