3-2 語ること(telling)」と「示すこと(showing)」ーーパーシー・ラボック『小説の技術』
ウェイン・C・ブース『フィクションの修辞学』は「信頼できない語り手」の概念を提出した一冊ですが、その議論に至るには前史があります。
ブースが同書で主な批判対象の一つにしていたのが、イギリスのパーシー・ラボック『小説の技術』(一九二一)です。今では非常に悪名高い一冊として知られてしまっていますが、日本語版の訳者・佐伯彰一はこの本と出会った頃の状況について、あとがきで次のように書いています。
【多くの小説論議は、じつは、小説論ではないのです。たとえば、多くの人たちは、もっぱら〈ジュリアン・ソレル論〉をやりたがります。彼という人間の生き方や性格を論じたり、あるいは彼の〈エゴチスムの歴史的な限界〉などについて語るのです。いや、それが無意味というのではありませんが、それでは《赤と黒》を素材とする人間論、性格研究、あるいは文学的社会学というにすぎません。また或る人々は、ジュリアンと作者スタンダールとの関係にもっぱら関心を集中いたします。主人公がいかに作者そのままであるか、またないか、という、問題です。ジュリアンはスタンダールの一面の拡大であるとか、ひそかな欲望の結晶化であるとか、いや裏返しであるとか――これまた〈スタンダール伝〉あるいは〈スタンダールにおける創作心理の研究〉には不可欠な問題でしょうが、肝心の《赤と黒》は、ここでも単なる素材と化しております。では、小説そのものを、どうして論ずるか、これが本書の主題です。〈小説を論じない小説論〉が多すぎる、とかねて考えていた僕が本書に惹きつけられた理由の一つは、ここにあります。】
つまり、それまでは小説論というと、内容論が多かった。そこに形式を論じるものが出てきた。それが新鮮だった。
ラボックが『小説の技術』で攻撃しているのはトルストイ、特に『戦争と平和』です。『戦争と平和』はテーマもスケールもセンスもすごい。まさにトルストイという天才にしかなしえない仕事といってよい。でも小説技術という点ではどうか? 視点があちこちに移って一貫性がない。前半と後半はまるで別の小説だ。「戦争と平和」というテーマからはみだす部分も多い。作者の声(三人称地の文)が語りすぎてうるさい――。代わりに称揚されるのが、ヘンリー・ジェイムズ、そしてその先駆としてのフロベール。たとえば視点を一人の人物に制限した三人称(現在の小説技術指南書では「一人称寄り三人称」などと呼ばれるもの)は単純な一人称とも三人称とも異なる絶妙な効果を発揮している。小説を読んでいて「作者」がでしゃばりすぎると興醒めしてしまう――云々。
小説の「形式」に着目するこうした議論は、直接的にはそれ以前、フロベールや、ヘンリー・ジェイムズ(特にニューヨーク版全集に「序文」として執筆〔一九〇七~一九〇九〕した自作解説)による流れを引き継いでいます。
そしてラボック的な見方はのちに、プラトン/アリストテレス以来のディエゲーシス(叙述)とミメーシス(模倣)の区別に関連する、telling(語り)に対するshowing(提示)の優位として、一時期、支持者を持ったようです。極端に要約すれば、「作者」が地の文で直接あれこれと語るのはダサい、ホンモノの小説家の仕事とは作品の内部において重要な事柄をそれとなく示すことであり、「語り」よりも「提示」こそが小説技術の発展だ、というような主張です。
実際、ラボックが依拠したヘンリー・ジェイムズの議論を読むと、そこではtellingについてはほとんど割かれていません。むしろジェイムズが重視しているのは、絵画的な描写(静的な描写)か演劇的な描写(動的な描写)を場面によってどう効果的に使いこなすか、であるかに見える。そこからジェイムズは自作をキャンバスや劇場に喩えることにもなる。絵画にしろ演劇にしろ、たしかに基本的に「作者」は姿を現さない。よく言われるように、これはジェイムズが主要テーマとした上流階級や社交界といった題材とも関係しているのでしょう。つまり、社交的な会話においては、ナマの声は避けられる。言葉の表面的な意味と真の意味とは必ずズレたものになる。誰も「作者」のように現れて「京都ではぶぶ漬けといったらどうたらこうたら」などと「真の意味」を直接説明などしてはくれない。したがって言葉の受け手は、自ら能動的に言葉の真の意味を解釈しなければならない。ジェイムズもまた、『戦争と平和』を「ぶかぶかの化け物」と呼んでいます。にもかかわらず、トルストイの小説には「生命力」がある……そんな両義的な評価です。
この、「語ること」と「示すこと」の対比は、今後も本稿では重要なので、覚えておいてください。
『小説の技術』が登場した一九二〇年代、詩の批評を作品の外の伝記的・社会的・歴史的事情ではなく、作品そのもの(内容と形式)から論じようとした、ニュー・クリティシズムが英米では興り、その方法がのちに小説批評にも応用されます(いっぽう同時期、一〇~三〇年代のロシア・ソヴィエトではフォルマリズムも盛んになり、物語論の源流となります)。
そうした流れの中で、telling(語り)を強力に擁護する論者としてブースが登場します。
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