人食いの海
北里有李
プロローグ
この町の伝統
遠くでセミが鳴いている。気分の悪い振動が耳に残って離れない。
夏真っ盛りの暑い季節に、私は汗を流しながらひたすら待っていた。吹き抜けた和室には、何人もの若者が同じようにただ待っている。
私はその中央で囲まれるようにして座って、うちわを扇いでいるカズオさんに話しかける。老人であるにも関わらず、その体から発する熱気は若者のそれ以上だ。
「今回は遅いですね」
「まあ、たまにある。安心しろ。今まで来なかったことはねえ。お前たちも働けるさ。そしたら俺は見てるだけでいいんだから、がんばれよ」
ニッと笑うカズオさんの言葉は力強かった。この調子なら、もう何年か若手には仕事はないだろう。カズオさんの仕事は若者にその仕事を見せることで、教えることじゃない。そして若者は、カズオさんが相手にするモノの恐ろしさを知り、正しく畏れることが仕事なのだ。
「カズオじいちゃん!」
甲高い声が遠くから聞こえる。縁側から顔を覗かせると、子供たちが跳ねているのが見えた。
「来たよ!」
その言葉を聞く前にカズオさんは動いていた。どこからか古びた金色の祭具を持ち出してきている。あれはカズオさん以外が触れてはいけない決まりになっている。金色の棒の先端に黒い毛がつけられており、筆のようにも箒のようにも見える。何の意味があるのか分からないが、仕事のときはカズオさんはそれをいつも持っていた。
「ほらお前ら、車乗れ」
そう言われると、若者たちは軽トラの荷台に乗った。私は助手席に乗り、カズオさんが運転する。軽トラは走り出した。
着いた場所は、浜辺の堤防だ。これを乗り越えれば浜がある。浜には誰も近寄らない。しかしこの時期になると、突然どこからか人がやってきて、浜に入っていく。子供たちはそれを見つけ、カズオさんに知らせるのが仕事だ。そして浜の対処をするのがカズオさんの役目だ。
「あったあった」
カズオさんは黒い軽自動車の真後ろに軽トラを停める。すぐに軽トラを下りて、老人とは思えないほど素早く堤防を登っていった。
若者たちもあとに続く。私はカズオさんのすぐ後ろに立ち、若者たちに身をかがめるように指示を出した。若者たちがうなづくのを確認し、私は堤防から少し顔を覗かせる。
浜には数人の男女がいた。きわどい水着を着ている女と、それに鼻を伸ばしている男。それは私の後ろにいる若者たちも同じだった。万一でも飛び出さないように、私は若者を見張った。
男女はさっき来たばかりで、まだ何も始めていなかった。ビーチボールを膨らませているので、もうすぐ遊び始めるだろう。そう思っていた時、Tシャツを着た男が海に向かって歩き出した。
男はどんどん海に入っていく。周りでは様子がおかしいことに気付いた様子の仲間たちが男に呼びかけていた。しかし意に介するどころか、気付いているかも怪しい男は、最後に正気に戻って「助けて」と叫んだ。その声ごと波に飲まれ、いなくなった。
慌てて海に助けに入っていく男は、声も上げずに波に飲まれた。携帯電話をいじって通報しようとする女たちは、ここが圏外であることに気付いて喚きだした。波の音に交じって甲高い叫び声が耳に残る。
しかしすぐに女たちは黙ってしまった。急に手を繋ぎ、波に向かって歩いていく。顔は見えなかったが、肩が強張っていた。白く艶やかな肩が沈み、やがて飲まれてしまった。
「さあ、行くぞ」
カズオさんがそう言った。若者たちは何が起こったか分からないというような顔でカズオさんを見つめていたが、無視していってしまう。
「置いてかれたら命はないぞ」
私はそう言い残し、カズオさんに追いつくために走った。すぐ後ろからいくつもの足音がした。
私たちの仕事はあの男女が残したものの片付けだ。パラソルやシート、クーラーボックスなどだ。
「あんまり離れすぎるなよ。食われても知らねーからな」
カズオさんは何も言わないので、私が声を張る。前に一度、何も言わずに仕事をしていたら、若者連中の一人が食われてしまったことがあり、それからは必ず言うようにしている。
バケツリレーのようにして、浜から軽トラに荷物を移していく。浜は清潔にしなければいけない。そういう決まりだ。
「さて、結構きれいになったな。あとは仕上げだ」
カズオさんは最後に残していた、あの男女の財布を漁り始める。そうして鍵を見つけた。
「おう和彦、あとで車頼んだぞ」
カズオさんは私に鍵を渡してきた。頷いて見せると、カズオさんは満足そうにニッと笑った。
そのときだった。何か声のようなものが聞えた気がした。私は周りを見渡したが、他の若者たちは気付いている様子はなかった。気のせいかと思ってカズオさんを見ると、カズオさんだけは海のほうを睨んでいた。私もならって海を見る。
そこにはカエルが二足歩行をして立っていた。しかし、カエルとは似ても似つかない場所が一つだけあった。その双眸は私たちを見つけて喜色に歪んだ。そこだけは、どこからどう見ても人間だった。
「助けてくれー」
今度ははっきり聞こえた。若者たちにも聞こえたようで、かすれた悲鳴があがる。
何度も浜に来ている私も、こんなものは初めて見た。他の若者たちと同じように、動けなくなってしまった。
ゆっくりとこちらに近付いてくるそれは、よく見ると服の残骸を身に纏っている。それには見覚えがあった。最初に食われたはずのTシャツの男だ。体中が水を吸って、カエルのように太っていた。よたよたと近付いてくる。
「助けてくれー」
その声は人間のものではなかった。砂浜全体が震えていた。
私が息を飲んだ瞬間、カズオさんが走り出した。その手には金色の祭具が握られている。私が全力で走っても追いつけないほどの速度で走っており、私たちは驚愕するしかなかった。
「どりゃあああああ!」
カズオさんは祭具でカエル男を殴りつけた。その勢いとは裏腹に、石を水たまりに投げ入れたようなポチャンという情けない音がした。光に照らされて白く輝く水しぶきは、多分血ではない。それが落ちたところの砂は黒く変色していった。
男は殴られた勢いで尻餅をついた。その頭を目掛けて、カズオさんは何度も打ち付ける。何度も、何度も、そのたびに救いを求める手が伸ばされ、踏んずけられた。頭の上から振り下ろされた一撃は、それぞれが全身の力を総動員したものだ。何度も打ち付けているうちに、次第に風船が破裂したかのような音が辺りに響くようになった。軽快な音で、男は楽しく踊っている。
「やめてくれぇ」
男は情けなく消えるような声で言った。カズオさんは容赦なく振り下ろした。バチャンと水音が響く。伸ばされた手は力を失った。
男は倒れて動かなくなった。カズオさんは油断することなく、その棒を上段に構えている。波だけが弔いの歌を歌っていた。次第に男の体がさらさらと砂になっていった。それを見るとカズオさんは安心したようで、疲れ切った顔をしながら戻ってきた。
「ああやってたまに戻ってくる。和彦、お前にもいつかやってもらうからな」
私は苦笑いするしかなかった。後ろで怯えている若者たちがどんな顔をしていたか少し気になったが、それよりも自分のほうが心配になった
「あれはやりたくないです」
カズオさんは笑って言い返してきた。疲れ切った顔は私を攻めるかの如くそこにあった。
「俺もだ」
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