第8話 逢魔が時

 朝緒が飛び込んだ幽世の空は、青白い月だけがぽっかりと浮いているだけで。既に深い闇の帳が下りた真夜中であった。

 しかしそこには、思いがけず朝緒がまばたきどころか、呼吸まで忘れてしまうほどの信じがたい光景が広がっていた。


 辺り一帯は、朝緒が見たことも無いような。まるで、天を貫いてしまいそうなほどの巨大な山々が連なっている。そして何より朝緒が目を疑ったのは、〝島〟とでも形容すべきなのか——巨大な山々の中のいくつかが、削り取られたかのような地盤ごと、宙に浮いているのだ。

 淡い月明かりに照らされ白みがかった、薄紅の桜に覆われた山の島。全て葉が落ちて、丸裸となった木々だらけの島。火の粉を散らし、烈しい業火を纏う炎の樹木が並び立つ島。目にするだけでみずみずしい若葉の香りを錯覚する、鮮やかな新芽に満ちた緑の島。


 朝緒が想像していたような、地獄の世界とはまるで違う。

 思いがけず、生まれて初めて目の当たりにした幽世の世界の美しさに心を奪われていた朝緒であったが、唐突に足首を引かれて、転びそうになったところで我に返る。

 すぐさま足元に目を向けると、幽世門の向こうから何重もの蜘蛛の糸が伸びて、朝緒の足へと巻き付いていた。そのことに気が付いたのと同時に、幽世門の中から大量の蜘蛛が湧き出して朝緒を取り囲み、蜘蛛たちと共に男も門をくぐって出てくる。


「現世のか弱い一般人のことでも考慮して、幽世に逃げ込んだのか? 泣けるねぇ~。だが、俺の式神は幽世に満ちた陰の気によって、より強力になる! 親切心にかまけてバカなことしちまったな? 兄ちゃん」

「……」

「もう見ての通り逃げ場はねぇ。今なら、その異形を引き渡しゃお前の命だけは見逃してやる。おら、さっさとそれをこっちに寄こせ!」


 朝緒は腕の中にいる赤子を見下ろす。赤子は幽世に来たおかげか「うー。だあ!」と声を漏らして機嫌よさそうに笑っていた。朝緒も、己に向かって笑いかけてくれる赤子に笑みを返すと、指で赤子の柔らかすぎる春風のような香りをした頬を撫でてやる。そして、きっ、と刃の切っ先のような視線を男へと突き刺して、端然と啖呵を切った。


「バーカ。誰がてめぇなんぞに渡すか。このクソ塗れ毒芽人! チビは、父さんと母さんとこに帰る。……もう決まってることなんだよ」

「……おおそうかい。じゃあ、とっとと死ね!!」


 途端に、朝緒の全身へと蜘蛛の糸が何重にも絡みついてくる。朝緒は両腕を上げて赤子を糸から逃すと、そのまま地に倒れ込んで、そっと赤子をその場に降ろした。

 そして赤子を囲むように、どこから取り出したのか三本の柊の枝を地面に突き立てる。そうすると、赤子に群がろうとしてきた蜘蛛たちはぶるぶると身体を震わせて赤子から離れ、八方へと散った。


「!? 魔除けの柊だと!? このガキ、いつの間に……!」

「俺は祓い屋だぜ? 魔除けのブツくらい常備してる。それにやっぱてめぇの蜘蛛共は、妖怪の〝大蜘蛛〟をモデルにして、思念から創り上げた式……思業式神か。妖気まで蓄えさせて、随分とモデルに忠実なモンだな」


 顔を歪めた男に向かって朝緒は「元柊連の馬鹿が柊に阻まれるとは、笑える」と鼻で笑いながら、両腕を使って上体を起こす。


「俺は死なん。……そんで俺がいる限り、このチビはチビの親御さん以外には渡さねぇ!」

「……このクソガキが!!」


 激昂した男が、大太刀を振り上げて朝緒へと向かってくる。朝緒は短く息を吸って、深く息を吐き出した。


(幽世なら、俺の狐の力も強まるはず!〝燐火りんか〟——)


 カツン。

 ふと、男の大太刀から、踵の音にも似た小気味よい音が響いた。中途半端な位置まで大太刀を振り下ろしていた男はそのまま固まって、まるで魂でも抜かれたかのような呆けた顔を晒している。


「なんしよっと。アオ」


 あの狂犬は、珍しく心が乱れると妙な訛りの喋り方になる——おかしな癖を持っていた。

 頭上から降ってきた無機質な声から、そんなことを思い出して。朝緒は弾かれたように顔を上げる。

 そこには、振り下ろされかけていた大太刀の峰の上へと器用に乗って、朝緒を見下ろす逢魔の姿があった。

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