親友と同居することになった

第5話 〜葉山沙織 side〜

 ピピピピピ。

 ベッド脇のスマホから鳴る、無機質な電子音。

 スマホのデジタル画面が指し示すのは、いつもの朝の時間。

 いつも通りでないことは、隣にある温もりか。


「んぅ……」


 あどけない寝顔。

 警戒心などまるでない、安心しきった顔だった。なんならよだれも垂れている。

 布団が汚れそうだ。そっと唇を指で拭う。


「……起こすのは忍びない、か」


 ゆっくりとベッドから抜け出す。

 音を立てないように気をつけて。せっかく眠っている優を起こさないように。

 立ち上がると、ワンピースタイプのルームウェアが、暖房の風にゆるりと揺れた。

 いつものようにスイッチを切ろうとして、思い直す。

 最近は日が昇っても肌寒い時間が続く。優が起きてから切ってもらえば良いだろう。ずっと家にいるのなら付けっぱなしでもいい。幸い、暖房代くらいであれこれ言うような稼ぎではない。


「ん……」


 軽く伸びをする。

 やはり、シングルベッドに二人で寝るのは狭かったらしい。固まった体がポキポキと音を立ててほぐれていく。

 洗面台へと移動し、冷水で顔を洗うと、眠気がさっぱりと消えていった。


 朝はコーヒーを飲むのが私の日課だ。

 冷蔵庫の野菜室に仕舞っている豆の粉末を取り出す。週末にミルで挽いたものだから、インスタントのものよりも香りが強い。

 マンデリンの香ばしい香りが鼻腔をくすぐる。

 ドリッパーにコーヒーフィルターをセットし、豆は計量スプーンに二杯分。


 ……優は、飲むだろうか。

 優が、コーヒーが好きと言う話は、聞いた記憶はない。お茶をした時も、いつも高校生が好んで飲みそうなものだった。飲んでも、ラテやモカが多かった記憶がある。

 だが逆に、コーヒーが嫌いと言う話も、聞いた記憶はない。


 ……余ったなら、それでいいか。

 そう思い、二杯分の豆をコーヒーフィルターに注ぎ足した。

 そのタイミングでケトルが音を立て、お湯が沸いたことを知らせる。


 ケトルに、ドリッパー。

 自動のコーヒーメーカーでもしっかりと味が出せる時代に、随分とアナログだ。

 合理的に考えれば、そちらで十分。だが、謂わゆるの領域に関しては、合理よりも自己満足が大切だ。


 最初に少しだけお湯を垂らす。全体にお湯が染み渡り、少しだけ陽気に落ちるくらい。こうやって、豆を蒸らす。

 この一手間で、随分と味が変わるのだ。

 大体30秒くらい間隔を空け、ゆっくりと円を描くようにお湯を注いでいく。

 豆から炭酸ガスが放出され、膨らんでいく。鮮度が良い証拠だ。


「……ふむ」


 ふわりと香りが立つ。

 忙中閑あり。社畜でも、リラックスできる時間くらいは必要だ。

 私にとっては、朝のこの時間がそれに該当する。


 コーヒーカップ四杯分。マグカップにすると二杯分のコーヒーを淹れ終えると、マグカップと魔法瓶を取り出す。

 ケトルに余ったお湯で湯煎をして、コーヒーを注ぎ入れた。


 普段は、適当な本でも読みながら時間を潰すのだが。

 今日はもっと良いものがある。


「……ふにゃ」


「ふふ」


 気の抜け切った声。

 もぞもぞと動き、布団を抱きしめる様子に笑みが浮かぶ。

 気の置けない友人の、穏やかな寝顔を見ながらコーヒーを飲む。実に優雅な朝だ。素晴らしい。


 一人が嫌いなわけではない。

 読書をお供にした朝の時間も、ともすれば無味乾燥になりがちな社畜生活の中で少ない、心の平穏をもたらしてくれるものだった。

 だが、やはり、人がいると言うのは良いものだ。

 それが優であるのならば、なおさらのこと。


「……沙織ぃ」


「ん?」


 視線を向けるが、続きはない。寝言だろうか。

 優は口をもごもごと動かして、そのまま寝返りを打った。


 さて。

 コーヒーも飲み終えたことだし、仕事に行こうか。

 手早くスーツに着替え、仕事に行く旨を記した書き置きをコーヒーが入った魔法瓶の下に置く。

 時刻は5時30分。始発に乗るにはちょうど良い時間だ。

 玄関でパンプスに履き替える。

 そのまま玄関の鍵を閉めようとして、ふと思い直した。


「……行ってきます、優」


 扉を開けて、ぽつりと一言。

 眠っている相手に届くことがないのはわかっている。

 だが、たった一言を告げる相手がいるということが、どこか温かい気持ちを呼び起こした。

 改めて部屋の扉に鍵をかけると、駅へと向かう。

 いつもと同じ道が、どこか楽しそう見えた。

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