第4話

 食べ物や飲み物が揃い華やかに飾り付けされた食堂に入寮生が集まる。どうやらこの日の夕食は全員でこの歓迎会でとることになるらしい。


 他の部屋の入寮生たちは穏やかに談笑している。だんだんとばらけて食べ物や飲み物を少しずつ取っては先輩たちとも打ち解け始めていた。


 入寮式で挨拶をした氷室彰もルームメイトと打ち解けているようだが、リーダー彰とその愉快な仲間たちといったところか。樹は彼らにそんな印象を持った。


 当の樹は専門課程の学生である兄とその友人たちの輪の中に入っている。同年代と打ち解けるのは難しい。


 わやわやと賑やかなその中でも特に華やかな数名の女子学生が集まっている。千景はそこにいた。

「千景くんっておもしろいんだね」

 ふわふわと笑う女の子。千景はかわいい女の子が好きだ。それはもうひたすらに。

 男とくだらない話をしているよりかわいい子とおしゃべりしている方が楽しいに決まっているじゃないか、というのが千景の意見だった。

「彼女はいないの」

 よく尋ねられる質問だが彼女をほしいとは思っていない。そういう女好きではないのだ。

「一人に絞ることができないんすよね」

 へらりと笑うとそう答える。

 先輩相手に砕けた敬語で話す。その馴れ馴れしさで千景はかわいい女の子とすぐに打ち解けられる。

 これは一種の能力だ。

 特別にかわいい女の子というのは男から声をかけられ慣れているか、もしくは高嶺の花で声をかけられることにまったく慣れていないかのどちらかだ。

 しかしそのどちらであってもかわいいということを認識しているので変に構えられることがない。だから仲良くなりやすい。


 端の方で小さく目立たないように立っていた棗はしかし一瞬で周囲に人垣ができ身動きが取れなくなっていた。

 志希は居心地の悪さを感じて理紅に近寄る。

「椎名と上條が喧嘩みたいなんしてた」

 ついさっき真琴から、喧嘩したわけじゃないのだろう、と言われたばかりなのにと落ち込む。

「うせやん」

 驚き三分の一、呆れ三分の二といった表情で理紅は振り向く。

「じゃあちょっとはましになったってことか」

 無関心であるより喧嘩くらいする方がましだと言った志希の言葉を引っ張り出して真琴は言う。

「全然ましちゃう」

 オレが悪かったとでも言いたげに志希は拗ねる。


 ぱんぱん、と手を叩く音がした。

「さあみんな聞いてくれ」

 寮長だ。

「最初にある程度は食べて飲んで話す時間を取ったが入寮生たちは打ち解けてきただろうか」

 全然打ち解けてへんわ、と志希が小さく小さく呟くと隣から理紅が肘で小突く。

「自己紹介の時間だ。入寮生はこっちに集まってくれ」

 ぎこちない雰囲気なのは志希たちの部屋だけなのだろう。みんな楽しそうな、わくわくとした面持ちで前に集まる。苦い表情でいたのは四人だけだ。


 あれ、四人、と志希は首を傾げた。悠里がいない。

 それぞれが簡単な自己紹介を行い、

「あと一人、穂積悠里くんは体調不良で休んでいる」

 寮長が代わりに名前を紹介すると、逃げよったなあいつ、と志希は顔をしかめた。

「新しい仲間を歓迎する」

 寮内は大きな拍手で包まれた。


 自己紹介が済むと入寮生は再び散らばる。棗はそれに紛れて早々に部屋に戻ったようだ。

 千景はまた共有スペースに戻ろうとするが、途中で理紅たちの輪にいる志希を見つける。いつの間に彼女らと仲良くなったのだろう、羨ましい限りだと思った。

 しかし志希がいるからこそその輪に入って行く気はない。もし彼女らだけなら臆せず話しかけたというのに。千景はふうとため息をついて階段を上がる。


 樹が飲み物を入れてテレビ前のソファに向かうとその前に人影が現れた。

「俺の分の飲み物を入れてこい」

 彰のルームメイトの誰かだ。

「なんでぼくが」

「お前、栗生の家来だろ」

 千景が言っていたことを樹は思い出した。

「お前の評判が下がると栗生の評判も下がるぞ」

 嫌な笑みを浮かべて言う。その後ろにも数人、笑っている学生がいる。しかし他の学生はそれぞれ輪をつくり、この会話に気づいていそうな者はいない。

 説明するのも反論するのもつっかかるのも面倒だ。そう考えた樹は言われるがままに飲み物を取りに行くのだった。


 そんな樹を見た志希は

「上條はあっちの部屋のやつらと仲良くなってるやん」

 なんてやつや、と唸る。

「仲良く、ね」

 梓は鼻で笑うように言った。そこに棘を感じた志希は首を傾げる。

「むかつく笑い方だね、あいつら」

 真琴も苛ついたように言う。

「なんなん」

 尋ねる志希に葵は微笑んだ。

「なんでもないわ」

 それより、と志希に詰め寄る。

「穂積くんはどうしたのかしら」

 そうそう、と理紅も同意する。

「どうしたんやろな」

 さあ、と聞き返すくらいの調子で言う志希。事実、何も知らないのだ。荷物整理をしている途中で一度部屋から出たのは見た。もしかするとその際に寮長に体調不良のため欠席と伝えに行っていたのかもしれない。

「もし穂積くんがいたら一番目立っていたよね」

 飲み物を手にして戻ってきたのは葵らのルームメイト。大塚胡桃という名前は、先ほどの自己紹介で覚えたものだ。今日話した時は、名前を覚えていなかった。

 確かに、とみんな頷いた。そういえば同じクラス、つまりこの寮の入寮生の半分しか悠里の素顔は見ていないのだ。


「なんでフードなんて被ってるんやろ」

 理紅が腕を組んで考える。たとえば顔に怪我を負っていてそれを気にして隠しているのかと推測していたくらいだった。

「あんな綺麗な顔なら見せびらかせばいいのにな」

 言った真琴に梓は

「綺麗すぎて注目されるのが嫌なのよ」

 お皿にたくさんの食べ物を乗せている。誰より歓迎会を楽しんでいるように見える。主に食事を。

「でも机の上飛んでたで」

 注目が嫌ならあんな目立つことをするだろうかと志希が言う。

「フードで顔を隠して、机を飛び石にして、顔を出したと思ったら、体調崩して寝込んで」

 指折り事柄を挙げる葵。

「忙しい人ね」

 梓の呟きに志希は思わず上階を見上げた。今頃くしゃみしているかもしれない。




 入学初日のスケジュールは無事に、多少ぎこちない部屋もあるにはあるが終了した。

 歓迎会を終えて各々が部屋に戻り、入寮生たちの部屋は遅くまで話し込むところもあれば疲れて早く就寝する部屋もあった。

 風呂に入り結局ルームメイトとは話さずに志希は布団に入る。携帯でアラームをセットするがまだ眠気はきそうにない。

 ルームメイトとこんな雰囲気であることは予想外だったが仕方がない。しかし問題は小さくなかった。

 志希は朝が苦手なのだ。それはもう絶望的に。

 基本的に起きられない。明日は通常授業の初日。実家に電話をして起こしてくれと頼もうかとも考えたが、それはあまりにも恥ずかしい。どうしよう、ぐるぐると悩み出した志希はそのまま深い眠りについた。




 就寝時間ぎりぎりまで談話室で話し込んでいた千景が部屋に戻ると、まだ電気がついていた。樹のカーテン以外は閉まっている。

 すぐに後ろから樹が部屋に入ってきた。向かいの部屋、学習室にいたのだ。就寝時間なので戻ってきたのだろう。

 あ、と樹は思わず立ち止まり部屋を見て、二人以外がすでにベッドに入っていることを確認する。

「電気消すぞ」

 ぶっきらぼうに言って千景は返事を待たずに消灯し、ベッドに入るとカーテンを引く。

 真っ暗になった部屋の中しばし樹は立ち尽くす。細くため息をつくと、すごすごと自身のベッドにもぐりこんだ。




___________________________________________


 翌朝、悠里は早くに目が覚めた。気分は随分よくなった。

 日の出より前に起きるのはいつものことだ。これは悠里の特技と言ってもいい。

 時間で起きてはいないので冬は慌ただしく朝を過ごすこともあるが、この時期の朝は早い。

 のそりとベッドを出ると窓際に寄りカーテンを少し開く。暗い世界にほっとする。

 もうすぐこの暗闇を切り裂いて太陽が昇ってくるのだ。


 少しずつ色付いてきた空を見ながら悠里は欠伸をひとつ。

 悠里は夜と朝の狭間が好きだ。だから日の出前に起きて夜を名残惜しみながら大好きな朝を迎える。

 世界がずっと狭間ならいいのに。

 それでも今日はなんだか薄暗い。曇りだろうか。

 いや雲ではない。薄ぼんやりと霞がかかっているようだ。

「春霞」

 かな、と口の中で呟く。淡く色づいた太陽の光が滲んでいる。

 ぼんやりと窓際に立ちつくす。

 水彩画のような景色に見惚れている。こんなにもちっぽけな場所にひっそりと留まっているには惜しい。


 同室の四人はまだ夢の中。静かで空気の振動すら起きなくて、まるで一人でいるかのよう。それでも確かにそこには悠里以外の人間がいる。

 そういう感覚が悠里は好きだった。

 四人とはほとんど関わっていない。しかし確かに誰かがそこにはいて、悠里は決して独りではないと思わせてくれる。独りではない状況で一人でいることが好きなのだ、恐らく。

 静かに物音をあまりたてないように気をつけながら着替えを済ますと部屋を出た。それから樹のアラームが鳴るまで、部屋には動きがなかった。




 千景が起きた時にはすでに悠里と樹の姿はなかったが、棗と志希のカーテンは閉まったままだった。

「結構ぎりぎりまで寝るんだな」

 感心してぼそりと呟くと着替えて顔を洗いに行く。朝食をとったらそのまま学校に行くつもりだ。


 だから、早くに起きすぎて朝食後に部屋に戻ったのは悠里だけだった。そろそろ学校に向かおうかという時間になっても棗と志希が起きる気配はない。

 二人のアラームは何度も鳴っていたのだが止めたのか止まったのかも分からない。

 悠里は悩む。今まで友達というものがいなかっただけでなく、ほとんど他人と関わることのなかった悠里は距離感が分からないのだ。

 これは起こすべきなのだろうか。そんな義理はないし元々さぼることや遅刻することに抵抗のないタイプかもしれない。いや、でも、この初日から遅刻して平気なタイプにも見えない。

 ここを放っておけばそれは彼らを意識的に拒絶することになるのではないか。別にそういうつもりはない。

 昨日は面白くてつい声をかけたが、実のところ積極的に関わりたいわけではない。ここで声をかければ関わることになるのではないか。

 待てよ、と悠里は考える。寮で共同生活をする時点で誰ともまったく関わらないなんてことができないのは当然のこと。


 そんなことを考えているうちにも時間は過ぎていく。千景も樹も戻っては来ない。

 致し方ない。悠里はため息をついた。

「栗生くん」

 遠慮がちに隣の棗のベッドに向かってカーテン越しに声をかける。返事はない。

「栗生くん」

 もう一度少し大きめに声をかけるがそれでも返事はない。

「開けるよ」

 言って静止の声がないことを確認すると少しカーテンを開ける。

 棗はうつ伏せになり枕に顔を押し付けている。その横で携帯が沈黙している。

「栗生くん、遅刻するよ」

 肩を揺すり少し上げた顔にその携帯画面を突きつける。時間が見えるだろう。

 携帯を見て次に悠里の顔を見た棗は驚き、ゆっくり起き上がった。

 余計なお世話だと自覚のあった悠里は棗が起きたことを確認すると携帯を元の位置に戻しそこを離れた。

 このやりとりでも志希はまだ寝ているようだ。俯いて首を振ると結局悠里は志希のベッドに近付いた。

「天野くん、起きているかい」

 返事はない。

 棗の時と同じように声をかけてカーテンを開けると携帯は振動していた。どうやらアラームを止めるついでにマナーモードにしていたらしい。もちろん志希はぐっすりだ。

「天野くん、初日から遅刻するよ」

 さっさと起きなと少々乱暴に揺すると志希は目を薄く開けて悠里を見て、一瞬でぱっちりと見開いた。

 悠里はそのまま部屋を出る。こんなにも朝起きられない人がいることに驚きだった。

 しかしふと悠里は足を止める。

 悠里は自分自身の寝起きと父親の寝起きしか知らない。驚きでもなんでもないのかもしれない。

 考え直した悠里は起こしてよかったものかどうか判断のつかないまま再び歩き出した。


 起こされた志希は慌てて着替えると、朝食を取る間も無く棗を追うように帝祥荘を出た。学校が近くて助かった、そう思いながら走る。

 ぴちち、と鳥が鳴き志希の上を飛んでいく。桜の並木道、斜めに入る太陽の光が零れて落ちてくる。ふと足を止めた志希はしばし見惚れるがすぐに我に返って再び走り出した。


 朝食は抜きだが一応初日から遅刻という事態は免れた。まだ礼を言っていない悠里を探すと、いた。今日もフードを被っている。

 先ほど起こされた時にはフードをしていなかったのだ。だからなおさら驚いて目が覚めた。それをしていると周りを完全に遮断しているようで話しかけにくい。

 授業はほとんどの科目で最初に教師が自己紹介し、それから通常の講義に入っていった。

 はじめこそ集中していた志希だが慣れるとすぐに、うとうとぼんやりと意識が薄れるのだった。


 棗もまたフードを被る悠里に礼を言えないまま授業を受けていた。

 そう、棗も寝起きが悪いのだ。絶望的に。低血圧のせいに違いない。

 しかしルームメイトに迷惑にならないようにと小さめの音でアラームを設定したのがいけなかった。明日からはもっと大きな音でアラームを設定しようと心に決める。

 同じように朝が苦手な志希がいて少し安心したのも事実。それでもこの先の朝に不安を覚えるのも確か。

 ごつん、と大きな音が響き視線が集まる。志希がおでこをさすっていた。

「緊張して眠れなかったのか」

 担任であり数学の教師でもある葉山が聞いた。

「あ、いやー、寝れたんやけど」

 反省というよりは照れたように言う。

「あまり気は抜くなよ、すぐに試験があるんだからな」

 ええ、と志希は驚き立ち上がる。

「驚かれたことに驚きだ」

 信じられないという顔をした葉山は教室を見回す。他の学生が驚いていないことにほっと安心した。

 志希も知らなかったわけではない。ただ昨日は昨日のことだけを考え、今日は今日のことだけを考えていたので完全に頭から飛んでいたのだ。

 ああ、そうやった、と頷いておとなしく座る。試験のことも考えなくては。

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