第二話
世界が揺れている。上下も分からぬほど揺れている。
瞼の上からでもまぶしいほどに、周りが明るかった。あたたかな光は太陽のものだろう。窓から差し込む光が、僕の顔に格子状の影を作っていた。
「おい起きろ」
誰かが呼びかけている。揺れているのは世界ではなく僕のようだ。痛いくらいの強さで肩を掴んだ手が乱暴に僕の体を揺さぶる。体が左右に揺れるたび、硬い床と肩甲骨がゴリゴリと擦れて痛かった。
手が力を緩めたタイミングで軽く身体を起こし、薄く目を開いた。乾いた目が空気に触れ、痛みを感じてすぐに目を閉じた。もう一度慎重に目を開けて周りを見渡すと、薄暗い視界に何人か人がいた。ひげ面の厳つい男たちが渋い顔でこちらを凝視している。着ているのは薄汚れた甚兵衛のような着物だ。
「起きたか。おい、こっち来い」
誰かが手を引っ張る。まだ体が完全に目覚めていないせいで、為すすべなく手が持っていかれる。引きずられるようにして立ち上がった。掴まれた腕から走る痛みに、一気に目が覚めていく。
「痛い!ちょっと、どこ行くんですか」
目が覚めたのはいいが、状況が全く掴めない。確か昨日は、混乱した様子の住人に通報をお願いしたが電話が無いと言われ、とりあえず場所を貸してもらって寝たはずだ。それなのに周りを取り囲む男たちの中に住人はいなかった。
「黙ってついてこい」
取り付く島もない反応に、周りに助けを求める視線をやるが、周りを取り囲む男達も同じような表情をしていた。振り払おうとするが、男の丸太のような腕はびくともしなかった。思い切り手を払い、一度は逃れることが出来たが、すぐに後ろにいた男たちが僕の体を抑えてきた。
「おとなしくついてこい」
男はそう言って、肩が抜けるのではないかと思えるほど強く引っ張ってきた。僕は抵抗をやめた。
ぎい、という音を出して開いた小さな扉を、身をかがめてくぐる。今まで寝ていた場所は牢屋のような部屋で、木製の格子に囲まれており、プライバシーもへったくれもない。そのうえ硬い床の上で寝かされていた。家を貸してくれたことには感謝するが、囚人のような扱いには納得がいかない。
せめてもの抵抗として、左見右見しながら歩く。古臭い木造の家のようで、時代劇や朝ドラでしか見たことのないような土間や囲炉裏があった。ここはどれだけ田舎なのだろう。
男たちは土間に置いてあった草履を履きだした。僕もならって靴を履こうとしたのだが、どこにも見当たらない。あっても泥だらけだろうから履きたくはない。
「あの、僕の靴は……?」
「そこにある草履使え」
ぶっきらぼうに言う男が指さした方を見ると、草履がひとつ置いてあった。僕のために持ってきてくれたのだろうか。
「あっ、ありがとうございます」
男はむすっとしたまま、こっちを見ようともしなかった。
この人たちは僕をどういう風に扱うつもりなのだろうか。とりあえず、病院に連れて行ってほしい。記憶がないし、警察にも自分の状況を言わなければいけない。
「あのー、病院とかには連れてってもらったりできませんかね」
「病院は無い。警察も無い。昨日お前が寝る前に言ってたのは全部無い。ここに来たからには死ぬまでここだ」
「は、どういうこと——」
「いまからお前を町長のところに連れてく。それまでは黙っとけ。何か聞かれても、お前が聞きたいことには答えてやれん」
それ以上は聞くなという雰囲気を醸し出していた。混乱は一気に不安へと変わっていった。
ここに来たら死ぬまでここ、とはどういう意味だろう。警察も病院もないとはどういう意味だろう。もしかしたら映画で見るような恐ろしい因習の残る村にでも来てしまったのだろうか。もしそうなら早く逃げ出さなければいけない。人食いの村だったら僕はどうなってしまうのか、想像も憚られる。
「僕、食べられたりしないですよね……」
「はあ?なんでお前なんか食べないといかんの」
素っ頓狂な声は、本気でそう思っているような感じがして、ほんの少しだけ安心できた。
玄関を抜けて道を歩く。夜のうちは気付かなかったが、思っていたより大きめの村だった。向こうに見える山のふもとまで村は続いている。千人か、それよりも多いくらいは住んでいるのだろうか。
その割には
しばらく歩くと、立派な外壁のある和風の屋敷に着いた。どうやらここが町長の住む場所らしい。町長とはこんな場所に住むような偉い役職だっただろうか。
「ほら行くぞ」
さっきまで一切口を開かなかった男が、急に口を開いた。後ろには今まで一言も発していない男たちが数人いる。僕は彼らに連れられて、中へと入った。土間には沢山の履物があった。町長は家族が多いのだろうか。
そんな風にぼんやりと思っていると、男たちはどんどん中に入っていく。遅れないようにして、僕も屋敷にあがった。
男たちはふすまを開けた。中から一気に物理的な圧力がかかった気がした。すぐに幻覚だと気付いたが、それでも僕はすくんでしまった。
そこには大勢の人がいた。子供はいなかったが、老若男女が所狭しと並んで座っている。その全員がこちらを見ていたのだ。それも奇異なモノを見る目だ。古めかしい髪形と服装で、みんなが僕を見ていた。
僕は面食らって動けずにいた。それを見かねてか、男に背中を押され、人々のど真ん中を、人を踏まないように気を付けながら通っていく。どこかからひそひそと聞こえてくるが、それ以外は静かに僕を見つめている。背中から変な汗が出てきて、恥ずかしいことをしているわけでもないのに顔が赤くなる。
やっとの思いで人々の海を乗り越えると、もう男たちはいなかった。この海の最後尾に座っている。
「お前」
突然呼ばれた。海の最前列にいたお爺さんだ。
「な、なんでしょう」
「お前、名前は」
「長嶋颯太です」
「どうやってここに来た」
「分かりません。記憶が無いんです。気付いたら森の中にいて、どうしてそんなところにいたのか、ここがどこなのか、自分が誰なのかも分かりません」
途端にざわざわとし出す。何かおかしなことを言っただろうかと思ったが、もし言っていたとしてもどうしようもない。数秒前の自分を信じるしかない。
「颯太。お前はどうしたい?」お爺さんは他の人々が騒いでいるのにお構いなしといった様子で続けてくる。
「とりあえず病院に行きたいです。警察にも」
「それは無理だ。ここにはどちらもない」
さっきの男たちと同じことを言われてしまった。お爺さんはそのまま続ける。
「ここは孤立した場所。もはや日本でもなくなってしまった誰も知らない場所。本来なら『時期』以外に人がやってくることなどありえないが、なぜかお前は来てしまった」
お爺さんが喋り終わるころには周りの人々は静かになっていた。しわがれているのに、やけによく聞こえる声だった。
「孤立?日本じゃない?時期?」分からないことが多すぎだ。
「いずれ分かるさ。とりあえず、ここに来たのならお前はこの町の仲間だ。ようこそ
周りの人々は、その多くが目に角を立てて見つめてくる。どう考えても町長の話に納得していない。針の
淳二朗が誰かに手招きをしていた。すぐに誰かがこちらにのっそりと歩いてくる。見た限りでは二十代後半といったところで、がっちりと筋肉質な全身はスポーツ選手のような印象を与える。薄汚れたタンクトップはその筋肉を主張するようだった。
それにしてもこの村の文明レベルはよく分からない。タンクトップを着ていたり、甚平を着ていたり、さらには家の造りが時代劇レベルだ。「孤立した場所」とは文明レベルの低い場所ということだろうか。
「颯太。これからはこの
淳二朗が言った。和彦は太い眉と細い目から放たれる鋭い視線を、無遠慮に僕に浴びせかけていた。この人も周りの人と同じように、僕のことを良く思っていないのは窺い知れる。
「あ、あの——」
「和彦だ」
むっつりとしたままそう言い、すぐにそっぽを向いてしまった。周りからは「和彦さんなら安心だ」などとこそこそ言っているのが聞こえる。ここにいる大半の連中よりは若いのに、和彦は信用されているらしい。
「和彦ならこの村のことにも詳しい。あとから色々と聞くといい。では緊急集会はこれで解散だ。さあ、仕事に戻るぞ」
淳二朗が町人に呼びかけると、一斉にみんな立ち上がってどこかに行ってしまった。結局何も分からなかったが、とりあえず無事でいられたことに安堵した。
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