3-4 視点と口、一人称と三人称――ジェラール・ジュネット『物語のディスクール』

 これまで物語論がうんぬん、と書いてきました。が、一般的には、その本格的な始まりは1966年フランスのCommunications誌における特集だとされています。ジェラール・ジュネット、ツヴェタン・トドロフらのちのち重要な業績をまとめるメンツの論考が集い、ロラン・バルトが「物語の構造分析序説」と呼ばれるイントロダクションを付ける。のち69年にトドロフが『デカメロンの文法』で「物語論」narratologieと名付けることになるこの領域は、その源流として1920年代頃のロシア・フォルマリズム(プロップ、シクロフスキー、ヤコブソンなど)、そしてヤコブソン、バンヴェニストなどの言語理論、レヴィ=ストロースなどの構造主義の影響を強く受けています。すなわち、先にウェイン・ブースの議論(1961)を紹介しましたが、ブースの議論はどちらかといえばアメリカの新批評(ニュー・クリティシズム)の流れを汲んでおり、フランスにおける流れとは、どうも思想的な背景がかなり違う。しかしブース以後ヴォルフガング・イーザー、スタンリー・フィッシュなどが関わった「読者論」とも微妙に重なったりすれ違ったりして、このあたり、私のような素人目には地雷が多く、なんとなくちょこまかしているうちに前回の更新から一年近い時間が経ってしまいました。が、いつまでもそうもいっていられないので、繊細な話はとりあえず脇に置いておいて、必要と思われるトピックだけをかいつまんで紹介することにします。

 フランス系の物語論において最も主要な体系化された著作といえば、プルースト『失われた時を求めて』を題材にしたジェラール・ジュネット『物語のディスクール』(1972)です。

 そこでジュネットは、いくつか画期的な概念を提出しています。本稿に関連して私が重要だと思うのば、「目」と「口」の分離です。先述の「一人称寄り三人称」などの技術が可能なことからもわかるように、「視点人物」と「語り手」の役割を区別し、それぞれが独立した存在でありうる、ということを明確に示しています。

 ジュネットの議論はさらに、「一人称」「三人称」といった名称そのものにも関わります。一般にいう「一人称の物語」とは、「語り手」が物語世界内部に登場する物語、のことです(ジュネットの用語では「等質物語世界」)。いっぽう「三人称の物語」とは、「語り手」が物語世界内部に登場しない物語をいう(同じく「異質物語世界」)。

「一人称」「三人称」という言い方は小説特有のものではなく、語学なんかでもやりますから誰でも馴染み深いものだと思いますが、一つの「文」と「小説」全体では、長さがまったく違う。「一人称小説」といっても、すべての文章が一人称でできているわけではなく、実は語り手は時に二人称も三人称も非人称も使う。つまり人称は混在しているのがふつうです。逆に、「三人称小説」にもなんらかの一人称は出てきうる。ならば、両者はどこが違うのか?

 大まかに考えれば、「一人称の語り手」は「私」として自身を指し示す言葉を使えるけれど、「三人称の語り手」は使えない、というふうに区別できそうです。しかし「語り手」が小説全体の役割としてはむしろ「聞き手」をメインに務め、誰かから聞いた話を報告するだけ、というような入れ子構造を持つ小説の場合(『フランケンシュタイン』や『嵐が丘』など)、「一人称小説」「三人称小説」といった言い方にはほとんど意味がありません。むしろ、語り手(それは作品全体では複数人・複数の次元において存在する場合もある)はどこにいるのか、ある物語の次元の内部にいる(等質物語世界)か、あるいは外部にいる(異質物語世界)か、を区別として考えたほうが、よりわかりやすい(たとえば『フランケンシュタイン』という小説全体を手紙としてまとめているロバート・ウォルトマンは「語り手」ですが、フランケンシュタイン博士が回想する物語の内部には登場しない)。また「二人称」「非人称」をどう位置づけるか、という問題も、「その語り手が物語世界の内部にいるか、外部にいるか」という「語りの水準」で考えれば、一人称/三人称との違いはほとんどなくなり、あるていど解決するでょう(ついでにいえば、「四人称とは何か?」というような疑問も、疑似問題として頭を悩ませる必要が軽減されます)。

 こうしたことから、ジュネットの議論においては、すべての語りは本質的には「誰かが語ったものである」という意味では一人称的であり、そのため等質物語世界/異質物語世界という「語りの水準」と、一人称/三人称という「人称」とは区別されるのですが、便宜的に私は以後も「語りの水準」の意味でも「一人称/三人称」を本稿で場面に応じて使うことにします。


 しかし、「等質物語世界」にせよ「異質物語世界」にせよ、誰か語り手が語っている、という構えであるのは変わりない。おそらく、多くの人が引っかかるのは、いや、三人称の語り手って何なんだ? そんなヤツはホントにいるのか? ということではないでしょうか。小説作法本などでは今でもよく「神の視点」などといいますが、これまで見てきたように、「視点」=目と「語り」=口とは、実は役割が異なる。目それ自体は語らない。だからジュネットの用語では「視点」ではなく、知覚や思考や感情も含めた情報を把握するセンサーを「焦点」という。

 三人称だからといって必ずしも「神の視点」になるわけでもないことは、たとえば遠い過去の人物の言動に関する記述を現在の視点から行う場合、を考えれば明らかではないでしょうか(歴史記述者はその扱う時空間について何でも知っているわけではないから。このことについては、のちの章でも取り扱います)。

 ならば、そのセンサーが知覚した諸々を言葉にする語り手(とりわけ、三人称〜異質物語世界的な)とは、いったい誰なのか?

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