3-5 「プロット」の話

 ここで少し脇道にそれて、小説における「プロット」とは何か、という話を、以前から書こうと思ってなかなか書けていなかったので、とりあえず置いておくことにします。

「トリックよりロジック。ロジックよりプロット(を自分は重視する)」というフレーズ(元ネタは都筑道夫の『黄色い部屋はいかに改装されたか?』)を私が初めて目にしたのはたぶん、高校生の時でした。で、この頃は「プロット」という語をなんとなくフワッと捉えていたので、(それが現代の本格ミステリなのか~)くらいに思っていたわけですが、次第にこの「プロット」という語の意味がよくわからなくなったのは、たとえば現役作家がSNSなんかで「実際に本文を書き始める前にプロットを編集者に提出した」というような言い回しに出会った時です。

「ロジックよりプロット」の場合の「プロット」は、趣向とか叙述方法というような意味に感じられる。けれど、「プロットを提出」の場合の「プロット」は、執筆前の設計図とか草稿とか企画書のような感じです。この二つは全然違うものですよね。たとえば都筑のフレーズを「ロジック(論理的解明)よりもプロット(企画書)(を重視する)」というふうに言い換えれば、その意味不明ぶりは明らかになる。

 これがさらに、例のE・M・フォースターにおける有名なストーリー/プロットの区別を考慮するとなると、ますますわからなくなってきます。たとえば、この雑居具合を率直に反映している(と思われる)Wikipedia日本語版の「プロット」の項(のフォースターの議論を『アナと雪の女王』に応用した部分)を見てみましょう。


【プロットはストーリーとは異なる。プロットは因果関係であり、ストーリーは単なる前後関係である。「王女は雪山に逃げた女王を追う。だから、王女は雪山で女王を見つける」はプロットである。一方で、ストーリーは、出来事を起こる時間の順序どおり、省略せずに並べた文章であり、プロットとは区別される。「王女は雪山に逃げた女王を追う。それから、女王は魔法で氷の城を造る」はストーリーである。このように、「だから」で出来事のつながるものがプロットであり、ただ単に「それから」でつながるものがストーリーである。】


 こうした、


  ストーリー=前後(時間)関係

  プロット=因果関係


 という捉え方が、先の、


  プロット=趣向・叙述方法/設計図・草稿・企画書


 という捉え方とは全く異なることは、じっくり眺めてみれば誰でもわかることだと思います。

 では本当のところ、「プロット」とはいったい何を指しているのか?

 いろいろと読んで考えた結果、私が理解したのは、「プロット」という語はその歴史的文脈の違いによって、意味もまた異なる、ということでした。つまり、「プロット」という同じ語でも、使う人によって、全然違う概念を指しているわけですね。同様に、「ストーリー」という語も、身近なものでありながら、時に正反対の意味で使われたりする。そういった、「この言葉ってけっこう厄介だよ」という共通了解が一般にないから、私のようにこんがらかってしまうのではないか(現実に、フォースター的な用法と都筑的な用法との間に挟まれ、私は十年ほど、気軽に「プロット」という言葉を使えない時期がありました)。


   *


 ジェラルド・プリンス『改訂 物語論辞典』の「プロット」の項では、主に四つの意味が挙げられていますが、私は、本稿(この叙述トリック論)と密接に関わる三つの意味を以下、独自に整理して挙げることにします。


(1)叙述的順序としての「プロット」

 以下に紹介するのは、ロシア・フォルマリズムの議論におけるファーブラ(fabula)/シュジェート(sjuzet)の区別に、あるいはアリストテレスの議論におけるロゴス(logos)/ミュートス(mythos)の区別に、(擬似的に)対応するものとしてストーリー/プロットを考えた際の用法です。

 この場合、「ストーリー」は「(物事の)時間的な順序」を指します。たとえば、一篇のミステリを読み終えると、たとえ現代を舞台にしたものでも、ものすごーく長い時間的射程をもったものもありますよね。そのクロニクルを整理すると、読み始めた際のファースト・インプレッションとはまったく異なり、五十年、百年といった単位で作中の重要な出来事の年表を再配置することができたりする。

 これに対する「プロット」は、「叙述的な順序」です。たとえば冒頭、私立探偵の事務所に依頼人がやってくる。依頼人が解決してほしい問題を話す。探偵はインタビューに出向く……。で、最後までいくと、事件の全体像が判明し、なんらかの終止符が打たれる。

 こういう並べ方は、先の時間的な順序とは異なります。時間的に捉えれば、なんらかの原因となる事象が先にあり、それから問題が起こり、その後に解決がくる。ところが、(先の典型的なハードボイルド・ミステリふうな)叙述的な順序でいえば、まず依頼があり、問題の一端が説明され、それから原因が追求・解明され、その後に解決がくる。


  時間的順序(≒ストーリー):原因→問題→依頼→調査→解決

  叙述的順序(≒プロット):依頼(→問題説明)→調査(→原因解明)→解決


 つまり、この対比において、「時間的順序(ストーリー)」が食材だとすれば、「叙述的順序(プロット)」は調理済みの食物、とでもいったものです。受け手はあくまでも叙述的順序を通して、(作中の出来事を時系列に並べ直すとこんな感じかなあ)などと考えることができる。

 これが先の、E・M・フォースター型のストーリー(時間的順序)/プロット(因果的順序)の説明と異なることは明らかだと思います。フォースター型の「プロット」説明においては「ストーリー」から因果関係の着目は排除されますが、ロシア・フォルマリズム型のファーブラ(≒ストーリー)/シュジェート(≒プロット)説明においては、むしろストーリーにおいても因果関係は重要な要素となる。

 なぜそうなるのか。E・M・フォースターが『小説の諸相』でその有名なストーリー(時間的順序)/プロット(因果的順序)の区別を行なったのは1927年です。一方でトマシェフスキーやシクロフスキーらがファーブラ(時間的順序)/シュジェート(叙述的順序)を区別したのも同じく1920年代。それがのち60~70年代のナラトロジー成立後に、ロシア・フォルマリズムやアリストテレスの先駆的な議論にまで遡って吸収される。要するに、「時間的/因果的」と「時間的/叙述的」という区別は、1920年代に同時代的に異なる文脈でなされていた。それが後でごっちゃになったり整理されたりした。

「だったら、別に無理に合流させる必要はないんじゃない?


 〈時間的/叙述的〉という区別はファーブラ/シュジェート(ロゴス/ミュートス)

 〈時間的/因果的〉という区別はストーリー/プロット


 で分けておけばいいんじゃない?」という意見(批判)もあり、私もそれは一理あると思います。が、ミステリ論の一部ではすでに、「プロット=趣向・叙述的順序」という理解が成立しているのは確かです(「プロット型本格」というような言い回しはその現れです)。

 用語の違いはともかく、本稿の目的に即していえば、


  時間的順序(ロゴス≒ファーブラ≒ストーリー)

  叙述的順序(ミュートス≒シュジェート≒プロット)


 という対比をとりあえず捉えたほうが、「叙述トリック」の理解にはとりわけ役立つと思います。

 そしてこれをミステリ論の文脈に接続するために、私なりに思い切りパラフレーズすれば、


  内容(ストーリー)

  形式(プロット)


 というような区別で捉えてみてはどうでしょうか。

 都筑の「トリックよりロジック。ロジックよりプロット」を例に挙げれば、「トリック」も「ロジック」も内容に属します。「プロット」は形式です。そのように整理した場合、都筑のいう「モダーン・ディテクティヴ・ストーリイ」とは、内容よりも形式を重視する、という宣言(ないし風潮)だと見なすことができるでしょう。実際、現代的なミステリは、密室トリックだとかアリバイトリックだとかいう「内容」よりも、叙述トリックのような「形式」面のほうで生き延びてきた。

 一方、話を変えれば題材の面でも、たとえば1960年代日本で「社会派推理」が台頭してきた時は、「密室を問題にするのはヴィクトリア朝的な思想」というような見下す評言がすでにあった(高木彬光・松本清張・水沢周「推理小説の作者と読者」「思想の科学」1962年10月)。つまり密室(プライベート)というのは固定・安定した社会(パブリック)の中でこそ問題となるので、1950〜60年代日本のような不安定な社会、個人というものが確立されていない社会ではアクチュアリティがうすいのではないか。それより、密室というお化け屋敷のような狭い場所を飛び出して、社会全体を覆う不透明な陰謀の解明に重点を移した方が意味があるのではないか……というような見方です。

 こうした、内容から形式へ(都筑道夫)/密室から社会へ(松本清張)という動きを、内部から外部へ、というトレンドシフトだとまとめて捉えると、その後の、ありえない館をわざわざ作って密室を解く(新本格)とか、非現実的な制度や法則をわざわざ作って密室を解く(特殊設定もの)というような風潮も、単に外部から内部へ、という揺り戻しではない、前者(内部)を再解釈したものとしての気配が感じられます。

(仮に今後、密室やアリバイをどうしても書きたい、挑みたい、という人は、そういう部分に着目して――つまり、現代において「形式」を無視して「内容」だけで勝負することは不可能なので、「内容」に重点をおきながらもそこに「形式」をどう再解釈して按配し直すか、という部分で――戦略をたてる必要があるのではないでしょうか。)


(2)要約としての「プロット」

 再び前記Wikipedia「プロット」の「日本におけるプロット」の項を見てください。特に映像制作において物語の大まかな構成をさす文書が「プロット」で、しかしこれは日本独自の用法らしい。海外ではその分量に応じて「ストーリーライン」「トリートメント」「シノプシス」などと呼ぶ。で、元々は下に挙げる(3)のような用法からきているのだと思いますが、それら全体に関わるもっと抽象的な、ドラマの構成、のような概念が「プロット」と呼ばれる。したがって、


  ストーリー=物語全体の流れ

  プロット=その短い要約(あるいは構成ないしそれをまとめたもの)


 です。こうした区別は、最初に挙げた「設計図」「企画書」に近いといえるでしょう。ではなぜそうした「事前に用意する文書」が必要なのか。

 これは映像制作のことを考えればわかりやすいと思います。小説執筆の場合、たいていは、物語を考える人と実際に書く人は一緒です。ところが演劇や映画の場合は、脚本家/演出家/俳優、などとわかれていることが普通です。何人もの人員が関わるぶん、設計図が完成していないと、誰も十全に動けない(スケジュールも押さえられない!)。だから、事前にプランをちゃんと練っておく必要がある。

 逆に、小説執筆者は、それらレイヤーの異なる何役を一人でこなしている、ともいえる。よく小説執筆者で、「あまりプランを事前にギチギチに練りすぎると、実際の執筆が単なる反復となってしまい、つまらなく感じられる」という人がいます。それはたぶん、媒体の違いも大きいと思います。つまり、上演や撮影など現実のヴィジュアル表現においては、設計図=文書と演技=アクションとでは、大きな違いがある。俳優はプランナーの意図を汲みとり、さらに、独自の解釈を演技において活かそうとする。そこには隙(遊び)がある。ところが、小説の場合は設計図も本文も、同じように言葉で書かれ、さらに、脚本家が俳優も兼ねるというように、指示系統も近いので、隙(遊び)が少ない。ここに、「小説書きのプロット(設計図)作りのつらさ」の原因の一端があるのではないか。

 たとえば最近、AIを利用した小説執筆の報告例が増えてきました。これなども、コンセプト/プロンプトの考案(人間)→アイデア出し(AI)→吐き出された案の検討(人間)→実際の執筆(人間)……というふうな、それまで「作者」が一人でやってきたことを役割分担することによる兼任の解除(負担の外部化による軽減)などと見なせば、その有用性を感得する人も出てくるのではないでしょうか。つまり、小説執筆においても、以上のような複数の役割をユニット的に分割して捉えれば、隙(遊び)を生み出す余地が今後できてくる、そして効率化につながる可能性もあるのではないか?(もちろん、著作権侵害などの倫理的な問題をクリアした上で、のことですが)


(3)筋としての「プロット」

 これまでフォースター型の整理をやや腐してきましたが、この「筋としてのプロット」は一番近い捉え方です。実際に、フォースターの『小説の諸相』におけるストーリー/プロットの区別を見てみましょう。


【まずプロットを定義しましょう。われわれはストーリーを、「時間の進行に従って事件や出来事を語ったもの」と定義しました。プロットもストーリーと同じく、時間の進行に従って事件や出来事を語ったものですが、ただしプロットは、それらの事件や出来事の因果関係に重点が置かれます。つまり、「王様が死に、それから王妃が死んだ」といえばストーリーですが、「王様が死に、そして悲しみのために王妃が死んだ」といえばプロットです。時間の進行は保たれていますが、ふたつの出来事のあいだに因果関係が影を落とします。あるいはまた、「王妃が死に、誰にもその原因がわからなかったが、やがて、王様の死を悲しんで死んだのだとわかった」といえば、これは謎を含んだプロットであり、さらに高度な発展の可能性を含んだプロットです。それは時間の進行を中断し、許容範囲内で、できるだけストーリーから離れます。王妃の死を考えてください。ストーリーなら、「それから?」と聞きます。プロットなら、「なぜ?」と聞きます。これがストーリーとプロットの根本的な違いです。ぽかんと口を開けて聞く原始時代の穴居人や、シェーラザードに毎晩面白い話を強要する暴君や、彼らの子孫である現代の映画の観客などには、プロットは語れません。彼らを居眠りさせないようにするのは、「さて、それから――さて、それから――」というストーリーの興味だけです。彼らには好奇心しかないのです。しかし、プロットは読者に知性と記憶力も要求します。(中野康司訳)】


 よく見ると、「謎を含んだプロット」「時間の進行を中断」などのように、(1)の理解とかなり近い部分も見受けられます。しかし、ウィリアム・フォークナー以降増えた(特にラテン・アメリカ小説やメタフィクションなどに顕著な)、複数のストーリーラインが複雑に入り乱れる長篇に私などは慣れすぎたせいか、「時間の進行は保たれ」のような部分でつまずいてしまう。こういう(古典的な)理解は、ギリシア悲劇やシェイクスピア演劇くらいまでならばまだ捉えられると思います。実際、フォースターの議論には、「小説におけるプロットというのは演劇から借りてきた概念ではないか」というような言い回しも見受けられる。物語というものを一本の線、時間のように直線的なものだとして、読者が読んでいる時間=作中でもドラマが劇のように再生されている時間、というふうに捉える考え方ですね。しかしその後、時間的前後関係が特に因果関係もなくひんぱんに入れ替わるようなナラティヴの小説はどんどん増えてきた。 

 といっても、そのように複数の筋が入り乱れる、複雑な現代的作品においても、「因果関係」への着目が役立つのは、確かです。

 たとえば、(1)で述べたように、どれだけ筋が複雑になっても、解きほぐして「こういうことかな」と一本の線のように解釈することはできる。

 他方、それが何本もの線になることもある。何シーズンにもわたる連続ドラマのような場合です。シリーズ全体を通じて何かその物語全体を牽引する大きな筋(大プロット)があり、一クールを通じて引っ張られる懸案があり(中プロット)、一話完結で解決される問題(小プロット)がある。あるいは、一冊の長篇ミステリなら、事件の解決が大プロットだとして、そこに恋愛やその他の問題が絡んだり。それが複数冊にわたるシリーズものなら、事件解決が小プロットに降格し、恋愛問題が大プロットに昇格する、というような事態もありえます(一冊完結の連作短篇集のようなものでも同様です)。


 *


 以上、「プロット」という語が持つ三つの意味について述べてきました。それを整理すれば、


(1)叙述的順序

(2)要約(ないし構成)

(3)因果関係


 重要なのは、排他的に「このうち一つが真の〈プロット〉であり、それ以外は偽の〈プロット〉だ」というようなことをいいたいわけではなく、それぞれこれだけ異なる用法が、同じ「プロット」という語において実際に使われている。だから、「こういう使われ方もあるんだな」くらいのことを知っておいて、自分が書き/読む際には注意しておいたほうが、あとあと自他の混乱を招かないですむのではないか、ということです。

 中でも私が重視したいのは(1)の用例、すなわち時間的順序/叙述的順序の区別です。ところがこの意味で「プロット」という語を用いようとすると、先に述べてきたように、ものすごくややこしい。なかなかフラットに「プロット」という語は使いづらい。同様に、「ストーリー」という語も、何の留保もなしには使いづらい。たとえばよく小説の文庫本のカバー裏に「あらすじ」が書いてありますが、ああいう説明は「ストーリー」とも呼べるし、叙述的順序(1)の要約(2)・因果関係(3)の意味では「プロット」とも呼べる。すなわち、(1)(2)(3)には重なる部分と重ならない部分がある。1920年代のフォースターの議論ではまだ、これらをなんとなく一緒に扱っている感じです(だから、いま見るとかえってわかりにくい)。ところが、二十世紀小説の形式面での発展は、それらをどんどん乖離させる方向で動いてきた。

 この後に紹介するシーモア・チャットマンの議論においては、(1)のような区別を、


  物語内容(ストーリー)

  物語言説(ディスコース)


 と呼びわけています。

 私も、この後の本稿においては、(1)の意味で「プロット」と呼ぶことはせずに、主に「物語言説」という呼び方をしようと思っています。

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新・叙述トリック試論 孔田多紀 @anttk

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