第八話

 小屋の玄関扉を慎重に開ける。少しだけ開いた隙間から中を覗くと、和彦はもう起きていた。小さな机に向かって胡座をかいている。わずかな物音に気付いたようで、僕と目が合う。一瞬怯んでしまったが、ここで逃げ出してもすぐ捕まると思いなおして、思い切って扉を勢いよく開けた。

「……おはようございます」

「——お前、どこ行ってたんだ?」

 ほとんど繋がっている太い眉毛の間に深い皺を作りながら、訝るような声色で聴いてきた。ここで正直に答えたら何をされるか分かったものではない。

「トイレに行ってました」

 自然に見えたはずだ。考えたり、焦ったりはしていない。和彦は僕の顔をじっと見つめてきたが、すぐに手元に視線を戻し、「そうか」と言うだけだった。

「朝日が昇り切っていないうちに外に出るな」

「分かりました。すいません」

 僕は知っている。昨日山に登ったときは科学でなんとか説明をつけようとし、オカルトだと断じていたものが、現実に起きた。これはカルト宗教の変な風習なんかじゃない。明らかに人智を越えた何かがあの浜に住み着いている。もう夜に出歩いたりはしない。

「何か手伝うことあります?」

「畑の仕事を覚えてもらう。体動かせるようにしとけ」

 僕は体操をしながら考える。まだ町の脱出をあきらめたわけじゃない。夜は化物が人を浜に誘おうとする。何度も逃げ切れるとは限らない。浜に入ったらどうなるかは定かではないが、死体の化物の存在を考えれば碌なことにはならないのだろう。

 脱出するなら昼の内だ。人の目につかないように外に出るには、あの道路は通れない。あそこは結構見やすい位置にあった。だから別のルートを見つけるしかない。

 この町は昔は日本政府とも連絡がついたと和彦が言っていた。であれば、いつの時期からこの町は浜の化物の住処となり、世界から隔絶された場所になったのだろう。その起源と原因を辿れば、町を出られるかもしれない。この町に昔の文献が残っているのならそれを調べたい。

 誰かの協力が必要だ。

「あのー和彦さん?この町って昔の文献とかあったりします?」

「なんでだ」

「えっと、僕も今日からこの町の住人じゃないですか。だからこの町について知りたいなって思ったんです」

「『封津町』だ。町長の話を聞いてなかったのか。あとお前は今日からじゃなく、昨日からここの住人になったんだ」

「……」

 和彦は一切こちらを見なかった。何をしているのかと覗いてみると、なにやら文字を書いている。日記だろうか。

 いや、そんなことよりも聞きたいことがあるのだった。

「それで、文献って——」

「見る必要はない。黙ってろ」

 にべもなくそう言うだけだった。僕は気圧されて、黙るしかなかった。

 これからやるべきは、僕に協力してくれる町民探しだ。そのためにはまず、町に馴染まなければならないだろう。長くかかるかもしれないが、僕は自分のことが分からないまま死ぬのも嫌だ。そのためには多少時間をかけても構わない。

「友達探しか。小学生みたいだな」

 僕は小さく呟いた。和彦は聞こえていたかもしれないが、何も言ってこなかった。

 体操がひとしきり終わり、和彦も作業を終えたころ、和彦が神妙な面持ちで尋ねてきた。

「お前、何か見ただろう?」

「え、いや、なんのことですか?」

「とぼけるな。襲われたんだろう。あの死体たちに」

「知らないです」

「……お前から潮の臭いがする。あの浜の臭いは独特だ。俺にはすぐに分かる。お前、浜に入ったのか?」

 僕はすぐに自分の服を嗅ぐが、少し汗臭いくらいで、他には何の臭いもしなかった。かまをかけてきているのか、それとも本当に分かっているのか。僕は和彦の目を見た。特になんの感情もないように見えたが、僕にはそれが恐ろしく見えた。

「浜には入ってません」

「化物に襲われて逃げられたのか?」

「はい。カズオという老人と、他にもたくさんいました。浜に押し込まれそうになったんですけど、暴れて逃げ出しました」

「化物は殺したか?」

 和彦の声色はどんどん冷たくなっていく。心臓にまで汗をかいているのではないかと思うほど、全身が粟立つのが分かる。

「死んだかは分からないですけど、水みたいに弾けてました」

「……そうか。カズオさんは?」

「わき腹にでかい穴を開けてきました」

「……そうか」

 和彦は口のなかで転がすように呟いた。僕は和彦が次にいつ口を開くか待つしかなく、息が詰まって仕方なかった。

「あの、どうしたんですか」

「なんでもない。いや、そうだな。もうすぐ時期ってことだ」

 和彦はそう言うと、さっさと歩き出した。玄関の扉を開け、振り返る。

「まだ何も気にすんな。行くぞ」

 和彦は昨日と同じ調子に戻っていた。少し安心し、僕は和彦の背中を追いかけた。

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