第4話 父
買い出しを終えた帰り道。朝緒はオムツ片手に昔、如月屋の依頼人の赤子の面倒を雨音と共に見ていた時のことを思い出していた。
(赤ん坊なんてあれ以来か……あいつは小せぇからサイズはこれで大丈夫だと思うが)
ふと、弥朔が赤子を拾った経緯を語っていた、先刻の話が頭を過る。
(〝幽世門〟に捨てられて……いや、たったひとりでいた異形の赤ん坊……か)
そこまで考えて、朝緒は雑念を振り払うように頭を振る。そして、いつの間にか到着していた如月屋の壊れた戸口をくぐった。
「よし。よーし——ふむ。いい子だ」
居間の方向から赤子をあやす、穏やかで低い声が聞こえた。しかしその声は——桃の声でも、無論雨音の声でもない。
久しぶりに聴く、低くて、深くて——新月の、星のか細い光すら塗りつぶした黒い夜闇のような凪いだ声。
朝緒はその声が鼓膜を微かに震わせた途端、反射的に走り出して、あっという間に居間へと足を踏み入れていた。
「いい走りっぷりだ。変わらず息災なようだな——朝緒」
「……いつの間に帰ってきやがった、ジジイ」
居間で赤子を抱きかかえていたのは、一見すれば、腰まで届く白髪を緩く一つに括った美しい老女とも見間違えてしまう——老いた男。顔もシャツが捲られて露になった腕も、溝のように深く刻まれた皺ばかりだが、それさえも彫刻の如く不思議と美しく思える。
恐ろしいほど静かに赤子を抱くこの男の名は、
「今回は、二年くらいか? ……これでもう、生きてるか死んでるかもわからねぇ放浪は終わったかよ?」
「……ここへは、お前たちの顔を見に立ち寄っただけだ。私は間もなく発つ」
「ふざけんな! こっちはてめぇに言いてぇことがごまんとあるんだよ!」
朝緒は眠る赤子を起こさぬよう声を低めると、閃とは距離を置いたまま、しばらく言葉を選ぶように沈黙する。閃はただただ静かに朝緒を真っ直ぐに見据えて、朝緒の言葉を待ち続けた。
「……なんで。なんで、逢魔の奴を俺に任せるなんてことぬかしやがった。ジジイも、知ってたんだろ? 逢魔は……あいつは、異形を、異形の血を死ぬほど憎んで、嫌ってる。あいつほどの〝異形殺し〟はいねぇ。……そんな奴を、なんでよりにもよって俺なんかに任せる……? わけを、話せ」
朝緒は両手を爪が食い込む程握りしめて、俯きがちにか細い声で問う。
閃はそんな朝緒に微かに眼を細めて見せると、老いてなお、よく通る芯のある声で朝緒の問いに答えた。
「お前が、人間であり異形の者でもあるからだ。逢魔は、かつての私によく似ている……お前であれば、逢魔とも分かり合えるのではないかと」
「は……」
「朝緒。確かにお前は異形の血を引く者……それが逢魔に知られれば、お前は殺されるやも知れぬ。お前は、あの男が理解できぬのだろう。あの男がひどく恐ろしかろう」
異形の血を引く者。閃の言う通り、朝緒は人間だけでなく異形の血も引く、間の子であったのだ。
閃は、朝緒の心の根底にあった〝本心〟を容易く暴いてゆく。
心情がほとんど表に出てこない逢魔への、無知ゆえの不気味さ。そして、想像だにしなかった圧倒的な力で、小枝でも手折るように「殺す」と、異形の血を徹底的に絶やそうとする逢魔への何にも代えがたい恐怖感。
(そうだ。俺はあいつが……逢魔が何よりも、こわい)
そばに居れば、異形の血を引く自分もいつか、殺されてしまうのではないか。
そんな恐れの感情を、改めてまざまざと痛感させられて。朝緒は淡い金の髪を搔き乱して、絞り出すように閃の言葉に肯定する。
「……ああ。俺は逢魔が……こわい。情けねぇ……」
「情けなくなどない。それでよいのだ。その〝恐れ〟こそが……お前を強くする。そしてその恐れと、お前が奴と通じて感じた心を逢魔にぶつけることで、お前たち二人は〝柊の
朝緒は閃の言っていることの意味が上手く理解できず、微かに不安を滲ませた顔で再び閃を見上げた。閃はいつの間にか抱いていた赤子を脇に寝かせており、足音もなく朝緒へと歩み寄る。
「朝緒。あの子は……逢魔はお前を殺すことなどできぬ。何故なら、お前はあのようなケツの青い小童に殺されるような
「私の子だからな。当然であろう」と最後に閃は妖しく口角を上げて見せて、そのまま玄関へと向かってしまった。
朝緒は呆気にとられたようにしばらく固まっていたが、すぐに我に返って、玄関へと駆け出す。そして、既に遠く、小さくなってゆく養父の未だ大きな背中に向かって、がむしゃらに叫びをあげた。
「にしても、逢魔の件! 任せるなら手紙一つじゃなくて、直接俺に頼みにきやがれクソジジイ!! あともっと帰って来い! ただいまくらい言いやがれ! アホジジイー!」
閃は、朝緒の声に応えて軽く片手を掲げる。
そして微かに、閃が肩を震わせているのが分かった。
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