第8話

 ちびちびとコーヒーを飲み干したあとは、ゴロゴロしながらスマホをいじったり、音楽を聴いたり動画を見たり、流行りのゲームをやってみたりしたのだけれど。


「——つまんないなあ」


 寝返りを打ち、ポイとスマホを投げ出した。

 何かと不自由な汐留での生活を投げ捨てて、ようやく手にした自由。やってみたかった自堕落な生活は、まるで味のしないガムを噛んでいるようだ。


 けれどまあ、それも仕方のないことかもしれない。


 何せ、最初に手にした果実が甘すぎた。

 隣に沙織ちゃんがいる。その幸せを一晩たっぷりと味わってしまったが故に、彼女がいないだけで何もかもどうでも良くなってしまう。

 スマホどころか、トップアーティストのリサイタルだって、一人で鑑賞していてはただの雑音ノイズにしかなりはしない。


 というか。


「そもそも私は、不自由が嫌で飛び出したわけじゃないしなぁ」


 ぼやき。


「不自由って言うなら、質が違うだけで今の方が不自由だし。……主に金銭的にだけど」


 時間はあるけどね。

 ころりと寝返り。


「私が欲しかったのは……」


 目を閉じれば即座に浮かぶ光景。

 全てが色褪せた世界の中、たった二つだけ色彩に溢れた瞳——


 ピコン、と電子音。

 ベッドに放り出されたスマホに浮かぶのは、今まさに思い浮かべた人物の名前だった。


「沙織ちゃん!?」


 ぐん、と気分が急上昇する。

 ああ、なんて私は単純なんだろう。ずっと退屈だったのに、たった一通のメッセージで、こんなにも楽しくなるなんて。

 どこまでも、沙織ちゃんは甘い。

 その甘美な甘さは麻薬のようで、漂ってくる匂いだけで、私の脳髄をくらりと痺れさせるのだ。


 画面をスワイプしてメッセージを確認する。

 その内容に、私の心に幸せが溢れてくる。




『今日は意外にも早く帰れそうだ。

 ……いや、本当に意外なのだけど、定時に上がれると思う。

 18時ごろには帰れると思うのだけど、食事でも行かないか?』




 時刻は14時手前。お昼休憩は確実に終わっている。


 沙織ちゃんは責任感が強いから、本来なら仕事中にスマホを弄ったりはしないはずだ。

 大学の時だって、講義中は雑談ひとつしなかった。

 そんな沙織ちゃんから、メッセージが来た。

 仕事中に!


「えへへ……」


 顔がだらしなく緩む。

 きっと今の私は、誰にも見せられないような情けない表情を浮かべていることだろう。

 それでも、心が沸き立ってしょうがない。

 幸福感が処理しきれなくて、思わず足をパタパタさせた。


「……そうだ!」


 良いことを思いついた。

 ゆるい感じのキャラクターが可愛らしく『OK!』とプラカードを掲げているスタンプを送ると、即座に既読がつく。


 冷蔵庫に突進して手早く中身を確認。

 いっそ笑えるくらいに何もなかった。

 外出用のワンピースを手に取って、気合いをいれる。


「サプライズで、おもてなししちゃうんだから!」


 

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