第五話

 釣りは散々な結果だった。和彦は何匹か小さめな魚を釣り上げていたが、僕の竿は何も反応しなかった。和彦は話しかけてこないし、僕はさっき怒られたばかりで話しかける勇気なんてあるはずもなく、川のせせらぎと遠くから聞こえてくる子供たちの声を聞いているしかなかった。

 目の前に垂れる糸が波紋を出している。足元の水は底が見えるほど澄んでいて、小魚たちが言ったり来たりしている。川幅の真ん中あたりは深くなっていて、緑色の水ではさすがに底は見えない。食えそうな魚は近くにはいないので、必然的に深くに糸を垂らすしかない。

 この川は僕が山奥からたどってきた川だ。すぐそこには泊めてもらった人の家があるが、その家には今は誰もいないようだった。暗いときは小さな家に見えたが、実際は思っていたよりも大きい。家族が住んでいてもおかしくはないくらい大きいのだが、一人暮らしをしているようだ。


 空が赤く染まりだしたころ、その家の住人が帰ってきた。一応僕にとっては恩人だから、お礼をしようと思って立ち上がった。しかしその住人は僕を見ると慌てて家に入ってしまった。僕はただ立ち尽くすしかなかった。

「なんだよ……」

 和彦はこちらを見もせずに釣りを続けていた。突然浮きが沈んで水が騒ぎ出し、少しすると魚が釣りあがった。和彦は慣れた様子で釣り上げられた魚をキャッチする。

 和彦は魚から針を外し、ボロボロのバケツに放り込んだ。足ほどのサイズがある魚だった。

「帰るぞ」

「あっ、はい」

 和彦は突然言った。

 今日あったばかりの男だが、あいかわらず不愛想だ。だが今の僕にとってはそのほうが望ましい。今は壁や草木に阻まれて見えようもないが、確実に向こうにあるだろう浜のほうを見る。

 和彦の家は浜と反対側にある。浜沿いの道路に行くのだから、明るいうちにルートをある程度確認しておきたい。和彦が僕に興味なさそうにしているお陰で、無遠慮に町を眺め、脳内で地図を作れている。

 浜のほうに太陽が沈んでいく。全く区画整理などされている気配もなく、子供が作ったかのようにてんでバラバラに発展しているこの町はとても迷いやすい。何度も自分が今どのあたりにいるのか分からなくなったりした。和彦がいなければ迷子になっていただろう。町から脱出するときに頼りになるのは空に浮かぶ太陽と月、そして自分の頭だけだ。和彦なしでも町を歩けるようにならなければいけない。

 周りを見ながら歩いていると、町民と何度も目が合う。町民は和彦の姿を見ると会釈するのに、後ろを歩く僕の姿を見つけると嫌そうな顔をする。そして慌てたように目を逸らし、近くの角を曲がって消えてしまう。僕が一体何をしたというのか。僕は町長に認められていても異物のままらしい。まれに遠くの方に見える子供たちは、僕の姿が見えた瞬間に周りの大人が奥に押し込んで隠していた。そんなに邪険にしなくてもいいのではないだろうか。

 やがて和彦の家に着いた。やはり他のどの家と比べてもみすぼらしい小屋である。カラカラと軽い音を立てる扉を開け、殺風景な部屋にどすんと座る。台所もないせいか、そのままそこらにあった汚い包丁で魚をさばき始めた。あれが今日の食事なのだろうか。衛生観念が僕の知っているものとはずいぶん違う。バツンと切り落とされた魚の頭と目が合い、僕はせめて意識を逸らそうと、和彦に質問をぶつける。

「和彦さんは偉い人なんですか?」

「……偉い人?そう言われれば、そうなのかもしれないな」

「どういうことですか?」

 和彦は少し下を向いてうなった。やがて僕のほうを向き、しかめ面で語りだす。

「俺はこの町の守り人だ。浜を守り、町を守る。代々受け継がれてきた大事な仕事だ。だからみんな守り人を尊敬する」

「伝統的な職業なんですか。守るって、何するんですか?」

「何もしない。浜の恐ろしさは誰もが知っている。だから町の人は俺が何もしなくとも自衛するのさ」

「じゃあ——」

「俺に仕事が来るのは“時期”の時だけだ」

 町長の淳二朗が言っていたのを思い出す。

「時期ってのは何なんですか」

「毎年八月。その週の終わりには海が凪ぐ。そのときに町の外から誰かがやってくる。そいつらは必ず浜が目当てで、浜に入るんだ。そして俺は守り人として、そいつらを必ず浜に喰わせなきゃいけない。それが俺の仕事さ。みんなはこれが汚れ仕事だってのは知ってる。だからこんな狭っ苦しい小屋に住んでんだ」

「ずっと思ってたんですけど、食われるって具体的にどうなるんですか?」

「ただ波にさらわれたように見える。実際は体験したことがないから知らんが、死ぬのと同じさ」

「はあ。何で助けてあげないんですか?」

「浜に人を喰わせねえと、俺たちがひどい目に遭うらしい。どんな目に遭うかは分からないけどな。先代は知ってたかもしれないが、俺に全部伝える前に死んじまった」

「先代?」

「ああ。和男カズオさんって言ってな。浜に喰われちまった。俺に受け継がれたのは少ない知識と、祭具だけだ。あと名前の“和”の字もだな」

 和彦は遠くを見ていた。魂が抜けたような腑抜けた表情だった。筋肉の鎧をつけた男がそんな表情をするのは間抜けだったが、深刻さが漂っているせいで笑うことはできなかった。

 和彦は遠くに放り投げていた意識を僕に向け、またしかめ面に戻って口を開いた。

「言い忘れていたが、夜は外に出るなよ」

 その強い視線に、僕は計画がばれているのかと内心ひやひやしていた。無意識に呼吸が浅くなる。

「なんでです……?」

「危ないからだ」

 和彦はそれしか言わなかった。

 その夜にふるまわれた魚は、意外と美味かった。町の脱出のために、僕は魚をほおばった。

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