第7話

 樹は胸がどきどきしてくるのを感じた。


 そう、始まりはみんな同じ土俵。すでに専門的技術を身につけている新入生もいるだろうがほとんどはそうじゃない。努力次第なのだ。


 左手に拳を握り左胸の上に置く。樹の目はここに来て一番の輝きを放っていた。


「専門課程の研究棟はもっと多くの作品、そして学術研究書を保有しています」


 隣の棗はその言葉に反応した。帝祥荘の図書館に学術研究書がほとんどなかったのはそのせいか。研究棟にあるのだ、と。


「専門課程に入学しその中でも特に優秀と認められた者、そして現役の絵術師たちが使用している機関です」

 現役の絵術師たちも使用しているのか、と新入生たちがどよめいた。


「研究棟は文字通り研究のためのもの。絵術師たちの研究機関であり、特に優秀と認められた学生だけが同じように使用が許可されます」

 ここの学生にとってそれは絵術師になるという夢を叶えるための大きな一歩だった。


 そんなことできるのか、とざわざわしていた新入生の心理を理解した副会長は、

「試験に受かれば絵術師にはなれますので在学中に研究棟を使用できなくても大丈夫ですよ」

 そう言った。


 確かにそうだと皆が納得する。しかしそれならば必要ないかという心の変化にも気づいた副会長は、

「専門課程でなく高等課程であっても特に優秀と認められれば使用が許可されます」

 ぜひ高い目標を持って勉学に励んでくださいね、と微笑んだ。


 それからしばらく作品をいくつか閲覧し卒業生の進路の話があり、快斗たちも戻ってきた。


「それではみなさん、最後に学生会館で多くの作品をご覧ください」

 学生会館は体育館に入ってくる前に通ったが特に何もなかった。さきほど会長たちはその何かを用意しに行っていたのだろう。


「今年度の卒業生、つまり私たち新五年生の卒業制作です。これはしばらく学生会館に飾ったのち国家絵術師試験の一次審査に提出するもの」

 みなさんがいずれ通る道です、と付け加えると体育館を退場する順番、そしてそのまま解散という旨を説明した。


 前の者に付いて体育館を出ながら悠里は副会長の言葉を反芻していた。


 学年は関係ない。優秀と認められれば研究棟の使用が許可される。まともに勉強するつもりはなかったのだが研究棟の使用許可はほしい悠里。そもそもここには研究のために来たのだ。帝祥荘の図書館は専門書が少なく疑問に思っていた。


 特に優秀と認められるとは具体的にどういうことなのだろう、と疑問に思う。


 学生たちは言われた通りに卒業制作の前をゆっくりと進む。次々と出てくる学生のために前に進むがそのまま解散という言葉通りに解散し、多くの者はもう一度見ようと学生会館にとどまっている。


 悠里はその列を外れると残っている学生の間を進み、葉山を見つけて聞いてみよう、と奥の壁に寄りかかった。それ次第で明日の試験の受け方も変わるのだ。


 悠里は少しフードを持ち上げて体育館の出入口を見ていた。


 新入生の列が途切れ葉山たち教師が現れる。学生会役員も一緒にいて少し言葉を交わしている。彼らと離れた葉山を悠里は捕まえた。


「少しいいですか」

 突然後ろから声をかけられてびくりと反応するがフード姿を目にして、ああ、と頷く。


 二人は学生が集まる場所を離れて壁際に寄る。悠里はフードを外した。

 教師に質問する礼儀としてだ。


「研究棟の使用許可はどうすればいただけますか」

 悠里の突然の問いに葉山は面食らう。


「一般教養と専門科目、実技を総合的に判断して、だな」

 端的に答えるが悠里は少し不満そうだ。


「筆記の試験でも実技でもいい成績を収めるってことですか」

 こいつは人と関わる気も勉学に対するやる気もないと思っていたが研究棟の使用許可がほしいのか。そう思うと葉山はなんとなく安心した。悠里もまた普通の学生なのだと。


「というよりはいい成績をキープ、だな」

 少し離れた位置からも痛いほどの視線を感じる。それほどまでに悠里は浮世離れしていた。


「分かりました。ありがとうございます」

 言ってその場を離れようとする悠里に

「生活態度も含まれるぞ」

 葉山は一言付け加えた。


 フードを被りかけていた悠里はそのままゆっくり振り向くと

「これのことですか」

 尋ねる。

 しかし葉山は、いや、と首を振って否定の意を示す。


「同室の学生の遅刻が続けば連帯責任になるかもしれんぞ」

 寮生活とはつまり共同生活。そこでの問題解決も重要な生活態度だ。

 肩を竦め無言で軽く会釈した悠里は今度こそ立ち去ると、まだあまり見ていなかった卒業制作に近付いて行った。


  葉山はそれらを見ている学生たちの群れを眺めた。試験を考えて早々に立ち去る学生たちもいるがまだ残っている者も多い。


「随分にぎやかですね」

 白衣を着た男が隣に並ぶ。校医の秋月だ。

「こんなに人が群れることはあまりないからな」

 医務室はこの学生会館にある。

 卒業制作のある展示エリアとは逆だが医務室にとっては部屋の前で学生が集まっているということになる。


「うるさいか」

 医務室という場所柄、気を遣う葉山。

「そんなやわな扉じゃないのでご心配なく」

 そうかい、と頷く葉山に

「それよりさっきの子」

  葉山のクラスの学生かと秋月は尋ねる。


「ああ、そうだ。初めてか」

 目を引くことを承知している葉山は聞かれる前に説明した。


「穂積悠里。普段はほとんどフードを被ってるが、普通の子だよ」

 外界との関係を遮断しているわけではない。


「なんだか不思議な子ですね」

 秋月は正直な印象を言い、そうだな、と葉山は笑うと秋月と分かれて職員室へと戻って行った。


 だんだん減ってきている学生の中に目立つ金髪が揺れる。

「こんなんオレらが描けるようになるんかな」

 じっと見つめて言う。


「さっき副会長が言ってたやん。入学した時は落書きやって」

 いやそれは言ってない、と真琴が理紅にツッコミを入れる。副会長はあくまで在学中に伸びるということを言ったまでだ。


「卒業制作も大事だけどまずは目の前のことからひとつずつね」

 葵が時間を確認しつつ言った。もうほとんどの学生が寮へと戻って行っている。


「まずは新入生試験だね」

 胡桃は頷いて言い、


「志希の場合はまず起きることね」

 さっさと歩き出した梓がぽつり、言った。


 またしても落胆する志希はその通りだと頷きそれに続く。


 彼らが去っても悠里はまだ少し離れたところにいた。

 しばらく卒業制作をじっと見ていた悠里はやがて静かにそこから立ち去った。






***************


 くらくら。

 揺れる景色が遠ざかり名前を呼ぶ声が近くなる。

 棗は目を瞬かせると目の前にある悠里の顔に気がついた。


「起きた」

 呆れを滲ませる悠里の声にそれでも棗の意識はぼやりとしている。


 まったく、とため息をついた悠里がベッドから離れて行って初めて朝だと理解する。

「よくもこんなに寝ていられるものだね」

 呆れを通り越して感心するよと言いながら悠里は志希を起こしに行く。


 なんだろう、と棗は何か違和感を持った。今まで関わろうとしなかった悠里がわざわざ起こしてくれたからか。

 なぜ起こしてくれたのだろう、と目を細める。


 千景と樹も起きて着替えたところらしく、その悠里の様子を不思議そうに見ていた。


「穂積、ありがとう」

 目を覚ました志希は離れていく悠里に今度こそ、と慌てて礼を言った。


「ありがと、な」

 棗も言うと、きょとんと目を丸くした悠里は、

「ルームメイトの遅刻は連帯責任だ、なんて言われたら仕方ないよね」

 言って、にやりと笑った。


「連帯責任」

「まじでか」

 棗と志希が呟くが千景と樹も驚いている。


 それは冗談かもしれないけどと悠里は肩を竦めた。

「試験の日くらい、きちんと朝食をとったらどうだい」

 言い残して悠里は部屋を出て行く。


 連帯責任が冗談でなければ困るがおかげで助かった棗と志希も、千景たちを追うように急いで着替えはじめた。



 新入生試験とは実力試験だ。

 入試の後、合格してから気を抜いていた者はここで明らかになってしまう。そのため多くの学生は気を抜かずに試験勉強をしてきたのだ。


 樹はもちろん毎日学習室で勉強していたし棗は図書館を使っていた。志希と千景は葵や胡桃たちとカフェで連日勉強してきた。


 日本全国の中学校でそれぞれ上位の成績を収めていた学生たちだ。その中でも入試における上位の者だけがここに集まっていることになる。


 やる気は充分にある。

 プライドもある。

 そうでなければ新入生試験のために試験勉強をするのが当たり前という風潮はないだろう。


 しかしみんながそれほどやる気になるのはプライドがあるからだけではない。

 ここ帝祥高専では試験結果の成績順位が公表される。目に見える形で順位が分かるのだ。



 目を瞑る樹の脳裏に歓迎会で見た作品がちらつく。

 絵術師は樹の夢だ。


 まだスタート地点。

 ここからだ、ここからなのだと希望がふつふつ湧き上がる。兄の環に追いつくためには一般教養もできなければ話にならない。

 ふう、と樹は深呼吸をすると開始の合図で試験用紙を表に返した。



 問題を読み始めた棗は久しぶりの試験の感覚にどこか懐かしさを覚える。

 入試の後しばらくはなかったがこれからはまた定期試験に模擬試験、実力試験と様々な試験があるのだろう。


 棗は決して勉強が好きなわけではない。

 しかし勉強している方がなにかと有利であることを知っている。


 自由に生きるためにも、自分で進路を選ぶためにも、必要なことだから手を抜かない。

 それだけだ。



 千景は長い脚を組み替えると頬杖をついてシャーペンをぷらぷらと遊ばせる。

 難しい。


 不良というレッテルを貼られてきた千景ではあるが中学校時代、勉強は不得意ではなかった。カンニングだなんだと疑われるのでまともに受けなくなったが入試は別。

 おかげで今ここにいるわけだ。


 しかしやはり難易度は高い。

 新入生試験ということで舐めていたが下手すると入試より難しいのではないだろうか。視界に入る金髪に、千景はその考えが間違いではないだろうと思う。



 志希の筆は一行に進んでいなかった。頭を抱えているうちに時間が経つ。

 国語はあまり得意ではないのだ。



 試験監督は担当の葉山。

 一日をかけて五教科の試験が行われる。


 かりかりこつこつ、シャーペンを走らせる音。

 葉山がゆっくりと歩き回る気配。


 静かだ。

 悠里は思った。


 カンニングを疑われないためにフードは外している。すぐに気分が悪くなるかもしれないと思っていたのだが、試験中の空気はそれほど悪くない。


 一番前の席なのは運がよかった。悠里の視界には余計なものが入らない。

 最初から止まることのなかった手は最後の問題の解答を書き終えてやっと止まる。


 ふと窓の外を見やると桜の花びらが舞っている。その向こうはあいにくの曇り空だ。



 歩き回っていた葉山は少し安堵していた。

 なかなか癖のあるクラスだと思っていたが試験の様子を見ているとどの学生も芯があるように思う。

 それぞれがそれぞれの想いを胸に抱いているのだろう、とあたたかい気持ちになるのだった。



「次は数学だね」

 胡桃はそう言うと、と両手を上げて伸びをした。


「切り替え早いな」

 真琴は少し国語でダメージを受けている。そもそも勉強そのものが得意ではない。


「数学のあとが怖いな」

 数学が苦手な理紅が言う。精神力を削られる教科だ。


 回収した国語の試験を持って教室を出ていっていた葉山が戻り学生も席に戻る。

 数学が終わり、続いて英語の試験が終わると午前の試験が終了した。



「疲れた」

 真琴は机に突っ伏した。


「ほら真琴、早くご飯食べに行こ」

 同じように疲れた様子で、しかしすでに扉に向かいながら理紅が言う。早く行かないと食堂が混んでくる。



 樹もまた足早に食堂に向かったが、入るとすでに多くの学生がいてあちこちでグループごとにかたまって食べていた。

 いつものことだ。


 今日は模試を受けているはずの上級生たちを見ていても影響力の強いグループや華やかなグループ、存在感の薄いグループや不良グループなど自然と分かれている。


 新入生も同じだった。

 入学してまだ一週間だというのに教室でも廊下でも授業中でも休み時間でもほとんどがグループ行動だ。


 樹の兄である環は賢い人間の集まったグループにいる。

 樹は環に近づきたかった。

 環のようになりたい。

 強いグループではなく賢いグループに入りたいのだが理想的なグループはない。


 棗や悠里のような特別な魅力のある者がどのグループにも属していないのは不思議なことだ。しかし彼らのような者が近付くなという雰囲気を出せば人は本当に近付けなくなるものなのだ。


 樹は少し焦っていた。

 まじめに勉強をしていろんなことで切磋琢磨できるような、そんな友達がほしかった。学力もやる気も高い学生が集まるここでならそういう友達ができると思っていた。

 ただそんな相手の見つけ方が分からない。


 今後、新入生としてではなく一年生として本格的に授業が始まり定期試験が近付けば自然とそんな人たちと出会うことができるかもしれない、ともやもやした気分に区切りをつける。

 おいしい和風ハンバーグ定食に満足し樹の気分はずいぶん浮上した。



 そんな時だった。

 彰たちが樹の後ろを通って行った。

「暗いな」

 笑い声と共に聞こえた言葉が樹の耳に届いた。

 樹はぐっと身構える。


 一寸あと振り向くとすでに彼らは食堂の扉から出ていこうとしていた。

 何の話かは分からないが自分のことを言われた気がした。しかしむしろここにいることに気付かれていなかったかもしれない。


 集団生活の場においていくつものグループができるのは当たり前だ。

 そしてなかなかどこにも馴染めずにぽつんと浮いてしまう弱い存在ができるのもまた自然の成り行きだったりする。


 目立たないだけならいいのだが、時折そうした弱い存在を見つけては罵って自らを優位に思いたい者もいる。

 そんなもの気にはしない樹は、それでも決して気分が良いわけではなく、味の分からなくなったハンバーグを飲み込むと教室に戻ろうと立ち上がった。


 午後の社会と理科を終えるととりあえず試験がひとつ終わるのだ、と自らを奮い立たせる。

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