第六話
すっかり夜も更け、よく分からない虫が鳴いているのが聞こえる。僕が知っている夜は静かなものなのに、ここの夜は圧倒的にうるさい。虫に混じって、カエルも鳴いている。
僕はこんな騒音の中でも容易に眠れるだろうほど疲れ切っていた。しかし、今日この町から逃げだすと決めたのだ。枕も与えられず、硬い床に横になり、必死に眠気と戦いながら、目線の先で横になる和彦が眠るのを待っていた。
逃げ出すのを見つかってしまっては、きっと胸倉をつかまれるどころでは済まないだろう。閉鎖的な宗教は大体暴力的なのだから。映画や小説では、大体そうだと相場が決まっている。
この小屋は部屋が一つしかなかった。そのせいでプライバシーなんてあるはずもない。この町はどうやら文化的に遅れているようだから、プライバシーという概念すらないのかもしれない。それも脱出を急ぐ一つの要因である。僕はそういうのを気にする年頃なのだ。
さっきから微かに和彦の寝息が聞こえる。大きめに腹が膨らみ、時間をかけてしぼんでいく。自分の手を枕代わりにして、小さくなるようにして眠っている。厳つい見た目のくせに、寝相は案外可愛らしいものである。
ゆっくり慎重に起き上がる。こういうときは小さな音すら大きく感じる。少し動いただけで床がギシギシと軋み、僕はそのたびにマズイと思って和彦の様子を窺う。しかし和彦は変わらず寝息を立てていた。
何分もかけてやっと立ち上がった。蒸し暑い夜だったせいで、着ていたTシャツは汗ばんでいた。
一歩足を踏み出す。体重をかけないようにゆっくり足を伸ばし、つま先から少しずつかかとを床につけていく。時間をかけて体重をかけ、小さな軋みとともにやっと一歩進んだ。
これをあと何歩か繰り返せば外に出られる。
希望が見えてきたと思ったそのとき、「ううん」と唸る声が聞えた。ばっと振り向き、一気に緊張した呼吸を抑えながらそちらを見る。和彦は寝返りをうって仰向けになっていた。その目は相変わらず気持ちよさそうに閉じられたままだ。僕は思わず歪んだ眉間の力を緩め、静かに息をつき、「紛らわしいなぁ……」と自分でも微かにしか聞き取れないくらいの小さな声で呟いた。
慎重に進んで扉を開く。玄関らしい玄関は無く、靴は扉の前に脱ぎ捨ててある。今履くと物音で和彦が起きかねないので、外に出てから履くことにした。カラカラと開く扉にひやひやしながら外に出て、締めずにそのまま歩き出した。
やっと外に出られた。このまま脳内の地図に合わせて浜沿いの道に行き、そこを辿ればどこかの街につくはずだ。これまで通っていない道もあるが、その辺は感覚でどうにかするしかない。浜の場所は動かないので、方角さえ分かっていればなんとなく行けるはずだ。
ふと、虫たちの鳴き声の中に何かが混じっているような気がした。少し耳を澄ますが、特に何か聞こえる様子はない。気のせいだということにして、先へ進む。
僕は和彦の「危ない」という言葉を思い出していた。
堤防が見える。あの手前に目的地の道路があるはずだ。
ここまで誰かにすれ違うことなく来ることができた。人口が少ない町とは言え、夜中に一人も出歩いていないのは不自然にも思えたが、自然とともに生きる人たちならそう不思議なことでもないと思いなおし、気にせず歩いていた。
町と堤防の間には百メートルほどの荒れ地が続いていた。砂利以外何もなく、虫の鳴き声すらない。町が浜から離れたがっているような印象を受ける。僕はその砂利を踏みながら歩く。
突然、足音が聞えた気がした。砂利を踏んで歩くようなギリギリと擦れる音だ。僕は反射的にそっちを見た。そして胸が飛び上がるほど驚いてしまった。
そこには人間がいた。まぎれもなく人間だった。町の誰かに見つかってしまったのだ。
「おいそこのあんた、誰だい?」
暗くてよく見えないが、暗くてよく見えないが、低くしわがれた男の声だった。
「えっと、ごめんなさい。散歩していて」
「子供か?子供がこんな夜中に散歩してんのかい。親に教わらなかったのか。夜は外に出ちゃいかんって」
「……すいません」
「まあいい。何しに出て来たんだ」
「ああ、大丈夫です。戻るので」
「はっはっは。そんなのは気にせんでいい。誰にも言わないでやるから、あっちの方に行ってみるか?」
ぼんやりとしか見えないが、どうやら指を差しているようだ。
「浜のほうですか?」
「そうだ。あっちに行ってみたかったんじゃないのか?」
願ったり叶ったりだ。親切な人もいたものである。
「いいんですか?」
「俺だって何回も行ってるからな。若いうちは冒険するもんだ。ほれ、行った行った」
「すいません、ありがとうございます」
僕は深く頭を下げてすぐにまた歩き出す。この親切な老人の気が変わらないうちに目の届かないところに行ってしまいたい。
唐突に思い出して、僕は振り返った。
「お名前聞いてもいいですか?」
「俺はカズオだ。お前は?」
「僕は颯太です」
「そうか。気をつけていけよ」
「ありがとうございます」
僕はカズオという名前に聞き覚えがあった気がしたが、何も思い出せなかったからすぐに歩き始めた。
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