3-3 「信頼できない語り」のターニング・ポイント――ウェイン・C・ブース『フィクションの修辞学』
パーシー・ラボック『小説の技術』が小説における「視点」の問題を提起した書として言及されるようになってから四十年のあいだにも、テクストから「作者」の退場を良しとする意見は次第に増えていったようです。ブースは『フィクションの修辞学』第一部でそれらの意見をズラリと並べ、バッタバッタと薙ぎ倒していきます。すなわち、状況をこう整理します。
ラボックとその支持者は議論を単純化しすぎた。彼らの本尊のフロベールやジェイムズだってそこまで極端なことは言っていない。実際、よくよく見ると現代のシリアスな小説にも「作者」の痕跡はかなりある。「作者」の「声」が消えることはない。いっぽう返す刀で、ジャン=ポール・サルトルが「フランソワ・モーリヤック氏と自由」(一九三九)で示したような、「作者は登場人物に対し支配的な神の視点に立ってはならず、彼らを公平中立に自由に行動させるべし」といった見方をも斬る。「何を書くか」という作品の叙述には常に、「何を書かないか」という作者による選択が働いているのだから、完全な公平中立性などありえない。そうした創作法は柔軟性に欠ける(現実に、サルトルはこの時にはすでに、かつての硬直的な態度――それは実存主義哲学とも大きく関わるものでしたが――を変更しつつありました)。
ブースはこうして、
〈真の小説は写実的であるべきだ〉
〈すべての作者は客観的であるべきだ〉
〈真の芸術は受容者を無視する〉
といった意見を退けます。写実性、中立性、難解さなどは高ければ高いほどいい、というものではなく、それらの適切な度合いは全体の意図や題材との相性といった個々の作品の事情による。というのは、いま考えるとあたりまえに見えるかもしれませんが、これは後述するように、当時のメディア環境の変化の中で考えたほうがよいかもしれません。
ラボックやサルトルに対しブースが強調しているのは、小説における「コミュニケーション性」です。「語り」の技法とは、作者が読者の反応を喚起する修辞学(レトリック)の一種である――というのがブースの第一の主張。「信頼できない語り」という考えも、このコミュニケーション性に由来します。
なぜ、読者は「この語り手ないし視点人物の言動はおかしいぞ」と感じることができるのか。それは、作者(必ずしも現実の作者と重なるとはいいがたいので、「内在する作者」などと仮想的な存在として呼ばれる)がサインを送っているから。たとえばジェイン・オースティン『エマ』。一人称寄り三人称のこの長篇において、主人公のエマはどこか傲慢な性格を持ちながらもそのたび友人や恋人にたしなめられ、最後は結婚してハッピーエンドを迎える。鼻持ちならないキャラクターであるはずの主人公に、読者が共感しその結末を祝福せざるをえなくなるのはなぜか? それは誰でもエマのように自分への甘さや欺瞞を持っているからだ、しかし一歩間違えればそれを扱う小説は単に読者に反感を感じさせるだけのものにもなりかねない、その複雑微妙なコントロールをオースティンは見事に行なっている――というのです。
かつての物語においては、作者は地の文において権威ある声(「信頼できる論評」)でもって登場人物をハッキリと評することができた。善人は善人、悪人は悪人、美しいは美しい、汚いは汚い、と作中の物事をザックリ表してなんの問題もなかった。しかし「作者の声」に制限が加えられるリアリズムの時代にあっては、傲慢なところもあるが幸せになる権利を持つ人物(つまり読者によく似たどこにでもいる市井の人物)の複雑さを複雑なまま描くには、なんでもかんでも地の文で説明するのは大味すぎる。
そこで主に用いられるのが、アイロニーです。これは読者と作中人物の持つ情報格差を利用したテクニック。読者はあることを知っているが、作中人物はそれを知らない。そこから、作中人物の言動が「額面通り」に作用しない、という皮肉な効果が生じます。作者は読者への情報伝達をうまく調節することで、作中人物への印象をもまた操作する。人は嘘をつけばやがてバレる、傲慢な態度をとればしっぺ返しを受ける、人を殺せば裁きにあう……といった出来事レベルでも、あるいはちょっとした文体レベルでも、その微妙な舵取り、というか、プラスとマイナスの応酬によるコントラストのドラマティックな展開こそが、作者の腕の見せどころ。作品全体にわたるこうした道徳的なバランス感覚が自分のセンスに合えば、読者は物語の背後にいる作者を信頼し、もし合わなければ、「読み通すのは厳しいな」だとか「not for meだな」だとか「小説がヘタクソだな」などと思う。
物語におけるアイロニー自体は太古から近代に至るまで見られるものの、それを視点や語りを駆使した文体レベルでリアリスティックに行なうようになってくると、「言っていること」と「言わんとしていること」という、言表と意味のレベルの乖離が広がり、読者の方にもかなり高度な読解力が要請され、さらに「意味が伝わらない」という困難さえも生じてきます。
ブースによれば、その転換点となったのは、やはりヘンリー・ジェイムズ、特に「ねじの回転」あたりから。家庭教師の女性による一人称の有名な幽霊譚ですが、語り手の精神の様子はどうもふつうでないらしい。はたして語り手は本当に幽霊を見たのか、それとも妄想だったのか? これまでも述べてきたように、ジェイムズ自身はもともと理論派でもあって、自作の読解にはかなり明確な立場をとっていた(つまり、「ねじの回転」は「信頼できる語り」として書いたので、幽霊は本当に出た)。しかし、にもかかわらず、控えめな語り手という高度な技法を用い、また読者はそれによって確固たる手がかりを失ったことで(「非個人的な語りの代償」)、どうとでも読めるような曖昧な幻想小説という
印象をのちに与えることになり、エドマンド・ウィルソンのような「妄想」派と幽霊派とで論争まで起こった。そしてこの小説の特異さは明らかにこの曖昧さにあり、それはもし「作者による信頼できる語り」を用いようものならぶち壊しになってしまうなものでもある。そしてそうした曖昧な小説は、ジェイムズ以後ますます増え、読者を混乱に陥れている(その頂点がジョイス)、というのです。それだけでなく、難解な小説に慣れすぎた読者はやがて平易な小説でもその記述を「額面通り」に受け取れなくなり、曖昧さという「霧を好む」ようになってしまった。ヘンリー・ミラーやメアリー・マッカーシー、ソール・ベローのように、自作への過剰な「深読み」を戒める作家まで出てきた。
そこで、ブースが強調するのはやはり、作者と読者との「コミュニケーション性」です。たとえばジェイムズ読解にあたり、執筆前のノートと、実際に発表された小説、そしてその改訂版、さらにジェイムズが自らの意図を説明した序文、という四つのテクストを用いながら、「ねじの回転」以上に「信頼できない語り」によるアイロニーが用いられた小説として「嘘つき」「アスパンの恋文」を解説していきます。四つのテクストの比較から、当初の構想、執筆にあたっての構想の変化、読者の反応を織り込んだ改訂、それらについての回想……という過程をたどり、「作者」の意図を測定しようというわけです。しかし、ある一つの小説について読者に対し四つのテクストが与えられる、というような例は稀です。読者はたいてい、一つの小説テクストだけからその小説の意図を読み取り、判断しようとするもの。特に、現代の新作小説、それも新人の小説であればなおさらヒントは少ない。
では小説がますます複雑になってゆく時代に、読者と作者が共に捉えるべき課題とは何か。ジェイムズが「作者は読者を作り出す」と述べたように、新しいワザは新しい読み方を生み出す。
〈そこで、フィクションの修辞学における究極的な問題は、作者は誰のために書くべきかを決めるという問題になってくる。〉〈今必要なことは、以前の様式を単に蘇らせることではなく、「純粋な形式」と「道徳的内容」との間の気紛れな区別をすべて退けて、読者のために形式と内容の一致を実現する修辞的手段を講じることである。〉〈作者が読者をうまく創り出せば(つまり読者がそれまで知らなかったようなことを知らせ、知覚と経験の全く新たな秩序へと彼らを導くならば)、作者は、みずからが創り出した同輩としての読者という形で、その報いを見出すことになるのである。〉
……ということで、この本は結ばれるのですが。
注意しておきたいのは、ラボックとブースの四十年の間には、「小説」をめぐる環境が激変している、ということです。『ユリシーズ』(一九二二)や『ダロウェイ夫人』(一九二五)や『フィネガンズ・ウェイク』(一九三九)といったモダニズム文学は当然、前者の対象ではないし、映画もトーキーではなかった(ミステリの「黄金時代」についていえば、ようやくクリスティが『スタイルズ荘』一九二〇でデビュー)。
ブースの議論が画期的だったのは、まず、方法としての「語り」を擁護したことでしょう。いかに小説の文章が読者に「映像的」な印象を与えたとしても、それらはしょせんすべて言葉でできたものであって、「映像的な文章」とは「語り」が「映像」を模倣したものにすぎない。言葉は映像ではない。小説が言葉でできているかぎり、「語り」は必ず残る。したがってshowingがtellingを駆逐する、ということはないはず(実際、「臨場感」「客観性」「作者の退場」を小説進化の唯一の道としたならば、トーキー&カラー映画の登場に小説は当然負けて「古くさいメディア」と見做されることになったのではないか?)。
また、「作者」と「語り手」を明確に区別したのも、当時にあってはやはり重要です。カミュ『転落』、セリーヌ『夜の果てへの旅』、ナボコフ『ロリータ』などでいかに語り手が非道徳的なことを述べようとも、そこにアイロニーが働いているかぎり、語りは「額面通り」ではなく、様々な意味に揺すぶられている。「信頼できない語り」を用いる利点はおそらくそこにある。
しかし、こう見てくればわかるように、『フィクションの修辞学』でのブースは、「語り手が聞き手に意識的に嘘をつく場合」、特に本格ミステリ的なそれをほとんど議論していません(当たり前ですが)。ジェイムズの「嘘つき」などのように、語り手が無意識的・欺瞞的に作中現実と異なることを述べる場合が、同書では主な対象となっているのです。しかし当然、笠井潔『探偵小説と叙述トリック』で採りあげたように、「語り手が意識的に嘘をつく場合」はジェイムズ以前からある。記述者=犯人型の「叙述トリック」について検討したい本稿の主眼もそこにあるわけですが、「信頼できない語り」という概念が登場した背景を確認するにここでは留めておき、それらについてはこの後、シーモア・チャトマン、また「メタフィクション」についての章でパトリシア・ウォー、マリー=ロール・ライアンなどの議論を紹介する箇所で触れることになるでしょう(「意識的に嘘をつく語り手の内面的必然性」について詳しく知りたいという方は、『フィクションの修辞学』よりも『探偵小説と叙述トリック』の方が参考になると思います)。
それに関連して一点。
以上の概略では「作者の退場」について主に眺めてきましたが、それ以前には、「作者の劇化(=前面化)」とでもいうべき系譜があり、『フィクションの修辞学』の中盤(第二部)はその検討にあてられています。特にヘンリー・フィールディングが流行った1700年代半ばにはその模倣者が続出し、有名な怪作ロレンス・スターン『トリストラム・シャンディ』(1759-67)も登場。ちょうどその頃に出た作者不詳のThe History of Charlotte Summers, the Fortunate Parish Girl(『シャーロット・サマーズ』)という小説ではセルバンテス~フィールディング流の筆法が模倣されたといい、なかなか興味ぶかいものがあります。たとえば場面転換はこんなふう。
【私は、読者の皆さんにシャーロット・サマーズ嬢を紹介いたします前に、彼女の友人の何人かと知り合いになっていただきたいと存じます。……このために、皆様には、ウェールズのカーマーゼン州まで御足労願いたいのです。この旅行、たいそう長いものでございますし、通常の旅行のしかたでは数日かかってしまいましょう。が、私ども作家と言うものはいつも簡便な空飛ぶ馬車を用意してございまして、それを使えば、たとえ私どもがここで始めようとしております旅よりもはるかに長いものでも、読者の皆様をたちどころに運んでしまうのでございます。私どもは魔法のようなものの大家でして、呪文を唱えさえすればあっという間に、皆様方はたまたまその時なさっていた姿勢そのままで、私どもの望む場所に運ばれているという次第です。もうすでに魔法の効果をお感じになりませんか。この旅行はもう終わりました。そして私達は、今まさに、尊い樫の木に囲まれた、堂々たる古い屋敷の門の前に到着したのです。……どうぞお入りください。】
まるで催眠術師のような言葉遣いですが、なぜ、「作者」にはこのような物言いが可能なのでしょうか。思うにそれは、小説を読むという行為が、様々な「フリ」によって支えられているからではないでしょうか。書物(あるいはデバイス)で読んでいながら読んでないフリ、文字を認識しているだけにもかかわらず「語り」とか「声」などとあたかも聴覚で認識しているかのようなフリ、フィクションでありながら現実であるかのようなフリ、終わった出来事でありながらリアルタイムであるかのようなフリ……と、複数のレベルにおける「フリ」が複雑に絡み合った行為として小説読解は成立するにもかかわらず、ふだんはそんなことは誰も気にしません。だから、こういう「おちょくり」が可能になる。「作者の劇化」がいったん流行遅れのものとして廃れ、フロベール~ジェイムズ流のリアリズム(「作者の退場」というフリ)が「小説の約束事」として規範化されるようになると、やがてその反動として「作者の劇化」というおちょくり=約束破りが再び流行りだす……という光景は、いわゆる「ポストモダン文学」に触れたことのある方なら、ややこそばゆいような懐かしい感覚を覚えるものではないでしょうか。そしてそれこそまさに、「映像化不可能」な、小説特有の機能を利用したものでもあったのです。
こうした「フリ」ということを念頭におかないと、のちに触れる一人称や地の文の問題――たとえば「一人称ハードボイルドの語り手はいつ・どこで語っているのか?」というような疑問――も難解になってしまうような気がします(それについては、あとで法月綸太郎~市川尚吾の議論の項でご紹介します)。
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