第8話

「ここ、出るらしいのよ」


 千景の周りで先輩たちは学校の七不思議のような話をしている。

 あそこで出るだとか、どこかの誰かが何かを見ただの見ていないだの。たいていが尾ひれをつけて広がっていくのだ。


 信じられない、という驚きできゃいきゃいと声が弾ける。


「何が出るんすか」

 出る出るという会話だけで結局何が出るのかちっとも話題に出そうになかったので、千景は堪えきれずに尋ねる。


「よく分からないの」

 はは、と千景は笑った。

 おいおいそれは出るとは言わないだろう、と思ったのは内緒だ。最後までよく分からない曖昧な話しか出ない。


 噂話、特にこういった七不思議なんてものは的を射ないのだ。


 どうやらこの学生会館で急に泣き出した人がいるということだった。

 それが本当の話だとして、なぜ心霊現象のような話になるのか千景にはさっぱり分からなかった。


 それでも彼女らが楽しそうに話していたので何も気にならない。

 新入生試験が終わり入寮の歓迎会で仲の良くなった女の先輩たちと放課後を過ごしている。


 この時間さえあれば千景は満足だった。たまに樹と言い争いがあったり棗に苛立ちを感じたりしてもそんなことはどうだってよかった。

 いかに彼女らと心地よい距離感にいられるか、それが千景の唯一の関心事なのだ。


 夕飯を食べてリビングに戻ると彼女らは自室へと戻った。

 二階の談話室で彼女らを見送ると、千景はぼふりとソファに沈み込んで深く息を吐き出した。


 少しして部屋に戻ろうと立ち上がると、志希が葵と胡桃と一緒に寮に戻ってきた。声をかけようかと階段を下りる。


 共同リビングの一階部分ではいつも通り彰が何人かの学生たちに囲まれていた。取り巻き、という類のそれは樹を見下し家来のように接することもあるタイプの学生たちだ。


「相変わらずすごい人気ね」

 感心とも呆れともとれるような葵の言葉に志希はただただ頷いた。彰も棗も実力を認めらているからこそ有名なのだ。

 志希はそんな二人を心からただすごいと感じていた。


 千景はむしろ、いつもここにはいない棗をやはりおもしろくないと感じているのだが。

 彰のようにその人気に身を委ねることなく、棗はいつも取り巻きに囲まれることを嫌いリビングに留まらずに部屋に戻っている。

 それが気に入らない。


 樹は試験が終わったにも関わらず今日も学習室。

 ここにいないのは棗と樹だけではない。

 志希はきょろきょろと辺りを見回した。

 悠里は今日もここにいない。


「穂積はどこおるか知らんけどほとんどいつもおらんし」

 呆れたような志希に、


「あら、穂積くんならよく図書館で見かけるわよ」

 と声をかけたのは梓だ。


 急に横から声をかけられたことに驚いた志希が半歩ほど下がる。ちょうど二階から降りて来た千景にどんとぶつかった。あ、わり、と志希は謝る。


「それじゃあ、ええと」

 志希は先ほどの言葉を訂正しようとした。


「穂積は図書館ばっかりで今日もここにおらんし、ここまで打ち解けられへんルームメイトも珍しいやろな」


 それにしても、と志希は思う。

「穂積って本好きやねんな」

 ちょっと意外、と言いながら梓をみると、


「本っていうより図書館っていう空間が好きなのかもしれないわね」

 梓は言う。


「空間」

 よく分からない、というように志希が首を傾げると


「前に私が見かけた時は学校の古いアルバムなんかを見ていたわよ」

 梓は言った。


 ふうんと答えた志希は、やっぱり仲良くなるのも難しそうやな、と一人落ち込んだ。






***************


 翌日には答案がすべて返却され放課後には廊下に順位が貼り出された。

棗は帰り際にちらりと確認するとすぐに寮へ戻って行った。


 志希と理紅と真琴は、下から数えた方が早い位置に自分の名前を見つけていた。


「ま、そんなもんだね」

 真琴は納得したように言った。


 真ん中の辺りに胡桃の名前を見つける。


「どうだった」

 その胡桃がやってきて声をかけてきた。

 後ろには葵と梓も。


 自分の名前の辺りを指差す真琴に、ふうん、と梓が頷く。


 少し上位の方を見ていくと胡桃の名前の少し上に千景の名前があった。


「おれ発見」

 胡桃たちの後ろから千景がひょこりと顔を出す。


「千景って頭いいんだ」

 感心する真琴に

「見直したか」

 千景は聞く。


「葵と梓の方がすごいやん」

 遮るように理紅が言うと、


「あなたたちのルームメイトに比べるとそうでもないわ」

 意味ありげに視線を寄越す梓に千景は首を傾げ、梓が指差す方を見た。


「おい、志希、あれ」

 志希もそちらを見て、二人は顔を見合わせる。


 すぐにその場を離れ、なんとなく足早に寮に向かった。






***************


 その頃、悠里は職員室にいた。

「この成績をキープすれば研究棟の使用許可をいただけますか」

 葉山の席で話し込む。


「一般教養だけでは何とも言えない」

 専門教科の実技も必要だと言う。


 それより、と葉山は悠里に近付き

「入試は手を抜いたのか」

 声を潜めて尋ねた。


「研究棟のくだりを知らなかったですからね」

 いけしゃあしゃあと言うと悠里は肩を竦める。


 葉山はため息をついた。

 悠里もため息をつく。やはりすぐに許可をもらうことはできないか、と。


 とりあえず使用許可を希望している旨だけ伝えて戻っていく悠里を見送り、

「過去最高得点ではあるな」

 葉山は呟く。


 毎年試験問題の内容は違うので点数だけでは何とも言えないが。

「まさか帝祥高専の新入生試験で満点が出るとはな」

 成績報告書を見つめながら葉山はぽつりと零した。






***************


 棗が部屋に戻ると、まだ誰もいなかった。

 きっと、いつもそうだったのだろう。


 樹はいつも学習室にこもっていたし、志希と千景はオープンカフェにいたのを何度か見かけた。


 棗はほとんど図書館にいたが、悠里はたまに見かける程度だった。

 もしかするとほとんど部屋にいたのかもしれない。しかし少なくとも他の四人は学校が終わってすぐ部屋に戻るということはなかった。


 鞄をサイドテーブルに置くとブレザーを脱いでハンガーにかけベッドに腰掛けた。


 入試で学年一位だったことは分かっている。棗だけでなくみんなが知っていることだ。

 帝祥高専の入学式での新入生代表挨拶は入試での最高得点者だと決まっている。

 そういう自負があった。彰と一位を争うことになると思っていた。

 しかしそうではなかった。


 彰の名前は棗よりも下位だったのに、棗は一位ではなかった。

 そこには悠里の名前があった。


 がちゃりと扉の開く音にびくりと肩が揺れる。樹が、そして続くように千景と志希が入って来る。


「穂積おらん」

 志希が不服そうに言う。

 いろいろ聞きたいことがあるのだろう。それにしても、と千景は天井を仰いだ。


「ルームメイトの半分以上が上位五位以内とか」

 いっそ焦りも出てこないなと言った。


「そやな」

 頷く志希。

 二人は負けた方なので意地でも認めたくはないが、少し仲間意識を覚えていた。


 新入生試験が終わってから放課後は先輩たちと過ごしている千景は、今日もまたそこへ向かおうとすぐにラフな格好に着替える。


 千景が部屋を出ようと扉を開けたところに悠里の後ろ姿があった。

 その向こうに隣の部屋である彰たちがいる。


「何してんだ」

 千景が言うと志希も部屋から顔を出した。


「こいつにどんな不正をしたのか聞いてるんだよ」

 当たり前だろう、という表情の彰。


 声が聞こえたのか樹と棗も少し近付き聞き耳を立てている。


 いい加減にしろよと言いかけた千景の前に、後ろから志希の腕が伸びる。

 なあ、と言いながら志希が悠里のフードを掴むと引っ張った。


 それが外れると同時に振り向いた悠里は意表を突かれたようだ。

 目を丸くして驚いた顔をしている。


 あ、悪い、と言って志希は手を離し

「自分、不正したん」


 自分、と一瞬迷う悠里は、ああ僕のことかと理解する。


「してない、けど」

 悠里の言葉を聞くや否や志希は彰をきっと睨んだ。


「してへん言うてるやん」

 どんな不正も何もないやろ、と声を荒げた。


 千景は目の前の出来事に呆気にとられる。

 不正をしたやつが堂々としましたとは言わないだろうが、何も疑わないとは羨ましいほど楽天的なやつだな、とそう思った。


 しかし、悠里を見ると、確かに疑う気持ちは自然となくなった。


 千景は無類の女好きだ。男はどうでもいい。ただ悠里の容姿は息を飲むほどに美しい造形をしている。


 眼鏡越しにぱちりと合った目に我に返ると千景は彰を見やった。


「不正をしたなんて言うわけないだろ」

 彰も志希に呆れている様子だ。


「とにかく俺たちは今この穂積と話しているんだ」

 関係ないやつは引っ込んでいろと言って悠里の腕に手を伸ばす。


 と、ぎりぎりで千景は先に悠里の腕を引いた。

 そのまま志希に押し付ける。

 志希は悠里をそのまま奥に押し込めた。


「不正があったか知りたいなら教師にでも聞けよ」

 千景はそう言ってばたりと扉を閉めた。




 三人が扉の前に固まり少し離れたところに樹と、そして棗も立ち尽くしている。


「ありが、とう」

 少し頭に疑問符を浮かべながら悠里が言った。


「別に庇ったわけじゃない」

 扉の前を離れながら、あいつらがむかついただけだ、と千景は言う。


「君も僕が不正をしたと思っているんだね」

 嫌味ではなく悲壮感もなくそう言った悠里の言葉に、千景は聞き間違いかと思った。


 悠里も扉を離れ、自身のベッドに近寄ると、鞄をサイドテーブルに置いた。


 千景はもう一度、耳にした言葉を頭の中でリプレイしてから驚き

「どうして」

 呟く声は弱々しかった。


「なんとなく」

 悠里は笑ってブレザーを脱ぐ。


「してへんねやろ」

 志希は再び問うた。

「していないよ」

 言いながら悠里はベッドに腰掛けた。


「氷室くんは僕が満点だからおかしいって言うんだ」


 その通りだ。

 棗が驚いたのもそこだった。

 自分が一位じゃなくたってそこまで驚いたりはしない。そこまで自負などしていない。


 しかし悠里は全科目満点だったのだ。試験が難しいことで有名なこの帝祥高専でそれはあり得ることなのか。


「満点を取る不正の方法なんてあまりないよね」

 教科書や参考書を隠して持ち込んだとしても、試験中にそれらを見ていたらさすがにばれる。

 あらかじめ答えを用意しておくには問題が分からなければあまり意味がない。


「問題を不正に手に入れる、とか」

 樹が呟いた。


「氷室くんもそう言った」

 それしかないよねと悠里は続ける。


「でもさ、それって五教科の先生それぞれから問題をもらわないといけないわけだ」

 できるわけないだろうと肩を竦める悠里に、


「自分ならできんでもないやろけど」

 志希がぽつりと言う。


「ええと、その自分は君のことかな」

 それとも僕のこと、と指を交互に指しながら悠里は尋ねた。


「自分言うたら自分」

 言いかけて眉をひそめると、志希は

「穂積のことや」

 言い直した。


「僕ならできないこともない」

 志希に言われたことを反芻する悠里は、うん、と首をかしげた。


「どうしてだい」

 さっぱり分からない、できるわけがないじゃないか、と。


「たいしたことちゃうから聞き流して」

 言っていて恥ずかしくなってきた志希は投げやりになる。


 悠里は彼自身が周りに与える影響をほとんど理解していないように思う。悠里ならば催眠術をかけられるのではないかと志希は本気で思っていた。


「確かに普通に考えたら無理だな」

 言って千景もベッドに腰をおろす。

「あとはそれらをまとめて盗むか」

 という千景の言葉に、

「そんなわけないやん」

 と驚きながら志希が言った。


「ああ、そんなわけない」

 棗がふいに言葉を発する。

「さすがに試験自体が変更されるだろうからな」


 つまり、と続ける棗に四人の視線が突き刺さる。

「こいつは不正をしていないってことだろ」

 彼らの中に確信に似た結論が出た。


 ぐう、と腹の虫が鳴る。

 志希がお腹を抑えた。

「腹減った」

 志希が言うと同時に、千景ははっと立ち上がる。

「約束忘れてた」


 やばいやばいと走って部屋を出て行く千景に、残された四人は呆れたように息を吐き出した。



 棗はすぐ横の窓に近付き外を眺める。

 確かに不正は考えにくいが未だに信じられないのも事実。


 外では桜が風に揺れている。

 なかなか風情があるが、その上の空は昨日に引き続きあいにくの曇り空だった。

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