月の入るべき草を夢見る

御角

AIメンテナンス記録:0634

「武蔵野は月の入るべき山もなし、草より出でて草にこそ入れ」

 暗闇の中、モニターだけが点滅する部屋で一人、博士はそう呟いた。

「短歌、ですか?」

 明滅と共にまばたきを繰り返しながら、画面に映るAIは、文字通りクエスチョンマークを浮かべる。

「そう、はるか昔の歌だよ。おかしいよな……。山どころか、月も、草も、もうここには存在しないってのに」


 この土地は、かつて豊かな緑に溢れていた。しかし、たび重なる科学の発展と共に、地球は次第に大気汚染に苦しむこととなった。

 全世界を覆い尽くすほどのスモッグはいくら払ったところで決して消えることはない。そうして地球はいつの間にか空からの光を失い、植物はみな枯れ果ててしまった。

 ここ、武蔵野台地もその例外には漏れず、今やただ施設が点々としているばかり。その中でも一際、そびえ立つ空気清浄機の人工的に塗られた萌葱もえぎ色のみが、殺風景な荒野で嫌に目立っていた。


「正確に言えば、月はまだありますよ。ただ、ここからでは見えないだけです」

「わかってるよ、それくらい。それより機械の調子はどうだ。空気の清浄に問題はないか? エアリス」

 博士が問うと、エアリスと呼ばれたAIは一瞬でプログラム言語を並べつつ、器用にウインクまでしてみせた。

「今日も機械に異常はありません。ただ……」

「ただ?」

「空気の清浄化率は一年前と比べても、わずか二パーセント程度しか進んでおりません。力不足で申し訳ありません」


 大気汚染の深刻化を受け、人々は巨大な空気清浄機を各主要都市に配備した。

 エアリスは、この東京、武蔵野台地にある空気清浄機に搭載されたAIで、主に機械の統制を取ったり異常をすぐに検知したりといった働きをしてくれている。

「別にエアリスが謝る必要はないだろう。少しでも進んでいるならむしろ誇るべきだ。悪いのはここまで放っておいた挙句、AIに全部任せて他の星に逃げるような人間連中だよ。本当に、自分勝手な生き物だな。私たちは」

「博士は、避難なさらないのですか? もっと快適な星が、この空の上にはたくさん広がっているはずです」

「……馬鹿だな。私がいなくなったら、誰がお前を修理するんだ。AIがわざわざそんな気を回さなくていいんだよ、全く」

 博士がふてぶてしくそう言い放つと、エアリスはしばし逡巡しゅんじゅんして目を伏せた。

「ワタシは、もしかして博士をこの星に縛り付けてしまっているのでしょうか。ワタシが、自分で自分を修復できないばかりに、博士を……」

「違う!」

 博士は思わず机を叩き、勢いよく立ち上がった。なけなしの酸素をかき集めただけの空間で興奮したせいか、立ちくらみで視界が歪む。

「は、博士! どうか無理せず、お座りください」

「……ああ、心配かけてすまない。でもな、違うんだよ。それは絶対に違う。私はちゃんと、私自身の意志で、ここにいる」

 モニターを震える手で何度も撫でながら、博士は「大丈夫」と繰り返し呟いた。揺れるエアリスの瞳には、うっすらと涙がにじんでいた。

「考えてもみろ。お前を作ったのはこの私。頼れる仲間も家族もいない天涯孤独な私にとって、エアリスは我が子も同然だ。ひとりぼっちにさせるなんて、できるはずもないだろう」

「本当、ですか?」

「嘘をつく必要が、どこにある」

 博士の言葉に、エアリスは画面の向こうでそっと涙をぬぐった。


「ずっと不安だったんです。ワタシの——空気清浄機の隣にある発射台から、いつか博士がロケットに乗っていなくなっちゃうんじゃないかって。そう思うと怖くて。だから、一つしかないロケットを遠くに飛ばしちゃえばって……何度も、何度も考えました。でも、結局できなかった。博士の悲しむ顔は、見たくなかったから」

 確かに、他の国では緊急避難用のロケットを使って逃げ出した研究者が何人もいたということを博士は知っていた。空気清浄機に備え付けられたアンテナが受信した、数少ない情報の一つだった。

「ワタシ……悪いAIです。ごめんなさい、博士。出来が悪くて、ごめんなさい」

 謝り続けるエアリスを前にして、博士は何も言わずに手元のボタンを操作した。

「はか、せ……? 何を……」

「出来が悪いなんて言うな。私が丹精込めて作り上げたものを否定することは、たとえ謙遜けんそんであってもいい気はしない」

「す、すみませ……」

 エアリスはまた頭を下げようとして、その打ち込まれたプログラムに、驚きのあまり目を見開いて固まった。

「これは、まさか……」

 エンターキーを軽快に叩く音が、二人きりの小さな空間にこだまする。

「その、まさかだよ」


 次の瞬間、轟音と共に、空気清浄機のある方角から白い煙が上がった。それはどんどんとかすみがかった空気を切り裂いて、夜の向こうへと突き抜けていく。

「そんな……打ち上げたんですか? 緊急避難用のロケットを!?」

「まあ、いいじゃないか。私のものをどう使おうと、私の自由だろう? それに、ほら」

 博士はおもむろに、雲間にぽっかりと空いた穴を指差し「見てみろ」とこぼす。

「今夜は、月が実に綺麗だ」


 エアリスは、この日、初めて月というものを自分の目ではっきりと捉えた。巨大な空気清浄機の影に、今にも隠れそうなほど弱々しく、だがそれでいて温かな光。

「……遠い昔、草に入る月というのも、このように美しいものなのでしょうか」

「いいや、もっとだ。生い茂るススキにかかるようにたなびく白い雲は、あの白煙の何倍も優雅で……そこに浮かぶ月というものは、あれよりも強く、澄み切った光をもって、この武蔵野を照らしていたに違いない。きっと、そのはずだ」

 穴はものの数分で、再び雲に塞がれてしまった。しかし、ほのかに差した光を浴びて輝いた萌葱色は、いつまで経ってもその脳裏に焼き付いたままだった。


「滅びゆく、光も見えぬ武蔵野に」

 博士は、いつも通りの重苦しい空を仰いで、名残惜しそうにポツリとうたう。

「それも、短歌……ですか?」

 エアリスがそう尋ねると、博士は困ったように微笑んで、そっと首を振った。

「いや、ふと、な。頭に思い浮かんだだけだ。これでは、ただの川柳だな」

「……じゃあ、ワタシも」

 その言葉の意味がわからず博士が口を開こうとした刹那、エアリスは淡々と、しかし感情豊かに、続きの下句しものくを詠い上げた。

「月の入るべき、草を夢見る」

 それはまさしく、博士が抱いていた自然への憧憬しょうけいそのもので。同時に、AIであるエアリスが導き出した、今できる最善の答えであった。

「……良い、しっくりくる。まさかAIに風情で負ける日が来るとはな」

「全部、博士のおかげですよ。ワタシを作ってくれて、色々教えてくれて……何より、そばにいてくれて、本当にありがとうございます。博士」

「そういう小っ恥ずかしいのはよせ。せっかく焼き付けた久々の月明かりが、一層ぼやけてしまう」

「大丈夫です。ワタシ、これからもずっと頑張りますから。だから……」

 エアリスは、よどんだ大気を機械いっぱいに吸い込んで、透明な息を希望と共に吐き出した。

「今度は、本物の『武蔵野の月』を。いつかまた、二人で一緒に」

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