第6話 幽世門

「う、ふううう……! ふぎゃあ!」

「よし、よし……ごめんな。こわかったか」


 如月屋を出た朝緒は、ひと気のない静かな公園のベンチに座って、とうとう激しく泣き出した赤子をあやしていた。かれこれ数十分以上、公園内を歩き回ったりしてあやしているのだが、赤子は一向に泣き止む気配がない。

 そこでふと、朝緒は養父閃がいつかの日に語っていた、赤子の頃の自分の話を思い出した。


『赤ん坊の頃のお前は、夜泣きどころか朝昼夕構わずよく泣く元気な赤ん坊でな。……だが、幽世門のそばへと連れてゆくと不思議と泣き止み、機嫌よく笑っていたものだ』


 幽世門。それは、現世と幽世の境目。

 朝緒はかつて、その幽世門のそばで閃に拾われたのだという。


(……そういやこいつも、幽世門にいたんだっけか)


 朝緒はベンチから立ち上がると、未だ泣き止まぬ赤子の額を指で撫でてやって、ゆっくりと歩き出す。幽世門は、この公園の近くにもあったはずだ。



 現世と幽世の境目は、互いの世界の陰陽の気が濁流のように混じり合うためか、どこも非常に奇妙な環境となる。例えば、周辺に群生している樹木が高層ビルほどの大きさまで巨大化したり。水中を泳ぐはずの魚が、風の流れに乗って彷徨っていたり。虫たちの身体が色とりどりの光を放って、まるで星空が大地に降りてきたかのような光景になったり。

 このような場所のほとんどには、境目の印となる巨大な〝鳥居〟が建造されている。この鳥居こそが〝幽世門〟と呼ばれるものであった。


 朝緒は現在、その巨大な幽世門を赤子と共に見上げている。幽世門の周りには、まるで生え変わって落ちた鹿の角のような形をした樹木が立ち並ぶ、不思議な森が広がっていた。


「何度来てみても、妙な場所だなここは……どうだ? チビ。ここは気に入ったか」


 朝緒が腕の中にいる赤子にそう問いかけると、赤子は徐々に泣き止んで、どこか不思議そうな面持ちで柔い両の翼を小さく広げている。朝緒は、ようやく落ち着いてきた赤子を近くにあった切株に寝かせると、その上から覗き込んで首を僅かにひねらせた。


「そういやお前、あんま笑わねぇな」


 思い返してみれば、比較的この赤子は大人しい方だが、笑っているところは見ていないような気がする。そう思い至った朝緒は、しばらく険しい顔で考え込む。だが、ついに吹っ切れた顔をして短く息を吐き出すと、赤子に向かってニヤリと笑って見せた。


「……よし。面白いモン見せてやる」


 朝緒は赤子のいる切株から二歩ほど離れると、くるりと身軽に宙返りをした。すると、宙を舞う朝緒の姿が徐々に変容し——その身体は美しい金毛に包まれ、鮮やかな青色の眼は更に大きく、爛々ときらめく。そうして地に足がついた時には、狼ほどの大きさをした金毛青目の〝狐〟の姿へと変化していた。

 異形の血を引くという朝緒。その異形の血とは——大妖怪としての数々の伝説も残る、〝妖狐〟の血であったのだった。


 狐となった朝緒は赤子に近づくと、そのふかふかの長い尻尾を赤子の上で器用に振って見せた。狐の姿を見た赤子は一瞬目を丸くするが、すぐにきゃっきゃと声まで出して満面の笑顔を零す。そして、頭上を行き交う金色の尻尾を捕まえようと、小さな翼を広げて楽しそうに遊び始めるのであった。


「なんだ。よく笑えるじゃねぇか、チビ。……滅多にやらねぇことも、たまにはやってみるモンだな」


 朝緒は微かに目元を綻ばせて、赤子に尻尾を振り続ける。しかし、「アオは弱いから」と言った逢魔の言葉が何故か脳裏を過って、苛立たしく舌を打った。


「だがまあ、この身体……常時妖気を扱うのは容易いんだが。祓い屋として、祓いの力を必要とする〝祓いの御業みわざ〟を使えるのが〝夜明け前〟の時間帯だけってのが、かなり致命的だけどな……」


 異形殺しや祓い屋が異形に対抗すべく生み出した〝祓いの御業〟は無論、異形の妖気に対抗するために、人体が秘める祓いの力を源としている。だが、異形の血を引く朝緒はその祓いの力を自力で上手く引き出すことができず、祓いの力が高まる、聖なる時間帯の〝夜明け前〟でしか祓いの御業を使えないのであった。


「うーあ。ぶあー!」


 朝緒の尻尾を追って、一層明るくなった赤子の声で朝緒は物思いから覚めた。

 朝緒は、鴉の翼をぱたぱたと震わせ、己の尻尾で楽しげに遊んでいる赤子を再び覗き込む。そして、何となしに赤子に向かって小さく独り言ちた。


「俺も……お前と同じで、幽世門にひとり残されてたんだ。俺の場合は捨てられたのか、何なのかはよくわかんねぇけど」


 朝緒を拾った閃が言うには、朝緒を拾った後も何か月と朝緒がいた幽世門を訪れては親を探したが、誰一人と異形にも、人間にも出会うことはなかったそうだ。

 しかし、この赤子は異形売りによって、無理やり親元から攫われた可能性が高い。それならば、今の朝緒が願うことはたった一つ。


「お前は早く、父さんと母さんに会えるといいな」


 朝緒の珍しい柔らかな声音は夕暮れの薄闇に吸い込まれそうなほどか細いものであったが、まるでその声に呼応するかのように、赤子は一層高い声で笑った。

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