夜明けの春霞

第1話

 わくわく、と地面を踏みしめる音。

 どきどき、と木の葉の擦れ合う音。

 全ての音が変換されて脳内に届くほど、辺りは期待と不安に満ち溢れている。


 バスから降りた新入生と保護者たちが湖に浮かぶ一本道をぞろぞろと歩く。暖かな春の日射しの中、それでも吹く風は湖の上を通るせいか少し冷たい。



 新入生たちを包む真新しい制服。保護者たちがまとう僅かな香水。妙に落ち着かない香りが辺りを漂い、きょろきょろと見回す少年少女たち。それはさながら異次元に落ちた迷い子のようだ。

 こんなにもたくさんの人がいるのに、それぞれが迷い子のよう。その上、保護者たちまでもが同じように辺りを見回している。


 しばらく歩き、厳かな石造りの門に彫られた「帝祥絵術ていしょうえじゅつ高等専門学校」という文字を眺めながら正門をくぐる。

 彼らの眼前に広がる一面の芝生の中には白い道が浮かんでおり、その両端にはピンク色に染まった桜がずらり。まるで綿菓子のような満開の桜に縁取られた並木道はまっすぐ奥へと伸びていた。


 ずっと進むとピンクの綿菓子が途切れ、白い道は左右に分岐して奥へ丸く広がる。中央には今まさに水しぶきを舞い上げた噴水。そこが分岐点になっていた。


 右に伸びる道が繋がる先は十五歳から通う高等課程校舎。逆に伸びる道は二十歳から通う専門課程校舎に繋がっている。


 荷物を持ってきた者は学生寮が入っている帝祥荘に運ぶ必要があるため、どちらにも曲がらずにまっすぐ奥へと進んだ。

 遠くから来ており荷物を郵送している者は、体育館に直接向かうため案内通りに右の方へと進む。



 きょろきょろと周りを見渡す迷い子たちは、広大な敷地や生い茂る草木、壮大な建物に感心の息を吐き出す。と同時にその視界の隅の他者を観察する。これからの生活を共にするその仲間たちを。



 音や香りだけではない。ここの空気そのものが世界の隅に追いやられて外界から遮断されたような、居心地の悪い閉塞感と絶対的な安心感で満ちている。誰もが孤独な迷い子のようでありながらも、疑うこともなく周りを仲間だと認めている。



 そんな空気もなんのその。晴れ渡った空に浮かぶ真白い雲は、風に吹かれるようにぷかりぷかりと流れていく。


 いい天気だな。


 そんなことをぼんやりと考えながら空を見上げる黒髪の少年は、迷い子たちの中で圧倒的な異彩を放っていた。それはもっぱら容姿によるものだ。必要以上に整った容姿で立ち止まり、芯の強そうな瞳は柔らかく細められ、空を見上げる姿はまさに芸術。あまり似てはいないが、両親と思われる男女に連れられていた。

なつめ様、桜が満開ですね。この景色、とても美しいです」

 棗と呼ばれた少年はちらりと目線を動かすと、ああ、と短く答えた。空を見ていた視線を桜に移し、少しだけ目を細めた。彼の心には、花びらが舞うその光景が一つの絵画のように焼き付いているのかもしれない。

「付き添いが私共で本当に申し訳ございません」

 両親ではない付き人の言葉に棗は顔を向ける。

「いや、ありがとう。両親は忙しいから仕方がない」

 穏やかに言うその様子に、寂しさや悲壮感はない。 

「棗様、そろそろ体育館の中へ」

 無言のまま軽く頷き、歩き出す。体育館に入ると学生と保護者は離れるため、それがしばしの別れの挨拶となった。



 大昔から神秘的な力を持つと認識されていた描くという行為。絵画の持つ意味や絵画に込める想い、描く道具が変わっても、その力はいつも人の理解を越えていた。大きすぎる力で描かれたモノは時に人を取り込む魔術のような力をさえ持つことがあった。未だに科学で説明のつかない部分も多くあるが、確かに存在するその力を絵力えりょく、絵力を扱うことを絵術えじゅつと正式に認めることになったのはずいぶん前のことだ。


 偉大な故人の描いたモノの本当の絵力は、製作者がすでにいないために今ではよく分からない。絵術の最盛期といわれる時代の絵画は数多くあるが、研究がそこまで進んでいなかったのだ。それでも古くからある絵画の一部は、今でも観る者を魅了する力を秘めている。


 最盛期と比べて今の時代は絵力を用いる描き手が少なく、希少価値さえあると言われている。それは時代の移り変わりとともに力が変化したからなのか、世代の移り変わりとともに絵力を持つ血が薄くなってきたからなのかは分からない。否、そもそも絵を描こうとする人が少なくなっているだけかも知れない。

 絵を描くことや何かを創り出すこと、そういった芸術というものは、特別な力がなくとも十分に大きな力を持っている。それが多くの者の共通の認識だ。


 この帝祥高専もまた、特別な力は関係なく芸術も学問も学びたい意欲の高い学生を迎え入れている。そのため芸術の専門学校というだけではなく、他の高等学校よりも高い学力が求められることで有名だ。ハードルが高い分、学費は安く、また全寮制ということもあり、自らの道を進んで行きたい棗にはぴったりの学校だった。



 視線を集めながら体育館の入口に向かって歩き出したその棗を見ていた長身の少年は面白くなさそうな表情を浮かべている。ピンクがかった茶髪は長く、後ろでハーフアップにされた髪型だけを見ればずいぶんかわいらしいが、長身のせいでかわいらしい印象を与えない。

「なにを拗ねているの、千景ちかげ

 隣の女性が声をかけた。千景と呼ばれた少年は、じと、と視線をその女性に向ける。

「別に拗ねてない」

 むすりとしたまま言うと、というか、と続ける。

「なんで姉貴まで来るんだよ」

「あら、弟の晴れ姿を見てもバチは当たらないでしょう」

 姉は弟の不機嫌な空気をもろともしない。ねえ父さん、と後ろの男性に向き直った。

「そうだな。千景がまさかこういう学校を自分で見つけて、自分で進むことを決めるとはな」

 感慨深げに呟く父親は、立派な建物を眺めていた。千景は少し拗ねたような、照れたような表情で口を結んでいる。

 


 そのさらに後ろを真面目そうな少年が母親と思しき女性と共に横切る。きっちり制服を着こなしている様子に、しゃんと伸びた姿勢。優等生を絵に描いたような少年はずいぶん緊張しているようだ。無言で歩きながらじっと体育館の方を見つめている。

「いいわね、いつき

 ややあって母親がようやく口を開く。

「決して粗相のないようにね」

 まるでこれからどこかのお偉いさんにでも会おうとしているかのような実に厳かな態度。

「うん、分かっている」

 頷いて顔を上げると、棗が入って行った体育館の入口を見つめた。ふぅっ、とまるで今まで呼吸を忘れていたかのように、深呼吸をした。その様子を見た母親は、優しく微笑んだ。

「それと、お兄ちゃんにもよろしくね」

 樹は母親を見ると、うん、と頷く。ようやくそこで笑みが溢れた。

「元気かな、兄さん」

 その時、樹はふと視界に入ったものに眉をひそめ、すぐに視線をそらした。



 それは金髪の少年だった。お世辞にも真面目とは言い難い雰囲気である。制服を着崩した様子が先ほどの樹とは正反対だ。その金髪少年は両親に連れられていた。

「志希、お願いやから親呼び出しとかされんようにしてな」

 父親らしき男の切実な言葉に母親らしき女は、遠いんやからね、と頷き同意した。言葉は西の訛りだ。

「オレどんだけ問題児やねん」

 呆れたような仕草をする志希と呼ばれた少年を、事実だろうと父が小突く。

「せっかく入れたんやから少しは真面目に」

 言いかけた母親の言葉を遮るようにすぐ隣を、がらがらがらり、と立て看板が運ばれていく。三人は会話を止めると道を大きく開けた。


 職員と思しき者達が運ぶそれは入試の合格発表で使うような大きさのもので、風でぺらりと紙がめくれると名前ようなものがちらりと見える。学生寮の方向へ向かって運ばれていく。

「なんやろ、あれ」

 訝しげに見る志希。合格発表はもうないから、クラス分けだろうか。まぁいいか、とくるりと踵を返し、志希たちは体育館へ向かった。



 その運ばれていく立て看板を、何だろうと見ながら別の長身の男も道を開けた。そのすぐ横にいる少年はフードを被っていた。

 一瞬だけフードの下から覗いた不思議な色合いの瞳が立て看板を捉えた。しかしそれはすぐに伏せられ目深に被ったフードに隠れてしまう。

 長身の男は少年のそんな様子を見て優しく、そしてどこか残念そうに微笑んだ。

「悠里、せっかく寮なんだから友達たくさん作るんだよ」

 悠里と呼ばれた少年は小さく肩をすくめた。

「気が向いたらね」

 フードの中でうんと小さく呟いたその声はしかし、凛と澄んでまっすぐ空気を揺らし男の耳に届いた。




 新入生たちは経験上、学校長の挨拶と聞くと長話を予想して構えていた。しかし幸いなことにここの学校長の挨拶は短かった。


「校内にある園庭は基本的に私が手入れをしています」

 初老の男性という印象の学校長は、人がよさそうな柔和な笑みを浮かべてそう話した。ゆったりと静かに話す言葉を全員が聞き取れるように、体育館内はしんと静かになっている。

「園芸に興味がある者は、ぜひ手伝いにおいで。隣接した森はなかなか奥が深いので、あまり入り込まないよう気をつけなさい」

 祝辞や激励の言葉の他にはこのような親しみのある言葉を述べるにとどまった。



 そのあとは貴賓である国家絵術師統括隊隊長の挨拶だ。元々姿勢のよかった短い髪の少年の背筋がさらに伸びる。少年は挨拶をしている隊長の息子だ。


 帝祥高専は学力が高いことで有名だが、絵術の専門学校としてやはりその方面に強い。

 絵術師の国家試験を受験するには五年間の高等課程を、そして一次審査免除のためにはその後に二年間の専門課程を終える必要がある。資格を取得できるのはその中でも一握りの者だ。


 それらの絵術師を監視しまとめるのが統括隊。国家絵術師の中でも特に優秀な者たちで組織されている。このような統括隊がなかった時代には、戦争に絵術が用いられることもあったという。そのようなことが起こらないように、設置されたのが統括隊。

 そしてそのトップがこの氷室左京という男。こうして毎年、国家絵術師を多く輩出している帝祥高専の入学式や卒業式に出席しているのだ。


「研究の歴史が浅く、まだ多くの課題を残している絵術は優秀な研究者を求めている」

 絵術師とは作品を作るだけではなくむしろ研究者としての仕事が主だったりする。

「ここにいる多くの学生たちがなんらかの形で絵術と関わり、大きく発展させていくことを期待している」

 氷室もまた長くは語らずいくつかの展望や見解、そして祝辞を述べるにとどまった。



「新入生代表、栗生棗」

 少年が登壇すると、ざわり、空気が振動する。一度視線が貼りつくと剥がすことは容易ではない。

 棗はどこか他人を惹きつける魅力を持っていた。決して威圧的ではないがそれでも相手が勝手に萎縮してしまうような、そういう威力。


 その棗を面白くなさそうに見ていた千景の機嫌が急降下する。千景も容姿は整っているし頭も決して悪くない。絵力だってある方だ。

 棗のように注目を集めるようなことはないが、そこは大きな問題ではない。

 うっとり、ととろけそうに棗を見つめる瞳がひとつ、ふたつ、みっつ、とそこで千景は数えるのをやめた。

 もちろん少女ばかりだ。しかし後ろの方では保護者の女性たちも同じようなものかもしれない。

 ライバル、と千景は口の中で呟いた。

 世間の評価だとか注目だとかそんなものはどうでもいい。女性の視線を集めるというその一点において千景は棗をライバル認定せざるを得ないのだ。

 待てよ、と千景は思う。

「新入生代表ってまさか…」

 千景の勘は正しく、帝祥高専の新入生代表挨拶はまさに首席、つまり入試でトップの成績だった者がするのだ。

「天は二物を与えたか」

 格好つけたように千景が呟いた。



 ふと視線をそらした千景の目は、女性たちと同じとまではいかないが熱を帯びた瞳を捉える。

 出席番号、つまり氏名順に並んで座る中で新入生代表の栗生棗だけが端に座っていたため、椎名千景の隣にその上條樹の瞳はあった。

 樹は憧憬の眼差しで棗を見ている。

 妬みすら抱かせない圧倒的な威力を放つ棗であるが、しかし少年たちは多少おもしろくないと感じているのもまた事実。

 その中でも感心を通り越したその瞳は千景には目立って見えた。



 挨拶が終わると棗は席に戻る。その隣は本来なら一番端だったはずの天野志希だ。棗を憧憬の眼差しで追っていた樹の視界にも金髪少年の志希が入り込み、再び顔をしかめると視線を外した。


 そこから遠く離れた反対側の方には未だにフードを深く被る穂積悠里の姿があった。

 何か理由があるのだろうと周囲の者は放置しているらしい。

 フードの中では小さく寝息が漏れていた。

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