第19話

 いつものように日の出より前に目を覚ました悠里は、静かにベッドの中で目を開ける。


 どうにも息苦しい。


 むくりと起き上がると窓辺に向かい、カーテンを開けた。


 外はまだ暗い。






 悠里は音を立てずに着替えると、部屋を出てそのまま寮を出る。

 まだ早いが、そろそろ帝祥荘を出ても大丈夫だろうか。


 ぎいい、と重い扉を開けて、するりと身体を通す。

 誰ともすれ違わなかった。

 被っているフードをさらに深く被り、手をポケットに入れて歩く。


 ふわり、ふわり。

 柔らかな風を纏い、実に軽やかに歩く。


 誰もいない学生会館。悠里は迷うことなく卒業制作の展示エリアに近寄る。

 目当ての作品以外には目もくれず、一つの作品の前で立ち止まる。

 じっと見つめるのは、暗い夜の世界を描いている絵だ。


 哀しげな、悲鳴のような泣き声が聞こえる。

 音ではないので耳には届かないが、悠里の頭の中で響く。


 悠里は初めての絵術実習を思い出していた。

 使ったことがなかった特殊キャンバスで、思いがけず安定した物理絵画を描いてしまった。新入生試験で満点を取っただけで騒がれたのだ。さすがにこれでは、いろいろと追究される。


 そう考えて焦り、止まれと願って絵に触れた。

 するとどうだろう。

 絵力をまったく纏っていない状態の、ただの絵になってしまったのだ。


 今まで物理絵画に触れたことは何度もあるし、こんなことは初めてだった。なぜなのかは分からない。


 しかし、これは使える。

 樹が倒れたのはこの絵のせいだろう。他にも影響が出てくるかもしれない。


 そんな理由をつけてはみるが、結局は早くこの泣き声を止めたいのだ。


 止まれ、止まってくれ。

 悠里は再び願う。


 ゆっくりと手を伸ばし、絵に触れた。


 ばちり、と前回よりも大きな音が響く。

 それもそうだ。前は悠里が感じただけで、実際に空気を揺らしたわけではなかった。


 しかし、今回は違う。

 それは確かに空気を揺らし、音として耳に届いた。


 悠里の足元には、真っ二つになった絵が静かに横たわっていた。






***************


 朝、ジョギングに出ていた真琴が、いつもより早く帰ってきた。

「学生会館で何かあったみたいだよ」

 食堂で朝食をとる葵たちにそう告げる。

「食べ終わったら行きましょ」

 彼女たちは何があったのかを確かめようと急ぐ。


「卒業制作が壊されたらしい」

 学生会館へ行くとそんな声が聞こえ、何があったのかはすぐに分かった。授業まではまだ十分に時間があるのに、多くの学生が集まっている。


 どいてどいて、と言いながら尾崎がその中心に入って行った。あとから来た葉山が、教室に行くようにと学生を促す。なかなかその通りには動かないが、それでも朝のホームルームが始まる時間にはそれぞれが教室に集まっていた。


「話は聞いていると思うが、ある学生の卒業制作が壊された。学生会館に飾られていたものだ。心当たりがある者は」

 と話を続けている葉山の声を聞きながら樹は、やった者も、それが誰かを知ってる者も、言うわけはないだろうと思っている。


 しかしながら、多くの者の予想に反して手を挙げる者がいた。

 悠里だ。


「心当たりがあるのか」

 葉山が聞くと、

「僕です」

 悠里は簡潔に答えた。は、と固まる教室内。


「一応確認するが」

 葉山が恐る恐るといった様子で教卓を離れて悠里の方へと近付く。

「何がだ」

 分かってはいても、理解できない。葉山はみんなの代表として疑問をぶつけた。


「だから、壊したの、僕です」

 何を当たり前のことを、とさも当然のように答える悠里。今度は予想を裏切ってはくれなかった。


 悠里はそのまま職員室に呼ばれ、次の葉山の授業は自習になる。

 なんとなく壊したくなった。それが悠里の言い分だ。

「なんとなくって」

 葉山が呆れるのももっともだった。


 卒業制作は卒業前に受ける絵術師試験の一次審査に提出するものだ。そのため、みんなが渾身込めて制作に取り組むし、教師もまた期待している。


 卒業制作を壊されたとなれば、その学生は今年の試験に作品を提出できないことになる。この学校に通い、絵術師を目指す学生が、同じように絵術師を目指す学生の卒業制作を壊すなど前代未聞だった。


 一般の高等学校よりも高い学力が必要なこともあり、他人を蹴落とすためにそのような暴挙に出る者もいなかった。

 悠里の処分は免れないだろう。学校側ももちろん責任を問われるに違いない。すぐにでも被害を受けた学生の親から苦情が来るのは目に見えている。


 そのため、それより先に直接詫びを入れようと、学生の担任はすでに学校を出ていた。学生本人はショックを受けて医務室で寝込んでいる。


「とりあえず停学処分にはなるだろう。職員会議で決定するまで、寮で待機だ」

 待機している間に反省文を書け、と葉山は言った。処分決定の基準にもなるとのことだ。はい、すみませんでした、と言うと悠里は出て行った。






***************


 一日の授業がここまで長く感じられたのは初めてだ。棗たちはみんな、悠里はどうなったのだろう、と気が気でない。


 授業が終わって寮に戻ると、リビングに悠里の姿はなかった。

「部屋にもおらんかったら職員室行く」

 言って志希は走ってリビングを抜け、階段を上がる。棗たちもあとに続いた。


「いるかどうか教えて」

 千景の背中に葵が声をかけると、千景は振り向いて頷き、扉の向こうに消える。あとには不安気な少女ら五人が残された。


 志希が寝室に入ると、心配していたにも関わらず悠里は当然のように、でんとベッドの上に寝転んでいた。

「おったー」

 ここにいたのだ、と安心した志希はへたりと座り込む。


「謹慎ってさ、図書館もだめなのかな」

 緊張感のまったくない悠里がそう尋ねた。

「謹慎処分なの」

 樹が聞き、

「というか停学かな」

 起き上がって悠里が答えると同時に、千景は葵たちに伝えてくると言って部屋を出て行った。


「志希はお前のこと大好きなんだから、がっかりさせてやるな」

 座り込んだままの志希を立たせながら棗が言う。

「期待を裏切って悪いけれど、僕は君が思うほどいいやつじゃないよ」

 少し悲しそうな、残念そうな表情で悠里は志希に向かって言う。


 反省文を書きなさいと言われた悠里は、寮でだらだらしているよりは図書館で勉強する方がよっぽど反省していることになる、などと理由をつけて、図書館に行こうとする。


 今までも悠里は注目を集めていたが、その分、今回の件で突き刺さる視線は鋭かった。

 食堂でも悠里は化け物のように見られた。


 化け物を見たこともなければ、化け物を目にした人間を見たこともいないが、とにかく人間ではない何か、人外のように見られているに違いない。


「人でなし」

 そういった類の言葉をかけられる。特に上級生からの風当たりが強い。卒業制作の大変さを分かっている者たちだ。食堂の人が少ない時間を選んだつもりでもこれだ。悠里としては一日くらい食事を取らなくても平気なのだが志希たちに連れて来られた。


 ちょうどトレイに食事を載せた学生が通りかかる。悠里を睨んだかと思えば、お茶を手に取った。


 一瞬だった。


 悠里はその手の動きで次にどうなるのか分かったが、避けようとはしなかった。

 お茶をかけられるなんて漫画みたいだ。そう思うと同時に、ここはおとなしくかけられた方がいいだろうと考えた。


 だから、後ろから腕を引っ張られ、目の前にお茶が広がったのには正直驚いた。

 腕を引いたのは棗だ。


「おい、危ねーだろ」

 静かに怒るのは千景。食堂には熱いお茶か冷たい水しかない。食事を運んできた学生のそれは色からしてお茶のはずで、それがまだ十分に熱いことは想像に難くない。服が濡れるだけでは済まなかっただろう。


「穂積が卒業制作を壊すのはよくて、その穂積にお茶かけるのはだめってか」

 はん、と笑って言った。


 空気が凍る。


 事実、千景たちはまだ悠里に直接話を聞いていない。謹慎だとは聞いたが、卒業制作を壊したことは話題にしていない。


 すると、悠里はくるりと踵を返した。

「悠里」

 志希が声をかけるが、悠里はお茶をかけてきた学生に首だけで向き直る。

「僕が何をしたのか分かっていないこのお人好したちにもって言ってやって」

 かわいそうじゃないか、言って食堂をあとにしようと歩き出す。


 つまり志希たちは悠里が何をしたのか理解していないから悠里と仲良くしていられるのだ、ということか。

「どういうことよ悠里。私たち別に」

 葵が言いかけたが、悠里は足を止めなかった。それどころか、棗が葵を止めて、食堂の奥へと歩いていく。

 悠里を放っておけ、ということか。


 志希は最後まで抵抗したが、千景に連れられて棗たちに続いた。

 周りの学生の反応は、悠里に対するそれとは違う。あんなわけの分からないやつに振り回されて気の毒だ、と同情めいたものだった。


 それでも棗たちは他の学生に混じることはなく、離れたところで固まって席を取った。

「なんで悠里放っといたん」

 志希が苛立たし気に言う。今まで何かを話そうとしても、千景たちに止められていたのだ。


「どう思う」

 志希の質問には答えず、棗が尋ねる。何が、とは言わなかったが、みんな分かっていた。


「誰かにはめられてんて」

 志希がすかさず答えた。

「おれとは違って、悠里が自分で言ったんだぜ」

「じゃあ誰かをかばってるんちゃう」

 千景の突っ込みにも素早く返す。


「つまり、悠里はやってないってことだよね。でも」

 樹は箸を置いて続けた。

「悠里が自分でやったって言い続けている限り、処分は免れない。停学どころか、退学かもしれない」

 胡桃と理紅がはっと息を飲んだ。


「本当に悠里がしたのかしら」

 梓が不思議そうな顔で呟く。

「そんなわけないわ。棗の絵を身体を張って守ったじゃない。絵を大切に思ってなくちゃできないことよ」

 葵が力を込めて言った。


「壊していないとしたら、どうしてかばうようなことをするのかな」

 胡桃が言うと

「もしほんまやとしたら、なんで壊したりしたんやろ」

 理紅も首を傾げる。


「とにかく、悠里本人に確認しないといけないことがたくさんあるんだよな」

 真琴がうーんと唸りながら言う。

「それやったらなんでさっき悠里放っといたん」

 志希が再び話を戻した。

 棗を見ている。


「他の学生の反応は、普通の反応だ」

 悠里に罵声を浴びせる学生たちの反応のことだ。熱いお茶をかけるのは普通だとは思わないけどな、と付け足す。


「だからここにも、悠里に失望したって人がいても仕方がないと思った」

 棗はそれを確認しておきたかったのだ、と言う。


 それに棗は、悠里本人に確かめたいことはたくさんあるが、先ほどの悠里の態度を見て、ひとつの不安を抱いたのだ。

 つまり、悠里が何も教えてくれないのではないか、ということだ。実はこういうことなのだ、と弁明することもなかった。


 悠里が教えてくれないとなると、棗たちが悠里をかばって他の学生を敵に回すことが得策だとは思えない。どこからも情報を仕入れることができなくなるからだ。


 そしてもちろん、本当に悠里が理由もなく壊した、というような最悪の状況の可能性もなくはないのだ。


「俺は情報がほしい。他の学生の前で悠里をかばうようなことをするつもりはない」

 棗はまっすぐ志希を見て言った。

 棗の話を理解した志希は、渋々頷いた。


「見えないはずのものが見えた」

 胡桃がぽつり、とこぼした。

「どうした胡桃、大丈夫か」

 いきなりおかしなことを言い出した胡桃に、真琴は真剣に心配して聞いた。

「あ、違うの、そんな話を思い出して」

 今の自分が周りからどう見えたかを理解した胡桃は赤面し、ぶんぶんと顔を振って言った。


「千景が言っていた話よね」

 葵が話を千景に振る。

「七不思議のやつか」

 志希が言うと

「またあの話か」

 千景は呆れて言った。一昨日からあの話に振り回されている気がする。


「つまり、学生会館に何かあるんだね」

 樹は頷きながら独り言のように呟く。


 見えないはずのものが見えた。


 怪談のように聞こえるが、実際の話は、学生会館でいきなり倒れる人や、いきなり泣き出す人がいただけのこと。樹もその倒れた一人だ。


 昨日、彼らはそれを調べたつもりだったが、何も分からなかった。

「悠里もその一種で、いきなり破壊的な行動をした、と考えたら筋は通るな」

 棗も頷きながら言う。

「壊した絵そのものに何かあった可能性もあるよな」

 千景が呟く。確かに、その可能性も捨てきれない。

「とにかく、卒業制作を調べよう」

 樹が言った。

 学生会館に飾られている絵について調べてみた方がよさそうだ。

 彼らはそう結論を出した。

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