第9話
翌日、いつも女の先輩と遊んでいた千景がなぜか、志希たちが参加している部活の仮入部に顔を見せた。
志希はちらりと千景を盗み見る。
千景が部活やサークルに所属するつもりがあるのかないのか、志希はそんなことすら知らない。絵画サークルの仮入部にやってきたのは葵と胡桃について来ただけなのだろう。
絵を描く手をほとんど動かさずにこやかに話をしているだけの千景を見れば一目瞭然だ。
志希は、千景が志希とも仲良くなりたいと思っているのだ、と勘違いしたことを恥じた。
志希が一人ぶつぶつと音にならない程度に文句を呟いていると葵と胡桃の驚いたような、怖がっているような、吸い込む息の音が聞こえた。
「あくまで噂だけどな」
言ってへらへらと笑う千景に何がと問いかけると、聞いてなかったのかよ、と言いながらも説明してくれる。
葵と胡桃の前でなければ相手にされなかったに違いない。
なんでも学生会館に出るそうだ。みんなには見えないが見える人には見える、そんなものが。
「誰から聞いたん、そんな噂」
わりとそういう話が苦手な志希は引きつりそうな頬を無理に笑顔にしながら尋ねる。
「お姉様方から」
先輩の女子学生たちから聞いたという。新入生から聞いた噂ではないので信憑性があるように思ってしまう。
「この学校の七不思議、みたいなの、かな」
志希よりも苦手なのだろう、胡桃がおどおどしながら言う。
「いや、でもこの噂ってつい最近で始めたらしいから、昔からある七不思議とかではないはずだけどな」
そう言う千景に志希はほっとする。
それならば入学したばかりの新入生が言い出した根も葉もない噂と大差はない。
「そんなものよりもあなたたちの方がよっぽど怖いわね」
ふうん、と話を聞いているだけだった葵が辛辣なことを言う。
「え、なにが」
志希は怖い、と言われるようなことをした覚えはなかった。
「椎名くん、この前また上條くんと言い合いしていたでしょう」
葵の言う通り千景は試験の前はしばしば樹と言い合いをしていた。それでもここ数日はしていないのだが。
千景にしてみれば樹のことは別に嫌いではないが正直うっとおしいと思っていた。
所謂、不良学生である千景が教師から目をつけられるのは当然のことであるがなぜルームメイトから説教されなければならないのか理解不能なのだ。
「でもそれって」
小さな声で言いかけ、しかし言いよどむ胡桃に目を向けると
「上條くんが正しいじゃない」
葵があっさりと先を続けた。
「正しいのは確かに上條だな、あいつ優等生だし。でもどうしておれがその一般的な正しさを押し付けられないといけないんだ」
心底分からない、というように千景は首を傾げる。
「あいつがどれだけ正しく生きようと、おれが正しく生きるかどうかは関係ない。巻き込まれるのはごめんだぜ」
溜息まじりに呟くと千景は、この話は終わりとばかりに机に突っ伏した。
葵は二人の言い合いがどうやら嫌いのようだし、志希にとっても二人の対立は気持ちいいものではなかった。
事実、金髪で服装も崩し不良学生と言われても仕方のない素行の志希は樹からは千景と同類として見られている。厳しく目を光らせている樹を、志希が苦手と感じるのも仕方のないことだった。
ただし両親に釘を刺されたこともあり授業をさぼったりはしていない。そもそもさぼるような仲間がいない、ということは伏せておきたいが千景と同じように見られることには納得がいかない。
「でもなんだか、上條くんがちょっとかわいそうっていうか」
言いにくそうにもごもごと言う胡桃の意見ももっともだ。樹はある種の学生たちから見下された態度をとられている。
いじめとまではいかないが家来のように扱われるのを志希は見かけたことがある。何かと嫌味を言われる樹を見兼ねて、真琴たちが割って入ったこともあるらしい。
おそらく棗に対しての態度が原因だ。
その棗と仲が良いのならばまだいいのだがその二人が一緒に行動するのを見かけたことはなかった。
「上條くんって、栗生くんとはどうなの」
葵も志希と同意見のようだ。
「仲良さそうには見えねーな。ま、おれらとは違って栗生に対しては敬語使ってるし、けなすことも説教することもないけどな」
言って千景はからから笑う。
そもそも説教されるようなこと栗生はしてへんけどな、と呟いた志希は続けて、
「オレら上條とも栗生ともあんまり関わりないからな」
と拗ねたように言う。
「栗生は好きじゃねーな」
唐突にばっさりと千景が言い捨てた。お前の好き嫌いなんて聞いてねーよというツッコミは口にせず、志希はなぜかと問うた。
「おれと違って女の子たちと仲良くする気ないし、それどころかガン無視してるのに、いまだにキャーキャー言われてんだぜ、許せるかっつーの」
「ただのやっかみやん」
次は普通に口にしてしまった志希であるが千景が気にする風はなかった。
***************
放課後、悠里は少し前に見つけた里山手前の木陰で寝転んでいた。
研究棟の使用許可はすぐにはもらえそうにない。残念だ。
ここに来たら絵術の研究が出来ると思っていたが流石にそう簡単ではないようだ。
伝説ではその昔、絵画を愛する人々に神が絵力を授けたと言われている。
しかし心理絵画や空間絵画を戦に用いる人間が出てきて、それを嘆いた神は絵力と引き換えに魂を奪う使い魔、つまり天使を世界に放ったという。
ただの伝説として語り継がれているが、的を射ていると悠里は思う。
絵力とはすなわち魂なのだ。
それを注ぎ込む絵術には文字通り魂を注ぎ込む必要がある。
だからこそ時に観る者を惑わす。制作に入れ込みすぎると魂を失う。
戦に用いるために制作を強要し、また絵画を悪用した当然の報いだ。
乱用や悪用を防ぐために、そして絵術師や観る者の魂を守るために統括隊が設けられた。機密性、専門性の高い分野なのだ。簡単に研究できるわけがない。
分かってはいた。しかしもしかしたら、という思いはあった。有名で実績もある高専なのだから。
悠里はほう、と息を吐き出すとフードをまくり上げる。眩しいだろうかと思ったが木陰なので大丈夫だ。
目をつむると草木の香りが鼻腔をくすぐる。
すぐに研究することはとりあえず諦めよう。成績をキープし、また実技科目で手を抜かなければいずれ許可されるはずだ。
しかし、と悠里は薄く目を開いた。
このまま誰とも関わらずにいることは正しいのだろうか。
今まで迷ったことはなかった。
寮という生活のせいかもしれない。ルームメイトたちにとても魅力を感じている。仲良くなれたら楽しいだろうな、と。
ちらちらと視界の端で桜が揺れる。心を映したような穏やかな陽射しに笑みをこぼした。
***************
千景は翌日も部室に来た。葵と胡桃に癒されているらしい。
千景と少しずつ打ち解けてきていると思った志希はこれを機に千景と仲良くなりたいのだが、なかなかどうして、千景の目には女の子しか映っていないようでうまくいかない。
「なんでこんなにでこぼこやねん」
だから志希は今日も一人不満を言う。
「どこがでこぼこ」
もちろん志希の頭の中など分からない胡桃は志希が描いている絵を見て首を傾げる。
あいまいにそれをかわした志希がふと窓の外を見ると、あ、と声をこぼした。
「あの猫や」
呟くと同時に立ち上がり部室を出て行く志希に、葵が、胡桃が、千景が続いた。
志希は早歩きする。軽やかな足取りで帝祥荘に向かっている猫を今度は見失わないようにと。
意味はない。意味はないがなんとなくあの白い猫を追いかけたかった。
この猫を前回見かけた時は、猫を見失うと同時に千景と小鳥遊紫子に遭遇したせいで、猫が千景か紫子に変身したような錯覚をほんの一瞬覚えたのだ。
もちろん猫がそこへ行くより前から二人はいたわけで、そんなことありはしないのだが。
その時と同じように猫は帝祥荘の脇を進んだ。走り出した猫を追いかけて志希たちも走る。
千景と紫子に遭遇した空間を横目に猫はさらに茂みを奥へと進む。
細い獣道が続いていたのでここは野良猫たちの通り道なのかもしれない。
しばらく走り茂みが途切れて開けた空間に出ると志希は立ち止まった。
また見失ったのだ。
少し乱れた息を整えながら左右に首を向けて白い猫の姿を探していると、同じように息を整えながら三人が横に並んだ。胡桃に至っては息が上がっている。
「いきなりどうしたんだよ」
一番に落ち着いた千景が志希に尋ねた。志希は猫を追いかけたことだけ告げると適当に歩き出し辺りを観察する。
帝祥荘の脇、部室棟からは少し離れたところ。
帝祥荘の裏手にある里山のほとんど続きのようでもあるが、しかし里山ほど鬱蒼と木が生い茂っているわけでもなく木に囲まれたところが点在している空間だ。
葵も同じように歩き出してきょろきょろと周りを見ている。
千景が胡桃を気遣いつつ猫はどこだろうなと話していると今度は葵の、あ、という呟きが聞こえる。
顔を見合わせて近寄ろうとする三人に向き直り、しー、と指を口にあてて、静かにと仕草で示す。
あ、と声こそ出さなかったものの三人が同時に息を飲んだのが気配で伝わる。
猫がいる。
悠里もいる。
そこも少し開けた場所。
狭くてうまいように木陰になっているその芝生の上で悠里はすやすやと眠っていた。
猫が悠里にすり寄っている。
ん、と声をこぼした悠里に四人はとっさに近くの木に隠れて身を低くした。
ふるりとまつげが震えて持ち上がったまぶたの奥からあの幻想的な瞳が現れる。
悠里は頬の辺りに擦り寄る猫を視線で確認せずに自然に撫ぜた。
「また来たのかい」
そうしてゆるゆると撫ぜながら呟く。悪いけれど餌はないよ、と。
はた、とその手を止めてちらりと視線を動かすと浅いため息をつく。
「覗き見とはまったくいい趣味をしているね、君たち」
身体を起こしながら猫に対するよりも少し遠くに話しかける声で言うと、志希が転がるように前に飛び出た。
続いて葵も飛び出て胡桃が恐る恐る続き、千景はあーあ、と観念したように続く。
「ちゃうねん、起こしちゃあかんと思って」
あわあわと弁明する志希を一瞥すると悠里は猫を抱き上げ、
「分かっているよ、この子を追いかけてきたんだろう」
ごろ、と猫は気持ち良さそうに喉をならす。
「この子、野良猫なの」
葵が悠里に尋ねると悠里は、さあ、と首を傾げた。確かに首輪はついていない。
それにしても、と志希が呟く。
「こんなとこがあってんな。図書館にばっかりいるんかと思ってた」
悠里が驚いたような顔をしたのは一瞬。
すぐに、ああ、と理解した。
「結城さんから聞いたのかい」
悠里も梓を認識していたようだ。
何度か図書館で見かけたよ、そう言うと猫を地面に下ろす。ビニール袋を敷いた上に紙パックのジュースが置かれていてそれを手に取った。
うげ、と声を漏らした千景に志希が反応する。
「どしたん」
千景は悠里の飲んでいるキャラメル系のジュースを指差すと、
「ちょーあまそう」
嫌そうに顔をしかめた。
千景は甘いものが苦手なのだ。対する悠里は甘いものが好きなのか幸せそうににこりと笑うとビニール袋をくるくる丸めてポケットにしまった。
しばらくじっとしていた猫は、ふい、と背を向けると尻尾をゆらゆらと揺らしながら木々の間を抜けて奥へと入っていく。
「里山を探検してみたいわ」
猫を見つめていた葵が突然、目を輝かせて悠里に言った。もっと奥まで続いているみたいだものとうきうきしている。
「わたしも興味ある」
うんうん、と胡桃が賛成した。
「おれも付き合うぜ」
と鼻の下を伸ばしている千景。
「よし、みんなで行ってみようや」
まとめたのは志希だ。
勝手に進み出した話にぽかんとしているのは悠里一人だった。
「穂積くんも一緒に来てくれるかしら」
葵が聞くと猫が消えた木々の奥、里山の方をしばらく見つめる悠里。
ぐらりと大きく欲望が傾くのを感じる。
少しぐらい彼らと仲良くなりたい、と。
「分かった、付き合うよ」
顔を上げて言った。
足に掛けていたブレザーを手に取り立ち上がると悠里はそれをはたいて羽織った。
ゆらゆら、心模様。 美潮 若菜 @mishiowakana
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