第9話 〜葉山沙織 side〜
なんだ、このスタンプ。
メッセージアプリのトーク画面に表示されたそれに、思わず笑みが漏れる。
ひと昔前のお化け、いやおばけのような、頭から白いシーツのようなものを被った2頭身のキャラクターが、つぶらな瞳で『OK!』のプラカードを掲げたイラスト。
イラストレーターは一体何を思ってこの絵を描いたのか。
優は、何を思ってこのスタンプを購入したのか。
不思議だ。
「全く。優の独特のセンスは健在だな」
大学を卒業して以来、優とはしばらく連絡を取れていなかったから、このスタンプを見るのも実に2年ぶりだ。
懐かしくはあるが、別に見たかったわけではない。だが懐かしい。
なんとも妙な感傷に浸っていると、ピシリと角が揃った書類の束を持ってきた
「センパイ、こっち終わったっす! チェックお願いしまーっす!」
「ああ、了解」
見やすいように順番が整えられ、通し番号まで振られた書類に、思わず眉を顰める。
「……何か不手際があったっすか?」
「逆だ。完璧すぎる。どうした? お前、いつもはもっと大雑把だろうに」
いつもの花の仕事は、正直に言って雑だ。
内容は割りかしきちんとしているのだが、説明が順序立っていなかったり、使っているグラフの種類が目的に沿っていなかったりする。
それはまあ、社会人歴2年目の若手と考えれば受け入れられるが、一応上司というか、
そんな花が、数分かけてじっくりと目を通してなお、完璧と言って申し分ない提出物を持ってきた。
ありがたさとか感動よりも先に、心配が先立つ。
「えへへ。今日は気合い入れたっす! センパイに定時で上がってもらうって決めましたからね!」
「……いつもそれをやってくれれば、普段からもう少し早く帰れるんだが?」
「それはないっす」
真顔だった。
それはもう、渾身のギャグが思いっきりスベッた時のお笑い芸人のような、見事な見事な真顔だった。
「いや、しかし」
「センパイは仕事が減ったら、その分どっかから仕事を引っ張ってくるっす。もしくは上司が仕事を押し付けてくるっす。仕事は終わらないっす、会社か上司が変わらない限りにおいて」
「…………」
言ったなあ、それ。一時期口癖になっていた。花の前で初めて言ったのは、確か教育係になって最初の飲みの席だった。
……初飲みの席でこれを言うとか、私ヤバいやつでは?
「とりあえず、私のことは良い。
普段からこのクオリティで上げてくれれば、簡単に昇格の推薦が出せるんだが」
「あ、いらないっす」
笑顔でバッサリ。
見事な一刀両断だった。
「……一応聞く。何故だ?」
「昇格するってことはセンパイみたいになるんすよね? 無理っす」
「ぐはっ」
これは、流石に……。
擁護のしようがないのはそうなのだが、それ以上にこう、胸に刺さるな……。
どよんとした空気を感じ取ったのか、花が慌てて弁明する。
「いや、センパイが嫌ってわけじゃないんすよ!? ただ、私程度の実力で、センパイほどの仕事をこなすのは無理っていうか」
「ああ、分かっている、分かっているから……」
つまり、私が社畜なのが原因なわけだ。
私が社畜の現状に甘んじていたから、実は有能だった後輩の給料を上げられない。
「私、社畜辞めるわ……」
「ちょ!? ……いや、よく考えたら良いことなんすけど、
チラチラと逸れる花の視線を受け流し、ため息を一つ。
上司も経営陣もクソで、金払いが良いのだけが取り柄のこの会社。そこで出世したくないと言わせてしまったのは私の不徳である。
少しだけ凹んだまま話を切り上げようとする私に、花は笑顔で告げる。
「まあ、その。会社のために頑張ろうって気にはならないっすね! センパイのためなら頑張るっす!」
「それを会社で言うな……!」
嬉しいけども!
◇◆◇
そんなことがあって、私はそのまま定時で会社を後にした。
夜になる前に社外にいるなんていつぶりだろうか。しかも今日は、家に帰れば優がいる。
ちょっとテンションが高いまま家に着く。
「…………ふぅ」
なぜか、ちょっと緊張するな。
自分の中にある、そわそわとした感情にちょっと苦笑い。遠足の前の日の児童のような、浮足だった感覚。
「ただい、ま……?」
「ぉ、お帰りなさい! ごごごごご飯にする? お風呂にするッ? それともぉ……!!!!」
顔を真っ赤にして叫ぶ優に、申し訳ないけどドン引きした。
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