第2話 〜汐留優 side〜
「ああもう、本当に沙織ちゃんは……」
消え入る様な声。
そこには疑いようもなく、情欲の色が乗っている。
「人の気も知らずにぃ……」
それはそうだ。当たり前だ。だって彼女は、私の気持ちを知らない。
私がこんな汚い感情を抱いていることは、絶対に悟られないように、ずっと気をつけてきたのだから。
私と沙織ちゃんの間にあるのは、駆け引きのない友人感情。
そうであるべきであって、そこに不純物が混ざることは、私も彼女も望んでいない。
だから。
こんな感情を抱いてしまっている、私が間違っているのだ。
だから押し殺す。
いらない感情は、くしゃりと丸めて、ゴミ箱にでも捨ててしまえばいい。
これまでも、ずっと、そうやってきたのだから。
なのに、捨てきれない感情が澱のように、心の隅に燻っている。
「はあぁ…………」
ぎゅっと目を瞑り、息を吐き出す。
「今は、忘れよう」
うっすらと開いた扉の隙間から、シャワー音が差し込んでくる。
下着姿の沙織ちゃんを思い出しかけ、強く頭を振る。
カバンから取り出したヘッドホンを耳につけ、ノイズキャンセリングをオンにした。
無音。
すっと音が引く。
それなりに高い買い物だったが、耳栓にはちょうど良い。
目を閉じて、膝に顔を
何も感じないところに、落ちていく。
ここでは、私はたったひとりだ。
善意はない。悪意もない。駆け引きもない。辛くて苦しくて面倒なものは何もない、ひとりの世界。
心安らぐ、無の時間。
体に籠った熱は、やがてゆっくりと消えていった。
私は、沙織ちゃんが好きだ。
誤魔化しても仕方がない。何をどう繕ったって、自分の心は偽れない。
認めたくなくてもがいた時もあった。気持ちを打ち消したくて、離れようとした時もあったけれど、結局は認めざるを得なかった。
最初は、嫌悪だった。
自分がどうしようもなく屈折した人間であることは、幼い頃から自覚していた。
人間関係とは利害関係であり、友情とは利害の一致である。世界をそのように捉えていたし、何なら今だってそんなものだと思っている。
そんな中、沙織ちゃんに出会った。
ひと目見て分かった。
私とは、人種が違うと。
失礼な言い方だが、容姿が特段優れていた訳ではない。
いや美人だけど。
女性にしては長身で、すらっとして綺麗なシルエット。切れ長の涼しげな目元、くっきりとした
鼻筋はすっと立っていて、口元はふっくらと、
…………コホン。
うん、私にとっては世界一の美人だ。
けれど、客観的な評価としては、街を歩けば埋没する程度ではある。
よく見れば美人。だが、印象には残らない。そんな感じ。
何せ、沙織ちゃんは外見に気を遣わない。
相手を不快させない程度には整えているけど、自分を魅力的に見せようという意図が一切ない。
いくら素材が良くても、調理されなければただの素材である。
刺身は美味しくても、鱗すらとっていない生の魚を食べる人はいないだろう。
……というわけで、人種の違いを感じさせたのは、外見ではない。
瞳だ。
黒く濁った視界の中で、沙織ちゃんの瞳だけが、色づいて見えた。
彼女は、人を
相手のことをちゃんと見て、関心を寄せて、気遣える。
そんな、普通の人間だ。
そう思った。
それが、衝撃だった。
その気遣いが私へと向けられた時、吐き気がした。
この世のものとは思えない異物感。
こんなものは、あってはならない。
それが第一印象だった。
水清ければ魚棲まず。
打算と駆け引きに塗れた私の世界には、純粋な好意は眩しすぎたのだ。
嫌悪はやがて、憧れへと変わっていった。
沙織ちゃんの優しさに救われた時、自分には決して持ち得ぬ温かさに、強烈に焦がれた。
マイナスの感情が一度プラスへと転じれば、それが恋慕へと変わっていくのに、大した時間はかからなかった。
時が経ち、色を覚えてからは急転直下だ。
嫌悪、憧れ、色欲、そして劣等感。
そんなぐちゃぐちゃな感情がぐつぐつと煮詰められた恋情が、私から沙織ちゃんに向けられる感情の正体。
そんなもの、
「知られたら……」
きっと沙織ちゃんは拒絶しない。
困るかもしれない。気持ち悪いと思うかもしれない。
だけど、ちょっと目尻を下げて困ったように笑って、最後には受け入れてくれるのだろう。
それが、たまらなく、嫌だ。
こんな感情は間違いだ。
おかしいのは私だ。沙織ちゃんが正しい。
同性の友人に抱くべきは、駆け引きのない友情だ。恋情ではない。そんな間違いに、大切な友人を巻き込んではいけない。
それが、正しいのだから。
だから。
だから……。
「苦しいなぁ」
じわりと涙が滲んだ。
ぽんと、肩を軽く叩かれる感触。
はっと顔を上げると、お風呂上がりの上気した顔で、沙織ちゃんが微笑んでいた。
「お風呂出たよ。入ってきな」
切れかけの電灯で、部屋の中は薄暗い。
沙織ちゃんの瞳は、あの日と同じく、色づいていた。
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