第四話

 永遠を表すかのように何度も繰り返す波の音が、ゆったりと目の前で生きている。僕はそれを感じてただ心地よかった。潮風が顔を撫で、僕の手を引く。

 僕はただ歩いている。暗くて見えない底は暖かくて、入口を探している。

 遠くで誰かが呼んでいる。僕はその声が懐かしくて、探すのをやめられない。

 誰かが背中を撫でる。僕はくすぐったくて恐ろしい感触に、体を震わす。

「おい」

 突然目の前が明るくなった。ここにはセミの鳴き声と土の臭いばかりで、あの心地よい暖かさはどこにもなくなっていた。蒸し暑さを感じつつ見渡しても、呼んでいたはずの誰かはどこにもいない。

「あれ?和彦さん?」

 目の前には仏頂面をした和彦がいた。何か言いたげだったが、何も言わずに背を向ける。

「……いま何があったんですか」

「魅入られてたんだ」

 何に、とは言わなかった。小屋にいたときの物言いと、今見えている景色から察していた。


 僕は和彦に連れられて山に登った。ゆるやかな山ではあったが開拓などは一切されていないようで、少し登っただけで体中が疲れ切っていた。

 和彦は僕の息が切れていることを気にもせず、ずんずん進んでいく。なんてひとりよがりな登山だろうと思ったが、それ以上の思考が満足にできないほど過酷な山登りだった。

 山の中腹あたりで急に和彦は立ち止まり、振りむいて僕を見た。遅れ始めていた僕を待つためかと思ったが、そうではなかったようで「後ろを見てみろ」と言われた。

 言われた通りに後ろを見ると、そこには町、その奥に砂浜と海が広がっていた。海は僕が知っているものより暗く重そうで、粘りがあった。

 突然何かに迫られるような寒気を感じ、その瞬間から記憶がはっきりしていない。


 浜には近づくな。その警告は、ただ危険だからというだけではなかったらしい。オカルト的な何かが、僕を誘惑したのだ。僕はその誘惑に応えることこそ正しいことだと、さっきまで思っていたのだ。あのまま浜に行っていたら、どうなっていたのだろう。

「あのままなら、お前は浜に食われてた」

 和彦は呟くように、しかし僕に何かを伝えようとしていた。

「浜に食われる?」

「そう、浜は人を食う。だから誰も近寄らねえ。お前も分かったろう。こんなに遠くでも惹かれちまうんだ。今からしばらくは見ても問題ないが、決して近付いたりするんじゃねえぞ」

「なんで和彦さんは平気なんですか?」

「――慣れだ。お前には無理だ」

「和彦さんって意外と優しいんですね」

「俺は優しくねえ」

 和彦は吐き捨てるように言った。僕はそれを、ただの照れ隠しだと思った。人付き合いが下手なだけなのだろう。

 僕は和彦を見た。僕はこれまでオカルトなんて、ちっとも信じていなかった。和彦は大真面目にオカルトを信じている。僕だってさっきは信じかけた。だがやはり、そう簡単に今までの立場を翻せるわけがない。そう簡単に考えを変えられないのは人間のさがだろう。オカルトは信じられない。

 しばらくは海を見ても問題ないと言われたので海を見る。波を受け止める浜があって、その浜を隔離するように堤防がある。その堤防に沿って、舗装された道路が通っていた。狭い町の中で舗装されているのはそこだけで、道路は奥へ奥へと続き、そして谷へと消えている。

「ちょっと聞いてもいいですか?」

「なんだ?」

「あの道路はどこに繋がっているんですか?」

 浜に関しては和彦の言っていることが正しかったが、町から出られないというのはまだ信じていない。やはりどうしても、信じ難いものというのはあるのだ。

「あそこを行ってもどこにも繋がってねえ。いい加減、ここから出られないって分かれ」

 強い口調で和彦は言った。

 浜に惹かれる現象に、何とかオカルト以外で説明をつけようとしている自分がいた。この現象は何かの物質で幻覚を見てトリップしているだけだと、どうにかして自分を納得させようとしていた。

 科学を知っている者はオカルトに説明をつけようとしてしまう。そして科学では説明のつかないことは、どうしても信じられない。

 少なくとも、僕の乏しい科学知識では町から出られないというのは信じられない。だから確かめてみずにはいられない。もしかしたら町から出られるかもしれない。

「すいません。何回も」

 謝りつつ、僕はこっそりとあの道路を辿ってみる決意を固めていた。道はどこかに繋がってこそ道になれるものだ。大きな街に出られるかもしれない。

この奇妙な信仰の残る町にずっといれば、何かしらの危険にさらされるのは簡単に予測できる。何としてもここを出ていかなければいけない。

 和彦は無言で僕を見つめていた。

「どうかしました?」

「なんでもない。」不機嫌な声だった。「さっさと降りるぞ。そこの川で釣りをするんだ。お前の分の竿もある」

「釣りなんてやったことないです」

「糸を垂らして待つだけでいい」

「それならできそうです」

 そこで会話は終わりだと思い、僕は山を下りようと一歩踏み出した。しかし和彦の足音はなく、動こうとしていないようだった。何かあったのかと思い見ると、険しい顔で見つめられていた。怒らせてしまったと思った。何をしてしまったのだろうか。

 しばらく視線がぶつかり、僕が目を逸らすと、和彦は何も言わずに大股で近付いてきた。太い腕が伸び、殴られるかと思って目を瞑る。しかし目の前まで来た和彦の手は僕の胸ぐらを掴んだ。頭が揺られる。

「お前、勝手なことするんじゃねえぞ」

「……はい」

 決して大きい声を出しているわけではなかったが、僕の肝は十分に冷えた。それだけの気迫があった。

 しかし道路を辿る計画を止めようとは思わなかった。和彦は恐ろしいが、この町にずっといることの方が恐ろしい。自分が誰だか分からず死んでいくなんてごめんだ。分からずとも調べるくらいはしなければ気が済まない。そのためにはこの怪しい町を出て警察に行くのは必須なのだ。

 眉間に皺を寄せたまま、和彦は僕の胸ぐらを離した。鋭い目つきで僕を後目に歩き始める。僕は体の疲れとは別に荒くなった呼吸をしずめようとしつつ、和彦を追った。

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