第十二話
窓——というより穴——から赤く染まった日の光が入ってくる。どこかで犬が吠えているのが聞こえた。人の気配はしない。
突然、カラカラと軽い音が響く。ビクリとしてしまってから音の鳴るほうへ目を向けると、玄関扉を開ける和彦がいた。
「どうも」
お帰りと言うほどの仲ではない。ほんのわずかに目が合って、僕のほうから逸らす。和彦は何も言わずに粗末な机の前に座った。その手には紙の束とボールペン、それに笹のような葉に包まれたおにぎりが二つある。
「この町にボールペンなんてあるんですね」
「……まあ、ある」
僕に構っている暇はないようで生返事が返ってきた。僕は一応「へえ、そうなんですね」と返しておく。和彦はこちらには目もくれなかった。
ふと、和彦がこちらを振り返り、「おい、これ」と言っておにぎりを指さす。
「これが今日の夜飯だ。好きに食え。あと、俺は今日の夜は外に出てくる。大人しくしとけよ」
和彦はすぐに向き直って、机に置いた紙束とにらめっこを始めた。
僕は心の中でガッツポーズをした。役場に侵入するのは今日の夜である。一番の障害である和彦がいないのであれば、計画が上手くいくに違いない。
「了解です」
やはり和彦はこちらをみることはなかった。僕はしめしめと笑った。
段々と夜の虫が鳴き始めている。窓から入ってくる光がどんどん弱くなり、遠くの空が暗くなっていくが、涼しくはならない。夏の暑さはしつこい。
さっきから聞こえる音と言えば、外から入ってくる虫の音と、和彦が線を引くシャッという音だけだった。僕はやることなく、ひたすら虫の鳴き声を聞き続けていた。夜はもう少し先で、仁と正則がやってくるのもまだまだだ。
僕は手持無沙汰になって、思考にふける。仁と正則について考えていた。
初対面のときは『町のスパイ』だとか『町からの試験』だと思っていた。だが今となってはなぜだかすっかり信用していた。考えれば考えるほど、彼らを疑う必要性を感じなくなっていくのだ。
もし彼らが本当に町のスパイなのだとしたら、僕は和彦に彼らの脱出計画を知らせるのが正解だろう。そうすれば僕が脱出を計画していない証明となり、より行動しやすくなるはずだ。だが、それをする気にはなれなかった。彼らには必死さがあった。絶対に外に出ようとする意志を感じた。
僕は窓から外を見る。空には小さな星が浮かんでいた。もうすぐ計画が始まることを察知し、僕は体が震えるのを感じた。
急にがたんと和彦が立ち上がった。
「そろそろ外に出る。あとしばらくしたら、あの死体たちが外をうろつくだろう。町には入ってこれないようにはしてあるが、外には出るな。少なくとも、この家には入ってこれない」
それだけまくし立てると、僕が返事をする前にさっさと玄関から出て行ってしまった。どうやら少し慌てているようで、外から聞こえる足音は小走りをしていた。
僕は立ち上がって、いつでも動けるように準備体操を始めた。和彦が出て行ったということは、もういつでも動き始めるということだ。少し体を伸ばし、「よし」とわざわざ声に出して玄関扉に手をかけ、ゆっくりと開けた。
顔を出すと、遠くの空がわずかに紫になっていて、辺りはほとんど真っ暗だった。頭だけ出して左右を確認する。町人は誰も近くにはいないようだった。
すぐ近くの藪が揺れた。僕は慌ててそちらに目を向けると、暗さに慣れ始めた目には青年と少年が映った。いや、正確に言えば少年と少女のはずだが、身長や見た目は先に述べたそれだ。
僕はすっかり安心してそちらに向かった。藪から体を出した正則と仁は、僕に向かって手招きしていた。正則が嬉しそうに話し出した。
「和彦さんはうまいこと撒けたんだな!」
「いや、なぜかは知らないけど、どこかへ出かけて行ったよ」
「こんな夜にか?」
仁がいぶかし気に聞いてくる。
「うん、なんで?」
「この町の住人が夜に外出なんてするわけがない。夜は浜から化け者がやってくるって教えられるからな。だからかなり緊急の用でもない限り、夜中に外に出たりはしないはずなんだ」
「緊急ってどれくらい緊急なら夜に外出するんだ?」
下を向いて何かを考えていた仁が僕の方を向いて口を開いた。
「町の存亡に関わるくらいだろうな」
「つまり、今町の存亡に関わるくらいの大事件が起きている可能性があるってこと?」
「その可能性はある」
「大事件……?もしかして、颯太が来たことと何か関係あんのかな?」
正則が馬鹿っぽく話し出した。しかし、それこそ的を射ている気がした。
「かもしれないね。もし、そうだったらどうする?」
「気を付けて進むしかない。あと三日後には『時期』が来る。そしたら俺は死ぬかもしれないかもな」
仁は静かにそう言った。死ぬ、と言っていたが、なぜ死ぬのか見当もつかない。
「なんで死ぬかもしれないんだよ?」
「……今はいいだろ?早く行こうぜ、仁、颯太」
無言になってしまった仁に代わって、正則が元気そうにそう言った。仁はこくんと頷き、僕は「そうだね」と返した。
人食いの海 北里有李 @Kitasato_Yuri
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