3-6 「プロット」の話(つづき)――物語が持つ(複数の)二重性

 前回、「ストーリー/プロット」という語が持つ三つの意味を紹介しました。


(1)時間的順序/叙述的順序

(2)本文/要約(あるいは構成)

(3)時間的前後関係/因果関係


 これはどういうことかというと、ひとくちに「物語」といっても、それは内容/形式のような二重性――しかも複数の二重性を持つ、ということです。このことに注意しながら「物語とは何か?」ということを考えないと、「小説=物語だ」とか、「良い小説=物語には対立が必要だ」とか、「良い本格ミステリに謎解き以外の要素は不要だ」とかいうように、様々な水準のものを混同するハメに陥ってしまいます(そのように画一的な「○○は✕✕だ」式の基準に閉じこもるのではなく、より豊かで新しい未知なるバリエーションに出会いたいと思うからこそ、本稿のような話をしているわけですが)。

 以降では、「プロット」の話から引きずりだした物語内容/物語言説の区別をテコに、


●本格ミステリとその他の物語ジャンルの違いとは何か?

●本格ミステリはなぜ読むのも書くのも面倒くさいのか?

●本格ミステリにとって叙述トリックとは何か?


 というような疑問について、説明していきたいと思います。


   *


 先に、『改訂 物語論辞典』から、物語内容(story(1))/物語言説(discourse(1))の説明を引きます。


 物語内容(story(1)):物語(narrative)の表現(expression)面である物語言説(discourse(1))に対立する物語の内容(content)面。物語の「いかに」に対立する物語の「なに」。物語るもの(narrating(2))に対立する物語られるもの(narrated)。(後略)

 物語言説(discourse(1)):物語(narrative)の内容(content)面である物語内容(story(1))に対立する物語の表現(expression)面を言う。物語の「なに」ではなく「いかに」。物語られるもの(narrated)に対立する物語るもの(narrating)。(後略)


「物語言説」というのは大ざっぱにいいかえれば「形式」といっても致命的な間違いではないと思うので、以後、便宜的に「形式」という語も私は使うことにしますが、内容/形式というのは、物語が持つ両面です。


 まず、「物語られる時空間」と「物語っている時空間」というものを想定してみる。どんな物語でも、これは原理的には区別できます。

 誰かが何か話を語っている。語りは言葉による再現だから、現実そのものではない。

 親が子供に絵本を読み聞かせるような場面をイメージしてみてください。この場合、「物語られる時空間」と「物語っている時空間」とは明らかに別ですよね。人物も場所も時間も、両者は全然違う。(声を出す親は単に書かれた文字を読むだけの役割なので、厳密には物語のナレーターとは異なります。この例はあくまでも便宜的なイメージです。以後の例も、厳密なものではなく、わかりやすさを優先しています)

 もっとトリッキーな例で考えてみたい方は、シミュレーション型のメタコント漫才を思い浮かべてみてください。一人が「実は△△やってみたいんだよね」といい、もう一人が「じゃあやってみようか」といって、コント空間に入る。このとき、コント空間と漫才空間は次元が切れている。「△△やってみたい」と主張するのはコント空間と漫才空間で同一人物かもしれないが、語りの次元としては切れている。と、とらえられます。


 さて、


●物語られる時空間/物語っている時空間


 の次に想定していただきたいのは、


●時間的順序/叙述的順序


 です。

 古典的な物語においては、その両者はおおむね一致しています。

 たとえば、現代において最も古典的な物語形式を採用せざるをえないものとして、四コマ漫画が挙げられます。

 物語形式というのは、長ければ長いほど、時間的順序/叙述的順序という物語の両面を複雑にミックスできます。したがって、短いとその両者の操作は簡潔にならざるをえない。雑誌でも新聞でも、なんでもいいですが、今も昔も、掲載されている四コマ漫画(一本)はたいてい、一→二→三→四コマの叙述的順序が、時系列にしたがっていると思います。

 つまり、叙述的順序=時間的順序、です。

 この場合、時空間の振れ幅というのは、実に小さい。扱われている時空間の振れ幅が大きいほど、複雑な物語であると読者は感じます。

 たとえば「ドラえもん」のTV版(一話10分サイズ)と映画版(大長編。90~120分)とを比較して、後者のほうをより複雑であると感じるのは、この時空間の振れ幅や折り畳み方が大きいからです(TV版一話のほうが四コマ漫画一本に近い)。


 物語の「時間的順序」の持つ意味や効果をより実感できるのは、旧約聖書と新約聖書の冒頭の比較です。

 たとえば、旧約聖書の冒頭は、世界創造から始まる。誰でも世界や人類の起源というのは興味がありますから、この場合、時間的順序=叙述的順序でも、問題はない。 

 ところが新約聖書の場合、読者(特に非信者)の興味があるのは、というか、始めからそういう主題として描かれているのは、イエス・キリストです。

 だから、

「アブラハムの子であるダビデの子、イエス・キリストの系図。アブラハムはイサクの父であり、イサクはヤコブの父、ヤコブはユダとその兄弟たちとの父……」

 と、時間的順序=叙述的順序として、旧約聖書式に書き出されると、ものすごく読みにくいと思う。

(おいおい、もっと核心部分から語ってくれよ)

 と思うわけです。

 ところが、読み物としての新約聖書の冒頭の評判の悪さに比べると、旧約聖書のそれは、誰も文句をいわない。それは、時間的順序=叙述的順序、という物語方式が、読者の興味に合致しているからではないでしょうか。


 先に、


  時間的順序/叙述的順序


 は「物語」の両面である、と書きました。

 読者は、叙述的順序(出来事が語られる順序)を通して、時間的順序(出来事が本当に起こった順序)を知る。

 古典的かつ単純な物語形式においては、この両者はほぼ合致するのですが、現代小説の技法は、この両者を、どんどん複雑に乖離させる方向に向かって行きました。

 そのため、物語の「叙述的順序」と「時間的順序」の乖離を、作中で説明する役割の人物が、だんだんと必要になってきます。

 私見では、つまり、これが「探偵役」です。

 ミステリを他のジャンルと比較して特徴的に浮かび上がるのは、この、「作中で物語を二度語る」という行為を、「探偵役」が自覚的に行なう、という要素です。


 典型的な安楽椅子型の探偵小説の場面をイメージしてみましょう。前半で、依頼者が事件について、それがいかに謎めいているかを物語として語る。で、後半、今度は探偵役が、その謎(事件)の真相がなんだったのか、謎解きを物語として語り直す。

「物語られる時空間/物語っている時空間」についていえば、このとき、最初に語られる「謎」としての「事件」は、彼らが語っている時空間(自宅でも事務所でもどこでもいいですが)とは切れている。たとえその後現場に出向いて同じ場所で語られたとしても、時間的には切れている。と、おおむねいえるでしょう(ハードボイルドのような実況中継式の語りについては、ここでは後回しにします)。

 その後、「探偵役」は、先に語られた=聴き手として聞いた謎=問題を、謎解き=解決として、語り直します。

 つまり、作中で謎=問題篇として一度語られた物語(叙述的順序)が、謎解き=解決篇として語られ直す(時間的順序)と、探偵役以外の作中の聴衆および読者には、「謎」は「解決」されたものとして、了解される。

 このような、「物語」を「誰が」「いつ」「どこで」「どう語るのか」「それをどう語り直すのか」という意味では、ミステリとは、謎=問題篇=叙述的順序という「物語」を、謎解き=解決篇=時間的順序という「物語」に解体・再編する。その、「物語(叙述的順序)」から「物語(時間的順序)」への変容過程自体を、(「探偵役」という聴き手から語り手への変容を蝶番として)一つのメタ「物語」として語るものである。というふうに、いうことができるでしょう。

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新・叙述トリック試論 孔田多紀 @anttk

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