第14話

 千景が教室に入るとすぐ、教師に腕を掴まれた。

 学生指導の担当でもある尾崎だった。

 なんすか、と尋ねるよりも前に、ちょっと来い、と廊下に引っぱり出される。


「出せ」

 言いながら、手を広げて千景に向ける。意味が分からない千景は、はは、と笑いながら

「教師が堂々とカツアゲっすか」

 冗談を言うが、尾崎は笑わず、きっと千景を睨む。

「煙草とライターだ」

 尾崎はどうやら本気で怒っている。

 しかし睨みたいのは、怒りたいのは、千景の方だった。


「そんなの持ってないっすよ」

 素直に答えた千景にしかし、尾崎はかわされたようにしか感じていない。


「お前が吸っているところを見たという学生がいるんだ」

 いらいらとしながら、それでも小声に抑えて言う。教室の生徒に聞こえないようにしているその小声が千景をよりいっそう腹立たせた。


 ちっと舌打ちをすると尾崎に掴みかかりながら

「おい、ふざけたこと言ってんなよ」

 言うと同時に、教室から様子を見ていた志希たちがすかさず後ろから千景を引き戻しに来る。

 千景やめろ、という言葉も千景の耳には入らない。葵や胡桃が息を飲む声も聞こえなかったのだから、相当頭に血が登っているに違いない。

 千景は無性に腹が立ち、ぐるぐると血が全身をめぐるのを感じていた。ここのところ、いらいらしていたせいもある。


 樹の優等生ぶりにも、棗の一匹狼ぶりにも、そして筋違いだとは思うが志希の純粋さにも、苛立ちが募っていた。

 自分だけが汚くて、こうして教師に信じてもらえないのも自業自得だと知っている。


 それでもやはり悔しいと思う。

 これだから人を信じようとも、信じてもらおうとも思えないのだ。


 もし普段から模範的な行動をとっていて、信じている人も信じてくれている人もいて、それにも関わらず信じてもらえなくなったら。

 裏切られたら、その時はどうなってしまうのだろうと思う。


 心の片隅で縮こまっている恐怖がむくりと顔を起こすのを感じて、ぶるりと身体が震える。

 見てはいけない、考えてはいけない。今の千景であれば、信じてもらえないことは自業自得で済ますことができるのだから。

 千景の口から乾いた笑みが零れた。


「千景」

 じわり、と隙間に染み込んだ声に我に返る。腕を掴む志希、その後ろからは葵と胡桃が心配そうに見ている。隙間に染み込んだ声は、その隣にいる悠里のそれだった。


「どうしたんだい」

 いつの間にか志希たちだけでなく、教室の中から学生たちが廊下を見ていた。

 頭に血が登っている間、何を口走っただろうか、千景は今度は顔に血が集まるのを感じた。


「おれ、煙草なんて、吸ってない」

 消えそうな掠れた声で絞り出すように答えると、それっきり口を開かなかった。学生たちの視線が鋭く刺さる。ふうん、と悠里は頷くと、


「千景が吸ってたって話、いつの話ですか」

 尾崎に向き直って尋ねる。

「今日の四限だ」

 なるほど確かにその時間、千景は授業に出ていなかった。聞いた悠里は、ぐいと千景の両の手を取り、すん、とそれを嗅ぐ。胸ぐらを掴みそこも、すん。


「ひとつだけ言っておきますけど、千景は煙草なんて吸ってませんよ」

 少なくとも今日のその時間は、と悠里は続ける。

「吸っていた人がいたというのが確実で、その人物を探したいのなら、他をあたった方がいいですね」

 にこり、とすると尾崎は

「穂積が感じた匂いだけを根拠に言っているのか」

 呆れたように呟き、千景に掴まれて少し崩れた襟元を正す。


「まさか」

 驚いた表情を浮かべる悠里。

「他にあるのか」

 悠里はきょとんとした顔で首を傾げ、それからちらりと千景を見やる。


 開かれた窓から滑り込む心地よい風。ふわり、と桜の香りを嗅いだ気がした。


「勘、ですよ」

 意味が分からない、という表情を浮かべたのは尾崎だけで、他の学生にとってそれは事実に等しいもの。

 千景が煙草を吸っていない、ということはこの時点で誰も疑うことはなくなった。


「それじゃ、僕はちょっと気分が悪いので保健室に行きます」

 まだ訝しげな顔の尾崎の前を通り過ぎてそのまま教室を離れていく悠里を、千景は反射的に追った。

 誰一人着席していない現場に尾崎は、ふうとため息をつくと、席に戻れと声をかける。


 二人を引きとめなかったのは尾崎自身、さっきの今では二人の前で授業をすることに多少抵抗を感じていたからであろう。ぱたはたと席に戻る学生たちの中、志希は悠里と千景の後ろ姿を見ていた。




 話しかけるタイミングを失った千景は、ただ無言で悠里のあとをついて行く。

 悠里は気づいているだろうし、悠里が気づいていることを千景も分かっている。


 それでも二人は無言だった。

 学生会館に入り、医務室のある一階に下りると思いきや、悠里は三階に向かって階段を上がりだした。

「医務室、下だけど」

 とうとう千景は声をかける。


「サボりと言えば屋上だろう」

 今さら何を言っているんだ、とでも言いたげな不思議そうな顔で悠里が言う。

 ああ、と納得したような千景はぼんやりと頷くと悠里に続いた。


 三階に来ると、悠里は千景に先に屋上に行くよう告げて離れた。たったそれだけのことで、どこか不安がよぎったことに気づき、千景は自分自身に戸惑う。


 相当まいっていたのだろう、まだ心がざわざわしている。

 頭で考えるのも億劫で、千景は悠里に言われるまま屋上へと向かうと、ドアを開けた途端に吹き込んだ風がやけに気持ちよかった。


 それでも吹き飛ばされないもやもやを抱えたまま、まだ働くことを拒絶するかのような頭を抱えたまま、千景はフェンスまで歩くとそれにもたれて座り込んだ。




 千景、と声をかけられて、頭を深くうなだれていたことに気づいた千景は、素早くそれを起こす。

 その顔の前にずい、と悠里がジュースを差し出した。

 いちごミルク。


 反射的に受け取ったものの、うげ、という顔をした千景に悠里はにやりと笑う。その悠里は、もうひとつ持っていた缶を開けるとこくりと飲んだ。

「うわ、苦い」

 それもそのはず、甘党の悠里にはブラックコーヒーは苦いだろう。


「逆じゃね?」

 悠里の様子を見ていた千景がぽつり呟くと悠里はからりと笑った。

「君はいらいらしていたからね、カルシウムと甘いものが必要だと思ったのさ」

 だとしたらいちごミルクしかないだろう、と胸を張って言う。


 さぁ飲んでごらん、と目で訴える悠里に、千景は仕方なくぷしゅりとストローを突き刺して一口。

 甘いいちごの香りと、どこか甘酸っぱさも含みミルクで中和されている甘みが口の中に広がる。じわりと胸に広がるぬくもりが千景の頭をも支配したようだった。

 途端に恥ずかしさがこみ上げてきて千景は苦い顔をする。


「やっぱり甘いのはダメだったかい」

 悠里の言葉に、いや違うと答えてそちらを向いたが、悠里は千景を見てはいなかった。


 その横顔はどこか遠くを見ているような、それでも何もかもを分かっているようなそんな表情で、千景はたまらなくなった。


 この少年はどこにいるのだろうと不思議な感覚を抱く。

 ここにいるのに。


「違うのかい」

 今度こそ千景を見て言った悠里に、引き戻されたような思いで千景はいちごミルクを思い出した。悪くなかった。

 ただ、もう一口飲んでみると、どうも甘ったるさしか感じない。


「一口目はうまかった」

 正直に言うと、

「いらいらは」

 と尋ねる悠里。そういえば恥ずかしさがこみ上げると同時に、ざわざわした苛つきが吹っ飛んだようだった。


「その……悪かった」

 バツの悪い思いで謝る千景に、悠里はいいやと首を振る。一口で足りたならよかった、とコーヒーを差し出した。交換しろということだ。

「僕にはこれは苦すぎる」


 無言だった。ただ時たまジュースを口にする以外、二人の間に音はない。

「おれさ」

 ふと口を開いた千景が、しかし先を続けることに戸惑い、静かな空気が流れる。何も言わない悠里に、千景は意を決したように話し出す。


「友達とか作るの苦手でさ」

 ふうん、と関心のなさそうな悠里の声に、千景はふっと自嘲ぎみに笑う。悠里とは最近でこそ名前で呼び合うようになり、友達といえる関係になった。

 それでもこんなことを話せるほどの仲ではないと分かっている。

 でも、だからこそ話せる気がしたのだ。


「裏切られるのが怖くて、信じたくなくて、信頼関係とかいらないって」

 ぽつ、ぽつ、と話しながら、千景は空を見上げる。


 千景の心を反映するように、どんよりと曇ったそれは、今にも泣き出しそうだ。

 あまり長いことここにはいられないかもしれない。


「恋愛は楽でさ。そもそもおれは信頼関係の上に成り立つような恋愛をしたことがないからな」

 言ってて虚しくなった千景は短いため息をつく。


「裏切られるのが怖いってことは、裏切られたことがあるのかい」

 初めて悠里が口を挟んだ。

 ほとんど独り言のようなつもりになっていた千景はぴくりと肩を震わす。

 悠里の質問の答えを考えながら、しかしどうにもぴんとくる答えがなくて口ごもる。


「昔から家族のことすげー好きでさ」

 ややあって話し出したのは、また独白のようなものだった。

「おやじ、おふくろ、姉貴」

 家族を羅列し、顔を曇らせる。


「おやじが医者でさ、忙しくて構ってもらえなかったけど、誇りに思ってた」

 思っていた、過去形なのだろうか、と悠里は思う。


「おふくろはそうじゃかったんだよな、きっと。男つくって出て行った」

 最後だけやけに明るい声が、逆に痛々しい。


「この話すると、女の子はころっと落ちるんだぜ。だからおれは利用してる」

 千景は笑ったが、悠里は笑わなかった。


「お母さんにとって自分は大切じゃなかったんだって思ったのかい」

 静かに悠里が聞いた。

 千景の顔からは笑みが消える。


「お母さんに裏切られたって思ったのかい」

 何も言わない千景を放って、悠里は問いかけを続ける。


「お母さんを、恨んでいるのかい」

 千景は分からなかった。

 まったく恨んでいないと言えば、嘘になるかもしれない。どうして、と何度も思ったし、何かの間違いだとも思った。


 なおも悠里は一人で続けた。

「自分にとって大事なものを分かっている人も、分かっていない人もいる。大切なものを大切にできる人も、できない人もいる。君のお母さんがどんな人かは知らないけれど、それで」


 どこか遠くを見ていた悠里が、いきなり千景に顔を向けて尋ねる。

 今までの一人語りではなく、明らかに質問。


「それで、君はどうしたいんだい」

 千景は喉に痺れを感じた。

 どうしたい、とは考えたこともなかった。


 ただ母親を許せなかった。

 ただ寂しかった。

 ただ怖かった。

 それだけでいろいろなしがらみから逃げてきた。


「この先、君を裏切る人がいるかもしれない。それでも、そんな時に君を守ってくれる人だっているかもしれない」

 ああそうだ、と千景は思う。


 考えもしなかった。いや、考えたかもしれないがその時にはきっと一蹴しただろう。

 なぜだか今は、すとんとそのまま心に落ちて納得した。


「人ってそんなに完璧じゃないよ」

 夫と幼い子どもを置いて出て行った母親のことを言っているのだろうか。

 悠里のその一言で、千景は母親を許せた気がした。母親も一人の人間だったということを初めて知ったような、そんな気分だった。


 でもさ、と悠里は続ける。

「人ってそんなに冷たくもないよ」

 その言葉に悠里を見ると、彼は千景に向かって笑っていた。千景は初めて悠里の笑顔を見た。その頬に、ぽつり、と雫が落ちる。千景の頬にも、ぽつり。

 ああ、雨だ。

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