第一章 町

第一話

 目を開けると森の中にいた。

 僕は目を白黒させる。ここに至るまでの記憶がすっぽりと抜け落ちていた。自分に何か足りないのは明らかで、ぽっかり開いた穴には砂のように不安が侵入してくる。ここがどこで、なにをしていたのかも分からない。それどころか、自分のことさえもよく分からなかった。名前が長嶋颯太ながしまそうたであること以外は、何一つはっきりしない。

 顔をあげれば、木の葉の間を縫って、ちらちらとした星が覗いている。鈴虫やおけらの静かな鳴き声が、幾重にもなって周りを取り囲んでいた。まるで僕が何かを失ったことを喜んでいるようだった。

「ここどこだ?」

 誰もいないのに声をあげてしまうのは、人の声が恋しいからかもしれない。そうやってどうでもいいことを考えながら、頭の中を整理しようとする。

 ここは山の中だろうか?どうしてこんなところにいるのだろうか?自分は誰なのだろうか?これからどうすればいいのだろうか?このまま死ぬのだろうか?

 疑問と不安が次から次へと湧いてきて、考えがまとまらない。今何を考えていたのかさえ分からなくなる。蒸し暑い空気も相まって汗がわき腹を伝っていく。

 とりあえずこんなところにいてはどうしようもないと思い、周りを見ることにした。幸いなことに、月明かりが出ていたお蔭で周りはわずかに見える。しかしいくら目を凝らしても、周りには何もなかった。ただ木と草がずっと向こうまであるだけだ。僕は生きた心地がしない状況に絶望しかけていた。

 そのとき、微かな水音が聞こえた。ちょろちょろという音は小さく囁くように、僕にその存在をアピールしていた。

 導かれるようにして歩き出した。地面はでこぼこしていて、下を見ていないといつ転んでもおかしくない。こんな道なき道を歩いたことは今までにないはずだ。

 目の前を大きな蛾が飛び、呼吸が一瞬止まるほど驚いた僕はそのまま尻餅をついてしまった。憎々しげにそちらを見たが、もう蛾はいなくなっていた。

 辺りは、落ち葉を踏む音と、自分の呼吸音、そしてわずかな水音に支配されていた。他に誰も必要としない環境にいるせいか、一人だけ取り残されたような気分になる。奥から何かが来て襲われるのではないか、という妄想が現実になりそうな気がする。巨大化し、背負いきれなくなった不安は、僕を押しつぶさんばかりだ。

 生い茂った草をかき分け、顔を出す。そこには沢があった。ゴツゴツとした岩がいくつもあり、流れる水に月が影を落としている。心地良い音に僕は笑った。

 山で遭難したときは川を下ればいつか街に出ると聞いたことがある。希望が見えてきたことで、さっきまでの暗い気持ちは隠れてしまった。きっとなんとかなるはずだ。

「よし、大丈夫だ」

 そうやって自分をごまかしつつ、また歩き出す。

 湿った地面は僕の靴を飲み込もうとしているようだった。歩きにくいことこの上ない。靴の中に泥が侵入し、ねっとり冷たく足を包み込む。中には粒がいくつもあり、それを踏むたびに小さな痛みが走る。気持ち悪いと思ったが、今取り出してもすぐにまた同じ目に遭うだけだ。そのまま歩き続ける。誰も聞いていないのをいいことに、何度も舌打ちをした。


 数時間も歩くと、もう山は終わって平地になっていた。月は今も変わらず空に浮いている。

 ずっと歩き続け、ずっと考え続けていた。だが結局何の結論も得られなかった。僕はあきらめて無心で歩くしかなかった。

 もうそろそろ人里が見えてきてもおかしくないと思ったのだが、一向にその気配がない。あのテレビは嘘をついていたのだろうか。このころになると、何にでもイラつきを感じるようになっていた。

 ため息をつき、また前を見ると歩き出す。意味のないことを考えても消耗するだけだ。無心でいろ。無心でいろ。そう思うたびにあの感情が思い出される。無意識のうちに舌打ちをしていた。無心でいろ。前を向け。

「あっ」

 目に入ったものに、思わず声が出てしまった。川の向こう側を見ると、何かがあった。暗くてはっきりは見えないが、橋のように見える。人工物だ。よく見ると、森が途切れて家が建っているようにも見える。

 さっきまでは体中が疲れ、節々が痛かったのに、それが嘘だったかのように突然元気が出てきた。

 思わず早歩きになる。少し水分を含んだ地面は、踏むたびに足の裏に反発を返す。あと一歩で橋を踏めるというところで、ジャンプして思い切り着地した。

 橋は木でできた古いものだった。僕は硬いものを踏む感覚を思い出し、それがうれしくて2、3度踏んだ。森の中には腐って柔らかくなった倒木か、落ち葉しかなかった。やっと人の痕跡を感じられた。靴の裏についた泥のせいか、あまり音は鳴らなかったが、やはり嬉しさは変わらなかった。

 少し冷静になり、周りを見渡した。それにしても暗い。田舎の夜というのはこんなものだろうか。すぐそこに家があるのに、明かりと言うべきものは星か月しかなかった。遠くはよく見えない。霧に包まれているようだ。普通の町ならどんなに深夜であろうとも明かりが全くなくなることはないはずだ。

 もしや廃屋だったりするのだろうか。もしそうなら、今の喜びはぬか喜びということになる。目の前にひっそりとたたずむ家を見る。あの家を訪ねて人が住んでいなければ、僕はまだ助かったということにはならない。

 橋を越え、向こう岸の地面に立つ。舗装はされていない。ただの地面だった。

 乾いた土を踏む音と、期待と恐怖が入り混じった息遣いが、暗闇の中で響く。一歩歩くごとに、扉が近付く。

 近くで見ると、古臭い家だということが分かる。窓ガラスは使われていないようで、細い竹を網状にしているようだ。こんな造りの家は聞いたことがない。木でできた引き戸はきっとガタガタとうるさく開くのだろう。

 扉の前に立ち、息を整える。見た限りは廃墟でもおかしくはなさそうだが、本当に廃墟だったりしたら倒れかねない。

 ゆっくりと手を握り、大きく中に響くように願って扉を叩いた。ドンドン。唾を飲み込み、待つ。長い時間が経って、物音ひとつ聞こえない。

「頼むよ……」

 もう一度、今度は扉を壊すような勢いで叩く。ドンドンドンドン。長く静かな時間だった。僕の心臓の鼓動が夜の闇に響く。

「出てくれよ……」

 ついに決壊し、なんども叩いて叫んだ。ドンドンドンドンドンドンドンドン。

「お願いだよ!出てきてくれ!頼むから!」

 何度も何度も叩いた。もうほとんど、誰もいないことを確信していた。

 突然、ガタガタといいながら扉が開いた。中にいた人ははじめは迷惑そうな顔をしていたが、僕の顔を見るとだんだん曇っていった。僕は不意打ちを喰らって呆けていた。

 住人がゆっくりと口を開いた。

「——よそ者が今、なんでここにいるんだ?」

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